第四部「親友の死」
辺境での日々は、ひとまずの区切りを迎えようとしていた。だが、それは平穏への区切りではなく、次の局面への区切りだった。
国境をまたぎ、辺境の屋敷に戻ると、ジェーンが慌ててパットンを出迎えた。
その表情は、いつもの落ち着いた彼女のものではなかった。
頬は青ざめ、両手を胸の前で握りしめている。
屋敷の入口に立つ姿だけで、何か尋常でないことが起きたのだと、誰の目にも分かった。
「王子!」
その声は、いつもとは違う緊張が滲んでいるので、パットンは思わず駆け寄って理由を聞いた。
「どうした? ジェーン、取り乱すなんて君らしくないぞ」
「ヴァレン殿下から、直々に王都へ戻れとの連絡がありました」
「取り乱すわけだ。わかった……。とりあえず屋敷の中へ入ろう」
パットンは歩きながら、問題に頭を抱えた。
このタイミングでのヴァレンからの直接の呼び出しは、良い知らせであるわけがない。
部屋に入り鍵をかけると、「他に何かあったのか?」とパットンが聞いた。
いつもは冷静なジェーンが、どうにもソワソワしてるせいだ。
それはカックラウも気付いており、不審に思って眉を寄せていた。
ジェーンは一瞬、言葉に詰まった。
視線がパットンからグライムへと移る。
彼女はグライムの手を握り、真っ直ぐに目を見た。
その手は、かすかに震えていた。
「ジェーン?」グライムは戸惑いながらも、軽口を叩いた。「告白なら、邪魔者がいるぞ」
グライムはパットンを顎で示して茶化した。
だが、ジェーンの手を握る力が、さらに強くなった。
その強さに、グライムは何かがあったのだと悟った。表情から軽さが消え、一度唇をきつく結んだ。
それを見たジェーンは、おもむろに口を開き、話し始めた。
「いい……グライム。よく聞いて。絶対に取り乱さないで……」
「パットンじゃなくて、オレか」
グライムは、何が起きているのか、まったく見当がついていなかった。
何かあるとすれば、それは妻を人質に取られているパットンだと思っていたからだ。
自分に直接関わることだとは、思いもしていなかった。頭の中で、いくつもの可能性が浮かんでは消えていく。
だが、どれも当てはまる気がしなかった。
「ええ」ジェーンは深呼吸を一つ挟んだ。「いい? 気をしっかり保って……」
その言葉が、部屋の空気を張り詰めさせた。
廊下の灯りが、風もないのに、わずかに揺れたような気がした。
「ボンドが死んだわ」
ジェーンの声は静かだった。
だが、なによりも大きな音でグライムの鼓膜を震わせた。
このタイミングだ。
誰が聞いても、ヴァレンの手の者が殺したのだと分かる。他に考えようがなかった。
グライムの頭の中に、様々な記憶が一瞬で駆け巡った。
宝石商に扮して笑うボンドの顔。愚痴をこぼしながらも、確実に仕事をこなしていたあの姿。
パットンは、グライムを背中から抱きとめた。彼が怒りに任せて暴れると思ったからだ。
だが、実際は違った。
グライムは気絶したかのように、全身の力が抜けていた。
膝から崩れ落ちそうになる体を、パットンの腕が支えていた。図らずも、パットンの抱きとめは、彼を助けることとなった。
グライムの視界がぼやけ、周りの音が遠くなった。
ジェーンの声も、パットンの呼吸も、すべてが一枚の薄い膜を隔てているように感じられた。
グライムは、自分の中の何かが音を立てて崩れていくのを、他人事のように感じていた。
部屋の中に、長い沈黙が落ちた。
ジェーンは目を伏せ、それ以上は何も言わなかった。
窓の外では、いつも通りの夜が続いていた。何も変わっていないように見える世界が、グライムにはひどく異様なものに感じられた。
しばらくして、グライムは自分の足で立ち上がった。
膝に力を込め、体を支え直す。その動きには、どこか無理やり自分を奮い立たせているような硬さがあった。
「大丈夫か?」パットンが訊ねた。
「ああ……。こういう生業だ。お互い覚悟はついてた」
グライムは一度目を閉じて開くと、いつもの表情に戻っていた。
「それより……ジェーン。どうやって知った? ボンドの死を」
「王都から早馬が届いたの。表向きにはヴァレン殿下からの直々の帰還命令と一緒に。あなたへの警告のつもりよ。単なる添え書きの扱いだった」
「添え書き……」
グライムはパットン宛ての帰還命令書を彼より先に目を通したが、それを咎めるものはここにいなかった。
ボンドの死は直接は書かれていない。
一つの事件が解決した。パットン王子の憂いをなくすものが消えたので帰還するようにと書かれており、その事件の黒幕が城に何度も侵入を繰り返していた宝石商。
ボンドがマリアの様子を見に城に忍び込むときによく使っていた職業だ。
ボンドの死は、ヴァレンにとって、取るに足らない出来事の一つに過ぎない。
その扱いの軽さこそが、何よりも雄弁に、事件の背景を物語っていた。
「ヴァレンめ……強硬手段に出たな……。こっちが真実に近づいたのを悟られたか……。見ろ、王都帰還命令書には、オマエを無傷で連行してこいと名指しで書かれている」
パットンは命令書を確認し、全文読めとグライムに突っ返した。
そこには、グライムを傷つけずに連行するようにという一文が、はっきりと記されていた。
「どうやら、リィーイヤ王国で色々探られたのが厄介らしいな。でも、これでわかった。オルドレン王子に送られたルミナス暗号に記された暗殺指令。あれは、パットン……アンタに向けてだ」
「まさか、私を疑ってるのか」
「――ように仕向けた」グライムは首を振った。「ヴァレンは、オレがルミナス暗号を完全に解くと思っていたんだ。つまり……オレは期待外れ。負けたがゆえに、勝ったということだ……」
グライムは苦い表情で、歯を食いしばりながら言った。
「だが、私はそれで助けられた……」
パットンは言葉を選ぶように言った。
しかし、その先をパットンは口に出すことができなかった。『自分が助かった為の犠牲がボンドだった』という言葉を。
それはボンドがグライムの親友だったから、というだけではない。
パットン自身も、ボンドとの間に、いつしか友情のようなものが芽生え始めていたからだ。
「パットン、あんまり気にするな」
「そうもいかないだろう。ボンドに思うところがあるのは、オマエだけじゃない」
「悪かった。言い方を間違えた。気に病むな。これは、ヴァレンに負けっぱなしじゃないから起こったことだ。辺境で起こったことを思い出してみろ。リィーイヤ王国に行く前のだ」
グライムに言われ、パットンは辺境に来てからの日々を思い返した。
国境の山賊問題は、思ったよりも早く解決した。
ヴァレンの関係者である、オットーという元暗殺者の司祭の存在が明るみに出た。
地図にない村で、ヴァレンが魔道具を作らせていたことも突き止めた。
辺境での躍進はグライム達の勝ちと言っていいだろう。
だが、二人が辺境を越えて、隣国に滞在したことによる国への不在が、一度、勝ち負けを白紙に戻してしまったのだ。
白紙に戻ったチャンスをヴァレンは見逃さなかった。作戦を立て直したのだ。
裏で手を回し、金庫を送りつけて、グライムにわざとその存在を気付かせた。
あのルミナス暗号の本来の役目は、オルドレン王子を暗殺し、そのきっかけで何らかの作戦が実行されるはずだった。
グライムの読みでは、後に起こる王位継承争いで、パットンが他国を利用したことにして、邪魔者の排除とルミナス暗号の作成の罪を、死ねてパットンになすりつける予定だった。
ここまでの話を聞いて、パットンは息を呑んだ。
「私に……そこまでの罪を着せるつもりだったのか」
「筋書きとしては、綺麗にまとまる。他国の王子を、他国に出向いた第三王子が暗殺に関与した。同盟関係にひびが入り、王位継承の場でパットンの評判は地に落ちる。ヴァレンにとっては、一石二鳥どころか三鳥にも四鳥にもなる筋書きだった」
「実に、あの男らしい発想だ。狡猾な……」
「でも、こっちに色々気付かれたせいで、ヴァレンは作戦を変更した。いや、するしかなくなったんだ」グライムは続けた。「オレに金庫の存在を気付かせて、ルミナス暗号を解かせようとした。オレがその場でパットンの名前を出せば、ヴァレンの勝ちは盤石なものになった。だけど、オレが誰が暗殺するかまではわからなかったせいで、新たな作戦も失敗に終わった」
「つまり……」
「つまり、オレとヴァレンの知能戦は、負けと負けによるイーブンへと持ち込まれた。それで、仕切り直しと、王都へ戻すことにしたんだと思う」
「なぜ、仕切り直しを選ぶ」
「これ以上、パットンが隣国で影響力を持つことを、ヴァレンは気にしたんだろう」
国境の山賊は、今ではパットンの私兵の一つとして、警備隊となっている。
魔道具を作っていた村も、パットンが正式な手続きを踏んだおかげで、存在を隠すことなく、国からのサポートを受けられるようになった。だからこそ、彼らはなにかあったときにはパットンの味方についている。
そして、リィーイヤ王国の王子の一人――オルドレン王子と、グライムという共通の話題を通して、パットンは急速に彼との仲を深めていた。
「オレの知能以上に、パットンの影響力のほうが厄介だと、ヴァレンは判断したんだろうな」
「私の……影響力か。私には、そんな大それたものがあるとは思えないが」
「自覚がないのが、一番厄介なんだよ」グライムは苦笑した。「本人が気付かないうちに、周りに味方が増えていく。それに、オレも影響を受けてる」
「だとしたら、今ごろオマエは城で立派な兵士をやってるはずだ」
「わかってないのか? ヴァレンはオレがアンタのためにここまで動くとは思ってなかったんだ。だから読み間違えた」
パットンは何かを言いかけたが、結局、何も言わなかった。
代わりにグライムが続けた。
「考えてみれば……。オレが目立って動けば動くほど、ヴァレンの警戒はオレに向く。だが、その裏でパットンが淡々と積み上げてきたものは、誰の目にも留まりにくい。警備隊、魔道具の村、オルドレン王子との関係。どれも地味だが、どれも簡単には崩せない」
「地味か……どうも褒められている気がしないな」
「褒めてるんだよ、これは。派手な手柄より、静かに積み上がったもののほうが、後々効いてくる。ヴァレンはそれを、オレよりずっと早く見抜いたんだろう」
「そう考えると、余計に恐ろしい男だな……。私自身がまだ気付いていない強みを、向こうはすでに計算に入れている」
「そろそろ化けの皮の一枚でも剥がしておかないとな」
「出来るのか?」
「無理だろうな。このタイミングで王都に戻されるのは、完全に向こうの流れだ。それにこっちはカードどころかディーラーを失ったようなもんだ。せめて王女に化けてくれてりゃいいのに」
「関係あるのか?」
「化けの皮の代わりに、ドレスをめくるからな」
「いつもの調子に戻ったと思えば……」
グライムはすっかり飄々とした態度に戻っていたが、パットンはなにか嫌な予感がしていた。
そして、それは現実のものとなった。




