第二部「金庫の強奪」
馬車が見えてきたところで、異変に気づいたのはカックラウだった。
鼻先を上げ、足をぴたりと止める。
「お二人ともお待ちを……。何か……焦げたような臭いと、血の臭いがします」
グライムがすぐに駆け出すと、カックラウがあっという間に追い抜き先導した。
パットンとオルドレン王子も護衛を伴って走った。
馬車の周りには、御者と護衛が地面に倒れていた。
息はある。だが意識はない。頭や首の後ろに、鈍器で殴られたような跡が残っている。地面には争った跡があり、蹴り上げられた土埃がまだ舞っていた。
そして、離れた馬車の荷台では――幾つかの人影が、金庫を取り囲んでいた。
覆面をした四、五人組だ。
うち一人が金庫の留め具に何かの道具を差し込み、必死にこじ開けようとしている。
だが、留め具の光は消える気配がない。魔法錠の存在を知っていないようだった。
いくら力を入れても、びくともしていなかった。
「開かない……! くそ、なんでだ!」
覆面の一人が苛立った声を上げた。
「貸せ! 下手くそが!!」
もう一人が焦った様子で道具を替え、鍵穴に力任せに突き立てるが、金属が軋む音がするだけで、錠は開かない。
額から流れる汗を袖で拭いながら、その男は舌打ちをした。
それを合図にしたように、他の面々が金庫ごと持ち上げにかかった。中身を盗み出すことを諦め、金庫そのものを丸ごと持ち去る方に切り替えたのだ。
グライムとカックラウが馬車に駆けつけた時には、犯人グループはすでに金庫を担ぎ上げ、自分たちの荷馬車に積み込んでいるところだった。
「待て!」
カックラウが叫んだが、荷馬車はすでに動き出していた。土埃を巻き上げながら、路地の向こうへと走り去っていく。車輪の音が石畳に響き、あっという間に角を曲がって見えなくなった。
カックラウは地面を蹴って追いかけようとした。だが、グライムがその肩を掴んで止めた。
「放っておけ」
「なんだと?」カックラウが振り返り、噛みつくように言った。「目の前で盗まれたんだぞ! あそこまで見えていて、追わないなんてあり得ない」
「魔法錠の金庫は、魔力痕から追跡できる。この国の魔力システムなら、開けられない金庫を持っていかれても、捕まるのは時間の問題だ。無理に今追って、こっちが怪我をするほうが割に合わない」
「……信じろっていうのか」
「信じなくていい。だが、今追いかけて捕まえられる保証もない。あの荷馬車は初めから逃げ道を用意していた動きをしてた。土地勘のある逃げ方だ。追っても撒かれるだけだ」
「それでも、だ」カックラウは低く唸るように言った。「オレはこの国で客人として動いてる。目の前の犯罪を見逃して平気な顔をしてられるほど、図太くない」
「気持ちは分わかる。だが今は、感情より計算を信じろ。王子二人を置いて追うつもりか?」
「悪い……暴走した」
「ここにはオレがいる。パットンと殿下を」
「わかった」
カックラウは二人を案内するために来た道を戻っていった。
オルドレン王子が息を切らして追いつくより先に、グライムは倒れている護衛のそばに屈み込んで現場検証をしていた。
頭部の傷を確かめ、殴打の角度を見る。それから、荷台に残された金庫の設置跡を指でなぞった。
「殴られた跡は、後ろからの一撃だ。不意打ちに慣れてはいるが、殺す気はない。峰打ちに近い加減がされている」
「それはどういう意味だ?」
カックラウが訊ねると、グライムは立ち上がりながら言った。
「本気で人を殺す覚悟がある連中じゃない、ということだ」
グライムは荷馬車が去っていった路地に目をやった。
轍の跡が、石畳の隙間に残っている。轍の幅、車輪の間隔。街の外へ向かう道筋にしては、妙に細い道を選んでいた。表通りを避け、人目につかない裏路地を熟知した動きだ。
「素人にしては、逃げ方だけは慣れている。金庫を開ける腕はなくても、この街の裏道には詳しいらしい」
「それが何の慰めになる」
カックラウが苦い声で言った。
「慰めじゃない。手がかりだ」
カックラウは納得のいかない顔のまま、走り去った荷馬車の方向を睨みつけた。
目の前で起きた失態を、まるで自分の落ち度のように感じているのが、その背中からも伝わってくる。
やがて息を切らして追いついてきたオルドレン王子に、カックラウは深く頭を下げた。
「申し訳ありません。取り逃がしました」
「いや」オルドレン王子は逆に礼を言った。「この国で起きたことだ。むしろ、こうして真っ先に駆けつけてくれたことに感謝する。君たちが騒いだおかげで、犯人の姿を大勢の兵士が見かけることができた。捜索も追跡もしやすくなる」
「ですが……」
「気に病むことはない。この国の治安の問題は、この国の兵が片付けるべきことだ。君が背負う必要はない」
カックラウは何か言いかけたが、それ以上は言わずに飲み込んだ。
腑に落ちない、という顔のまま。
倒れていた御者と護衛には、すぐに手当てが施され、間もなく意識を取り戻した。
事の次第を上に報告するため、カックラウは兵舎へと向かうことになった。
しばらくして、報告を終えて戻ってきたカックラウが、グライムに一部始終を告げた。
オルドレン王子が礼を言っていたこと。多くの兵士が犯人の姿を目撃したと、上に伝えられていること。
「覆面をしてたんだぞ。大勢の兵士が確認したところで、意味がない」
グライムは呆れたように言うと、カックラウは苦笑いを浮かべた。
「わかっている……。殿下の手前、水を差すのもどうかと思ってな」
「報告しなかったってことは。ニオイも当てにならなかったか?」
「複数人がいた。現場の混乱のせいで、汗や埃、色んな臭いが散乱してた。あの状態じゃ、まともに追えるものが残ってない。せめてなにか落としていればよかったんだが……」
グライムは軽く頷いた。それから、少し口の端を上げた。
「まあ、オレとしては犯人を褒めたいところだ」
「褒めるだと?」
カックラウが片眉を上げる。
「どうやってあの金庫を開けるつもりなんだろうな。魔法錠がかけられた金庫を盗んだってことは、どうにか開けられる方法を持ってるか、手がかりを知ってるってことだ」
カックラウは呆れた顔でグライムを見たが、なにを言っても無駄だと判断するとため息一つで話を打ち切った。
その日の夕方、グライムは一人で市場の外れを歩いていた。
表向きは事件の続報を確かめるためという理由をつけていた。
だが実際には、昼間の一件を頭の中で整理し直したいという気持ちが大きかった。
金庫の中身。
届いたタイミング。オルドレン王子自身にも心当たりのない贈り物。
そこに、素人臭い一団による強奪未遂が重なった。
関連があるのかないのか、今の時点では判断がつかない。
だが、こういう時ほど、偶然を偶然のまま放置すると後で痛い目を見る。
市場の屋台はすでに灯りを落とし始めていた。人通りもまばらになり、昼間の喧騒が夜の喧騒に紛れつつある。
グライムは足を止め、片手で首の後ろを揉んだ。
誰かが付けてくるのに気付いたからだ。
だが、人通りの少ない路地に差し掛かった時、背後から複数の気配が近づいてきた。
振り返る間もなく、口元を布で塞がれ、両腕を後ろに回されて拘束される。
抵抗する暇もなく、グライムは物陰へと引きずり込まれた。




