第三部「それぞれの夜」
その日の夜が更けた頃、パットンはマリアの私室を訪ねた。
中に入ると、室内はすでに仕事の終わりに近い静けさに沈んでいた。
灯りは抑えられ、机の上だけが必要最低限に照らされている。
そこにはいくつかの書類が積まれていた。読み終えたものと、まだ手を付けていないもの、その境界が曖昧なまま並んでいる。
マリアは顔を上げないが、パットンの存在に気づいていないわけでもない。
彼が話しかけるのをいつものように待っている。
パットンは机の前まで歩み寄り、椅子に手をかけたまま一度止まった。
そして、長い沈黙を響かせてから「やあ」と声をかけた。
「今日はずいぶん声を掛けるまで長かったのね。初めてのデートを思い出すわ」
マリアの言葉に少しだけ眉間のシワを緩めると、パットンは短く息を吐いた。
そして、座ると同時に、ここへ来た理由が形を取り始める。
報告ではない。確証もない。
ただ、切り離して扱えなくなった違和感だけが残っている。
「預けることにした……」
パットンは短くそう言い、それ以上は続けなかった。
その言葉だけで足りる領域であることを、互いに知っているからだ。
マリアはすぐには反応しなかった。
手元の紙を一枚だけ整え、端を揃える。その無駄のない動作が終わってから、ようやく顔を上げた。
視線は鋭くも柔らかくもなく、ただ、与えられた言葉をそのまま受け取り、重さを量っている。
「預ける、のね」
繰り返された語は同じでも、置かれ方が違う。
それだけで、言葉の意味がわずかにずれる。
パットンには諦め、マリアには確認の意が入っていた。
「ああ……。もう城から出ることはない預かりものだ……」
「そう」
「ああ」
それっきりパットンは黙った。
マリアはその沈黙をそのまま受け取り、机の上へと視線を落とした。つられてパットンも視線を追う。
積まれた書類の中に、向きの揃っていない一枚が混ざっていた。
マリアはそれを直すことなく、愛おしそうに紙の端に触れた。
「グライムは預かりものじゃないでしょう?」
「なんでアイツの名前が出てくる」
「あなたにとって、この書類と一緒だから。積み重ねられた上辺の嘘の中に交じる、一つだけの真実よ。そして、彼は上辺に紛れることも出来る」
マリアは書類の向きを戻すと、全てを束ねてテーブルに置いた。
「彼もそのうち気付くわよ。それとも気付かせたいの? 私に愛の告白をさせた時みたいに」
「マリア……」
「わかってるわ。それがわからないから、こんなに遠回りしてるんだもの。妬けちゃうわ」
「グライムが私の乗っていた馬車を襲ったのは……絶対に偶然ではない……」
「必然ってこと?」
「自然だ。自然にあいつは山賊と呼ばれるようになった。馬車の襲撃一つでな。この国の内情をなにも知らなかったら、そんなバカなことをは起こさない。……奴はなにかを知っているはずだ」
「教えましょうか?」
「聞いているのか!?」
「あなたを信用しているのよ。少しだけ、他の王子たちよりも」
「利用と言うんだ。それに、その話を城でするのは危険だ……」
「グライムにとって利用は信用と一緒だと思うわ。今度は正式な場で食事を一緒にしたいわね」
「マリア……君まで危険に晒したくはないんだ」
「ええ……わかってるわ。だから、今夜はゆっくり休みましょう。頭を使いすぎると、疲れて」
マリアは書類をしまうと、パットンをベッドの縁に座らせるように促した。
甘えるようにベッドへ誘われた彼だったが、ベッドに倒れ込む前に急に姿勢を正した。
「待った……。今『今度は正式な場で』と言ったな。隠れて一緒に食事をしてたんだな」
「肉球ちゃん……頭を使いすぎよ」
「隠れて食事をしてたんだな」
マリアは小さく息をつき、口元だけでわずかに笑った。
それ以上パットンが追うことはしない。
変わりに「こいつめ」と彼女をベッドへ押し倒した。
言葉を重ねれば説明になるが、いま必要なのは説明ではなく、理解されたという事実だけだからだ。
同じ夜。グライムは窓を開けたまま、裏通りを眺めていた。
月明かりが石畳を白く照らしている。さっきまで怪しげな手押し車が走っていた路地だが、今は何もない。
ただ、石畳が光を返しているだけだ。
「おお、良い酒だ! やっぱ王族ってのは気前がいいな」
ゴブリンのボンドが、高級ワインを手にとってテンション上げた。
「口止め料みたいなもんだ。気にせず飲めよ。オマエにはその権利が十分にある」
「どういうことだ?」
「数ヶ月前にゴブリンの集落にあった地震。ありゃ人工的なもんだ」
「どういうことだ? 次も同じセリフを言わせたら、縁を切るぞ。もったいぶってバカにはされるのは嫌いなんだ……」
「継承者争いに巻き込まれたってことだ。今回の件、国が預かるって言ったのは、それ以上オレに調べさせないためだな。足を踏み込めば、他の王子が出てくるっていう警告でもある」
「なるほど……口止め料に酒を送ったってことだな。王族もやること、庶民の賄賂と変わらねぇんだな」
ポンッとワインのコルク栓が抜ける音が響くかが、グライムが顔を上げることはなかった。
ボンドはコップに注ぐことなく、水のように高級ワインを飲んだ。
ゴクゴクと喉を乗らす音が夜風に混ざる。
グライム考えていた。
パットンの言動や表情を、グライムは頭の中で何度も思い出しては、同じシーンを繰り返す。
この国が、内側から壊されようとしているかもしれない。
それも身内によって。
国家崩壊を恐れているの関係者は、パットンだけとは限らない。
だが、城の中で何かが動いているのは確かだった。
王族の間で、あるいはその周辺で、“誰か”が“誰か”を出し抜こうとしている。
グライムの口の端が、少し動いた。
パットンが乗った馬車を襲ったのは、間違いなかった
捕まえられたのは想定外だったが、逆にそれが答え合わせにもなっている。
パットンは自身が乗っていた馬車を襲われたことを、“誰か”に知られたくなかったのだ。
だからグライムは誰も知ることない特別な地下牢に幽閉された。
そして、隠されるか闇に葬られる存在の自分に、今協力を求められているのは、確実にそのお城の面倒事の一端である事件の解決だ。
グライムはボンドからワインの瓶を奪い取ると、喉を鳴らして月を見上げた。
「悪くない夜だ」
「なにカッコつけてんだ」
ボンドの嘲笑に、グライムは気持ちの良い笑顔で返した。
「そう正に括弧付きだ。王子の括弧にはなにがついてる。そいつを暴くのが先か、お宝が先か……。なっ? 悪くない夜だろ?」
「待った……なんでこんな話を話した?」
「悪くない夜だ」
「共犯者にするつもりか? そうなんだろ! おい聞けよ!! 聞けったら!!」
グライムはボンドに背中を叩かれながら、少し窓から身を乗り出して隣の部屋を覗いた。
明かりの消えた主人を失った部屋から、北方の風が吹き抜けた気がした。




