第三部「影の歪み」
「まず、この部屋に入ったら、ひたすら自分の魔力を放出し続ける。抑制の術式が仕込まれたこの壁や床に、あえて自分のすべての魔力を吸わせるんだ。そうして意図的に完全な魔力枯渇状態を引き起こす」
「魔力の枯渇は危険だ。魔力回路が復活するまで数日かかる」
「それは職業で魔法を使う奴の意見だ。牢屋に捕まってるやつがそんなこと気にするか? それどころか、むしろ好都合なんだ」
「なるほど!? 魔牢のコストか!」
「そうだ。その状態で『手違いで魔法を使えると誤診されただけで、本当は魔力なんて持っていない一般人だ』と主張して、無実の証明を呼びかける。この最高級の魔牢ってのは維持するだけで莫大なコストがかかるもんだ。魔法が使えないと分かった人間を、いつまでもこんな場所に置いておくほど上層部も暇じゃない。やがて普通の牢へと移される。――あとは、数日待って体内の魔力が全快したところで、その普通の牢を魔法で爆破して悠々とオサラバだ」
グライムが格子に向かって手をかざすと、パットンの声が飛んだ。
「待て、魔力鑑定の手違いなどそう起きるものではない」
「だから、そこが組織の盲点なんだよ。鑑定のミスは、お偉いさんの書類仕事の一枚や二枚、いくらでも誤魔化しようがある。書類ってのは確認する部署が多いほど、細工をしやすいもんだ。要は、この防壁の維持コストが高すぎるせいで、管理側が『魔法の使えない奴をここに置いておきたくない』っていう心理的な誘導に引っかかるってことさ」
パットンはグライムの背中を凝視し、それから低く問いかけた。
「なるほどな……キバという男は、それで脱出したのか?」
「いいや」
グライムはあっさりと首を横に振った。
「さっきの資料にあったろ、奴はここから消えたんだ。普通の牢に移送されたなんて記録はどこにもない。つまり、奴はここに入ったまま消えてる」
グライムは再び歩きだし、鉄格子の向こうの衛兵をちらりと見ると言葉を続けた。
「もう一つの方法だ。毎日出される魔力抑制薬。その形状は? 液体か? 個体か?」
「粉です。魔女薬なので、かなり苦いと聞いています。水と一緒に出すのが通常です」
「読み通りだ。飲む時、その水に自分の血を少しだけ混ぜて飲む。石の牢屋だ指をちょっと傷つける方法はいくらでもあるからな。自分の血を一緒に流し込むことで、血に含まれる本人の魔力と薬が体内で反応し合って、制御する効果がほんのわずかに薄まるんだ」
パットンは首を横に振った。
魔力を持つ者の血を口から飲むことにより、口から摂取した魔力的毒効果を無効化出来るというものだ。
「それは知っている……魔法使いの禁忌の歴史の一部だ。戦争逃れのため、国が作った薬の効果を向こうにするためのな。コップ一杯の血だと聞いてるぞ。無理だろう」
「一滴二滴の話だ。一度や二度じゃ何の影響もないが、毎日毎日、それを執拗に続けてみろ。少しずつ魔力は回復してく。そうやって長い月日をかければ、いずれこの魔牢が制御できる限界以上の魔力を体内に回復させることができる。あとは溜め込んだ魔力使う。自分の得意な魔法なら脱獄の方法も思いつくだろう。強い魔力には弱いから、魔力抑制薬を飲ませてるんだからな」
パットンは一歩、鉄格子に近づいた。
「なるほど……キバは、その方法で薬を無効化したのか?」
「いいや」
グライムは再び、退屈そうに首を横に振った。ズボンの膝についた埃をパンパンと払う。
「床の汚れを見たが、血痕の拭き跡もない。奴は薬をまともに律儀に飲んでいたままだよ」
衛兵は呆然とした様子で、グライムを見つめていた。
ただ房に入っただけで、具体的な脱獄の手順を二つも組み立て、同時にこの魔牢の運用面と薬理的な盲点を暴いてみせた男の異常さに、恐怖すら覚えているようだった。
しかし、パットンは別だった。
手順を説明したかと思えば、答えはすべて違うだ。
グライムがなにか企んでいるのはわかっていた。
パットンの表情が変わると、グライムは思わずにやっと笑った。
期待通りの反応をしたからだ。からかった甲斐があるというものだ。
「方法なら、探せばあと三つや四つは出てくるぞ、パットン。でもな、どれも違うんだ。四方八方、全面を魔法で塞いでいること。それが欠点だ。犯人はこれを利用した」
「全面を塞いでいることが欠点? それが防衛のための設計だろう」
パットンが鉄格子の向こう側から、怪訝そうに眉をひそめた。
「魔力は空間に滞留する。流れ場がなけりゃ溜まる一方だ。そんな四方八方を塞いだ空間に外から魔力を注入し続けたらどうなる? 内部が魔力で飽和して魔法の挙動が変わっちまうんだよ。ここの抑制陣じゃ想定外の状況が生まれる」
「つまり、どういうことだ? 要点を言え……」
「魔力は中で反復し、増強してる。壁にぶつかって跳ね返った魔力が、互いに干渉し合って膨れ上がってるんだよ。つまり、ここに閉じ込められた奴は、自分の実力以上の魔力をここで使えるようになっていたってことだ」
パットンは息を詰め、鋭い目で周囲の壁を見回した。石材に刻まれた幾何学的な魔法陣は、今も静かに鈍い光を放っている。
「だが、そんな状態で大きな術を使えば、それこそ壁の警報が鳴るはずだ。見ての通り、派手な破壊の跡もなければ、衝撃が検知された記録もないぞ」
「そう、攻撃魔法はわかりやすく吸収されるからな。壁の術式に触れた瞬間に検知される。だから普通なら、外に出ようとして火球だの雷撃だのを数度試してやめるか、そもそも諦めて最初から試さない。実際、この壁には術が激突したような焦げ跡も、削れた跡も一つもないだろ」
グライムはゆっくりと振り返り、鉄格子の向こうにいるパットンと目を合わせた。
腕を組み、その口元に不敵な笑みを深く刻み込む。
「つまり、牢屋にいた人物は攻撃魔法が得意魔法ではない。パットン、覚えてるか? シェイプシフターの事件を」
「覚えてはいる。長時間絵画にシェイプシフトし、闇に乗じて風魔法で逃げた事件だ。あの時も問題になったが……シェイプシフトの消費魔力は」
パットンが気付いた顔で目を見開いたので、グライムは正解だとでも言うようにニヤッと笑った。
「そうだ。シェイプシフトの維持コストが下がる。空間に充満した魔力を、体外から取り込むことができれば、自分の魔力を消耗せずに変身を維持できるからな。シェイプシフトの最大の弱点は持続時間だ。魔力の消耗が激しい。だが外部から魔力を補充できる状況なら、長時間の維持が可能になる」
「待った……グライム。オマエが今このタイミングで説明するということは……」
「そうだ。脱獄してない。姿を消しただけだ。ここでな」
「ここにいるだと? 何に化けているんだ?」
「それをこれからあぶり出す」
グライムはそう言うと解錠しろと格子をノックするように拳で叩いた。
そして、守衛が慌てて解除した鉄格子の扉から、ゆっくりと房の外へ足を踏み出した。
「誰か中に入って一度でも確認したか?」
「いえ……見ての通り丸見えなので。確認するまでもないと」
「だよな。開けた形跡がなかった。確実に外に出てない」
グライムは先ほど内部へ入った瞬間から、肌に触れる違和感を確かに捉えていた。
それは空気の揺らぎだ。
魔力が異常な高密度で充満したこの空間には、目に見えない密度の差が生じている。均一に満たされているように見えても、もしそこに別の何かが実在していれば、周囲の魔力の流れには必ず微妙な歪みが生じる。
グライムが房の奥へと歩みを進めたあの短い時間に、彼の鋭敏な感覚は、その微かな揺らぎを逃さず感知していた。
どこかに、あるべきではない『何か』が潜んでいる。
「ろうそくを持ってきてもらえるか?」
グライムが振り返り、衛兵に指示したが彼は呆然としていた。
知識の結晶とも言える魔牢が、ロウソクなどというもので欠点が炙り出されるなんて思ってなかったからだ。
グライムは持ってこられた一本のろうそくを受け取ると、外側から照らした。
絶妙な角度を保ちながら、微かに揺れる炎の光が石の床や壁を這うように調整する。
橙色の細い光が差し込み、殺風景な石壁に濃い影を落とした。
グライムの片目が、その輪郭をじっと追う。
床の影、壁の凹凸が作る影、部屋の角の影――。
すべての影は、光源であるろうそくに対して従順だった。
光がこちらから当たれば、影はあちら側へ伸びる。
この世界の普遍的な理だ。
――ただ一箇所を除いて。
房の隅、わずかに窪んだ一点だけ、影の伸びる方向が歪んでいた。
ろうそくが放つ光の角度からすれば、到底あり得ない方向へと、不自然に黒い尾を引いている影がある。
「パットン……」グライムが低く、確信に満ちた声をかけた。「見えるか?」
パットンがグライムの肩越しに、鉄格子の隙間からその一点を鋭く覗き込んだ。じっと目を凝らしていた顔が驚愕にこわばる。
「……影の方向が、違う」
「そのとおりだ。そこに、何かがいる」
事態の異常性を察したパットンは、衛兵に緊迫した面持ちで耳打ちした。
衛兵はすぐに走り去ると、数分と経たずに、慌てた様子の魔牢の管理者が地下へと呼び出された。
パットンが求めたのは、この房の魔法陣への魔力供給を、一時的に完全に停止させることができるかという確認だった。
通常では決して行われない禁忌の操作だったが、「オルドレン王子による緊急調査」という重い言葉の前に、許可が下りた。
管理者が冷や汗を拭いながら壁の制御魔法陣に手を当て、複雑な解除術式を操作していく。
やがて、部屋を包み込んでいた幾何学的な魔法陣の光が、ふっと糸が切れたように掻き消えた。
同時に、耳の奥を圧迫していたような重苦しい魔力の供給音が止まる。
房の内部の空気が、劇的に変わった。
一秒。二秒。――三秒後、あり得ない方向に影を伸ばしていた房の隅で、空間が陽炎のように激しく揺らめいた。
光の屈折が元に戻るようにして、どろりとした影から人間の輪郭が急速に編み上げられていく。
壁にだらしなく背を預け、床に直接腰を降ろしている一人の男の姿が現れた。
衣服は薄汚れ、街の雑踏に紛れれば二度と思い出せないような、極めて特徴のない顔立ちの人間。
空間を満たしていた魔力の補充が完全に途絶えたことで術式が維持できなくなり、シェイプシフトが強制解除されて本来の姿へ引きずり出されたのだ。
男は力なく両腕を垂らし、深く目を閉じていた。
「行け」
パットンが顎で合図すると、緊張で顔を強張らせた衛兵たちが一斉に房内へと踏み込んだ。
それでも、現れた男は微動だにしない。
一人の衛兵が恐る恐る近づき、その無防備な肩を強く揺さぶった。
その振動で、男は煩わしそうに、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
ひどく濁った、だが全てを見透かしたような瞳が動く。
男はまず周囲の様子を気だるげに見回し、それから自分を取り囲む衛兵を見た。
最後に、開口部の外側から自分を観察しているグライムとパットンの姿を、その網膜に映す。
男は、大騒ぎする周囲を余所に、しばらくの間何も語らなかった。
ただ沈黙が支配する中、パットンが呆れとも驚きともつかない溜息混じりの声を漏らした。
「……寝ていたのか、オマエは。グライムに犯人にも化かされた気分だ……」
パットンは呆気ない幕引きに、なんとも言えない気分になっていた。




