第一部「隣国からの書状」
ある晴れた日のことだった。
辺境の屋敷に一通の書状が届けられた。
厚手の羊皮紙の表面には、陽光を照り返す鮮やかな朱色の封蝋――それは間違いなく、王族の証明印が刻まれた正式なものだった。
しかし、その差出人は自国からではない。
国境を接する隣国の王子からのものだった。
記された内容は簡潔でありながら、重い含みを持っていた。
曰く、隣国が誇る『魔牢』と呼ばれる特殊な魔法牢から、凶悪な脱獄者が出たという。
逃走経路からして辺境の国境を越える可能性が高いため、情報の共有を求める。
そして、別件として、この脱獄事件の調査への協力を請いたい。というものだった。
書状の最後には、特に気になる一文が添えられていた。
同行者として、明確に「グライム」という男を指名すると。
パットンは読み間違いがないか確かめるようにもう一度、最初から視線でなぞった。
二度目を読み終えると、彼は静かに椅子から立ち上がり、執務室の閉めた。
再び机に戻り、一人で椅子に腰掛けると、この情報を外に出すべきかどうか、しばらくの間じっと考え込んだ。
隣国の、それも強固なはずの魔牢が破られた。
本来ならばそれだけでも辺境の国境を預かる身としては十分に厄介な大事件だ。
だが、パットンの思考を占めていたのはそこではない。
隣国がグライムの名前を指名してきたこと。こっちのほうが、遥かに大問題だった。
なぜ隣国がグライムの存在、いや、その名を知っているのか。経路は一つしか考えられなかった。
パットンが現在、この辺境の屋敷でグライムを事実上の『身柄拘束の対象』として扱っているという極秘の情報が、国境を越えて隣国へ流れたのだ。
そして、そのような真似ができる人間は限られている。王都で暗躍するヴァレンの側の人間が、裏で手を回したに違いない。
パットンがグライムを犯罪者、あるいは危険因子として公式に押さえているという形を作れば、王都のヴァレン側としては『辺境から王都への身柄送還命令』を大義名分とともに下しやすくなる。
「……引きずり出しにきたか」
パットンは小さく呟くと、ジューンにグライムを連れてくるよう命じた。
ほどなくして、気だるげな足音とともにグライムが執務室に入ってきた。
彼はパットンの険しい表情を見るなり、何かを察したように眉をわずかにひそめた。
「なんだ……その顔……。まだなにもしでかしてないぞ」
「オマエ宛て、と言っていい代物だ。いいから読んでみろ」
パットンが差し出した書状を、グライムは無言で受け取った。視線を落とし、流れるように文字を追っていく。部屋には、羊皮紙がかすかに擦れる乾いた音だけが響いていた。
読み終えたグライムは、特に動揺した様子も見せず、書状をパットンの机の上へと滑らせた。
「オマエの名前がバレている。王都経由で隣国に流れた。名前をピンポイントで指名してきたのがその証拠だ。隣国はヴァレンの思惑を買い、オマエを公式の場へ引きずり出そうとしている。……そうは思わないか?」
パットンとしては、グライムが驚くか、あるいは警戒を強めることを想定していた。
だが、グライムから返ってきたのは、想定内と想定外の二つが交差していた。
「……だろうな。ヴァレンの狸なら、それくらいの小細工は平気でやるだろうな。……だけどな、パットン。オレを名指しした理由は、ヴァレンとの政治的な取引じゃない」
グライムは椅子の背もたれに深く体重を預け、自嘲気味に口元を歪めた。
「どういう意味だ?」
「まだじゃなくて、とっくの昔に既にしでかした後ってことだ。ヴァレン関係なくな」
「どういう意味でだ……」
パットンが同じ言葉で問い詰めると、グライムは一度頭をポリポリかくと観念したように白状し始めた。
「昔……ちょっとした火遊びをした」
「火遊びだと? ……どのくらいのだ?」
「あの国の連中にとっては、決して忘れられない種類のな」
「大火事じゃないか……」
「言い方の問題だ。あの国の王族が秘蔵していた美術品や宝飾品を、いくつか『移動』させたことがある。勿論オレだっていう証拠は一つも残ってない。だが、向こうの警備担当や仕切り役は、オレの『手癖』と名前をきっちり覚えているはずだ。あの頃は名前を残そうと必死だたからな。駆け出しってのは無茶をやるもんだ」
グライムは自分の指先をじっと見つめながら過去のことを思い出していた。
荒削りながらも悪くない腕だ。今の自分でもそう思っている。
「言い方を変えるな。……盗んだんだろう。なにが移動だ、手癖だ。この書状は、処刑するためにオマエを差し出せってことか?」
「だとしたらはっきりそう書く。手紙によると、魔牢が破られたんだろ? あそこの魔牢っていうのは、魔法的な障壁と物理的な鍵が幾重にも重なった、文字通りの難攻不落だ」
「さては捕まったな?」
パットンが失敗したなと、口元にニヤニヤ笑みを浮かべながら言った。
「魔法が使えないのに、魔牢にいれられるわけがないだろ。むしろ認められたってことだ。あの腕を持つ男を調査に引っ張り出せば、脱獄犯が使った手口や、魔牢の防衛線の弱点が見破れるかもしれない。ってな」
「つまりこの書状は、グライムを王都へ送還したい、ヴァレンの政治的思惑ではなく、むしろヴァレンも利用されてるってことか?」
「ヴァレンが因縁を知らなかったんだろ。かなり前の仕事だからな」
今回の隣国からの書状は、グライムの技術を利用したい隣国の実利的な思惑が込められた招待状だったのだ。
「公式には脱獄事件に伴う国境警備の調査依頼だ。辺境を預かる立場として、隣国との不要な摩擦は避けねばならない。今後の関係を維持するためにも、この要請を無下に断る選択肢はないぞ」
「本音はなんだ?」
「その魔牢とやらに興味がある。オマエが悪さをした時にいれておく場所が必要だからな」
「アンタ、サディストか? あの地下牢で十分だろう。脱獄できなかったんだから」
「脱獄する気さえ起こさなくさせてやりたい」
「まだ怒ってるのか? 疑ってたこと。気にするなって言ったくせに」
「怒ってるじゃなくて、過去に起こしたオマエの犯罪を思いかべて呆れてるんだ」
「パットン、安心しろよ――アンタが思い浮かぶような低レベルな盗みはしてない」
「心配させることを言うな……」
パットンは呆れながらも返信の書状を書いた。
それは翌日、隣国の使者に向けて、調査への協力を快諾する旨を記した返答の書状が、パットンの部下の手によって送られた。
辺境から隣国の首都まで、馬車で五日の行程だった。
王都に戻るよりも半分以上早いほど近い。
国境を越える時、グライムは窓から景色を見た。
特に何も変わらない。土の色が変わることも、木の種類が変わることもない。
境界線というものは、人間が地図に引いたものであって、土地は気にしていない。
犯罪というのも同じものだ。法律という見えない境界線もまた、人間が勝手に社会の都合で引いた区分に過ぎない。
こちら側で「鮮やかな仕事」と称賛された高度な技術が、あちら側へ一歩またげば「大罪」と名前を変える。
土地が土の色を変えないように、己が成し遂げたことの価値そのものが変わるわけではなかった。
グライムにとって、自らの行為は悪徳でもなければ、道徳的な罪悪感を覚えるようなものでもなかった。
それは厳重な管理体制の不備を突き、数々のセキュリティを論理的に解除してみせた『完璧な知的ゲーム』の結果に過ぎない。
守る側が間抜けだったからこそ、美術品はしかるべき技術を持つ者の手へと移動しただけだ。
それを悪と呼んで騒ぎ立てるのは、いつも持たざる側の凡庸な人間たちだった。
馬車の車輪が、国境の石碑を通り過ぎていく。
乗り心地は何一つ変わらない。
だが、その不可視の線を越えた瞬間から、自分は「王子の協力者」から、「隣国の至宝を盗み出した大怪盗」へとラベルが裏返る。
グライムは過去に起こした犯罪を思い返しつつ、枠に肘を突いて外の退屈な景色を眺め続けた。自らの技術に対する絶対的な自負だけを、その胸の奥に秘めたまま。
カックラウが向かいの席に座っていた。今回の同行者はカックラウだけだ。ジェーンは屋敷で留守を預かっている。
「何か情報はあるか」パットンがカックラウに聞いた。
「魔牢についての基本情報だけです。収容施設の規模は中程度。収容者は主に魔法犯罪者と、魔力制御が困難な者。一度、魔道具と一体化し暴走した犯罪者が大暴れしましたが、それでも牢は壊れることはなかったようです」
「脱獄の記録は過去に一件もない。難攻不落は伊達じゃないか……。脱獄者の情報は?」
「名前はキバ。人間族の男、四十代。魔法犯罪者として収容されていた。罪状は詐欺ですね」
「知り合いか?」
パットンは風景を楽しむグライムに向かって懐疑的な視線を向けた。
「キバか……知らないな。だから遠慮せず捕まえていいぞ」
「オマエの知り合いだから許すなんてことはない。知り合いなら先に手口を吐けという意味だ」
「おっ? 久しぶりに尋問の勝負でもするか? あの地下牢の時みたいに?」
「また私の胃に穴を開けるつもりか?」
「穴は牢に開けるつもりだったんだけどな」
グライムは満面の笑みでからかって肩をすくめた。
「その態度……隣国の王子には取るなよ」
「それより……。隣国の【リィーイヤ王国】は同盟国だろ。第二王子のヴァレンが偽物ってバレた方が問題だ」
「それよりで片付けるな……。だが、問題の大きさで言えば圧倒的にヴァレンのことだ。奴め……助け舟が出せないとわかっていてわざと?」
「やめとけパットン。考えるだけ無駄だ。その難しい顔こそが、王都でヴァレンが想像してる顔だ。わざわざ喜ばせることもないだろ」
「グライム……。オマエは一度誘拐されかけたんだぞ。油断しすぎだ」
「油断してるわけじゃない。ただルミナス暗号の情報がピタリとなくなっただろう?」
「ヴァレンの秘密の暗号だからな。王都にいなければ新しい情報は入ってこないだろう」
「油断してるのはパットンだろう……。オレたちは王都に戻る前に、どうにかしてヴァレンを出し抜かないといけない。じゃないと、敵の罠にかかりに戻るようなもんだ」
「そして、今まさにヴァレンが用意した流れに乗ってるわけだ、私たちは。……なんともやるせないな」
パットンがそれっきり黙ると、グライムも口を開くことはなくなった。




