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王賊 Crown & Crime  作者: ふん
記憶の在り処

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第三部「夢渡り香炉」

 屋敷の執務室に戻ったグライムは、布に包んだ青銅の器を机の上に置いた。

 彼が店で引き出してきた情報は、香炉の構造だけではなかった。


「動かすには、専用の精油が必要だそうだ」


 グライムがそう切り出すと、机に古い資料を広げていたジェーンが顔を上げた。


「精油? 燻薬くんやくではなくて?」

「ああ。香炉に施された術式と連動し、対象の精神をこちらの望む領域へ誘導するための、極めて特殊な触媒がいるらしい。店主の婆さんは『普通の薬師や調香師じゃ作れない』と言っていた」

「店主のおばあさん? もしかして……もと諜報部?」

「答えが返ってくる類の問いだとは、キミも思ってないだろう」

「そうね……」


 ジェーンは手元の古文書の束に視線を戻し、掠れたインクの文字を指先で追い始めた。

 夢渡り香炉に関する記述は極めて断片的だったが、いくつかの古い治療器具に関する記録の端々に、その名が確かに触れられていた。


「……あったわ」ジェーンがページの一角を指さした。「これはかつて、記憶と夢の境界へ人間の意識を近づけるために用いられた治療器具。完全に眠らせるためのものではなく、強烈な、深い安心の状態を意図的に作り出すためのもの、とあるわね。目を覚ましたまま、意識の最も深い部分だけを、夢に近い場所へ届かせる」

「合致するな。婆さんも言ってた。緻密な精油の配合を要すると」

「そうね。これは術にかけられた人に使うものではない、術にかけられた人の深層心理へ潜り込むための手段よ。目的は意識を失わせることではない。魂の根底に深い安心感を与え、警戒の防壁を解きほぐすことで、意識を夢と記憶の狭間へ近づけること」

「つまり誰かが潜り込む必要がある。まぁオレか」

「私でもいいのよ」

「オレのほうが嘘を見抜くのが上手い」

「関係ないわよ」

「こういう術をかけるやつはひねくれてるってことだ」

「それなら納得。あなたが適任ね」ジェーンはからかって笑みを浮かべると、すぐに視線を戻した。「――ベースになる材料の一覧が、この頁の端に小さく書き残されているわ」


 ジェーンが読み上げた名前は、どれも辺境の通常の市場ではお目にかかれないものばかりだった。

 エルフの植物。妖精の花。ドリアードの樹液。魔界植物――それ以外にも、人間族の領内には滅多に出回らないような異種族の産物の名前が、いくつも続いていた。


「集めるだけでも、普通なら何ヶ月もかかるな。冒険と商人を何十人と雇い、集めさせるような代物ばかりだ」


 グライムは材料の名前を一つずつ見つめながら、辺境から調達できる経路を頭の中で探していた。

 しかし、闇ルートの動線を持ってしても、いくつかはどうしても足取りが掴めない。


 二人の会話を黙って聞いていたパットンが、少しの間、考えを巡らせるように顎に手を当てた。

 やがて、彼は机の上へ、ジェーンの資料を押し退けるようにして辺境領の広域地図を広げ、何かを確かめるように細い道筋を指先でなぞった。


「街道警備隊に聞いてみるのはどうだ?」

「山賊か……それは盲点だった」

「彼らの流通経路は、我々の想像以上に広い。異種族との密な取引も、表に出られない薬師との繋がりも持っている。正規の商人が決して扱わないような、曰く付きの品物の入手経路を知っているかもしれない」


 グライムは何も言わなかった。パットンの判断に異を唱える理由はどこにもなかった。ただ、その発想が自分の頭になかっただけだ。

 権力を握る側の人脈、あるいはかつて敵対していた組織の力をそのまま組み込んで動かすという方向は、グライムが自然に選ぶやり方ではなかった。

 パットンという男の、行政官としての冷徹な実利主義がそこにあった。


 普段ならなんてことないと受け流す発言も、今はすべてが引っかかる。

 パットンはグライムに嘘をついている。


 グライムが『アンタはオレの敵か?』と聞いた時、『そんなわけがないだろう……』と返した。

 その時に感錠が赤く光った。

 それだけなら動揺とも受け取れるかも知れないが、パットンは感錠が壊れていると結論づけた。

 だが、感錠は壊れていない。それは、今までつけていた本人が一番わかっていることだ。

 それなにパットンは壊れていると言った。


 嘘を隠すための嘘をついたということになる。


 グライムが黙っていると、パットンが心配そうに顔を見た。


「どうした? なにかあったか?」

「いや……ただ、賊を使うのがずいぶん上手いと思ってな」

「オマエで学んだんだ……。身に覚えがあるだろう」

「いくつかな」

「いくつもだ……」


 グライムはパットンを疑う思考は一旦片隅に置くことにした。

 今はそれよりも重要なことがあるからだ。





 パットンはその日のうちにギルハルトのところへ使いを出した。


 要請を受けた街道警備隊は、快く動いた。

 かつて交わした信頼は、こういう非常の時にこそ、確かな形となって現れる。


 パットンが彼らの流儀に従い、彼らと交流を深めたからこその結果だ。


 ギルハルトは届けられた材料の一覧を受け取ると、すぐに信頼できる部下たちを各方面へ走らせ、独自の流通経路を当たらせた。


 探索には三日かかった。

 中央の商人が動けば数ヶ月は要するはずの希少な材料が、辺境一帯に張り巡らされた彼らの独自ルートを通じて、一週間以内にすべて集まるという見通しが立った。


 その間、グライムはジェーンと共に精油の具体的な配合について、膝を突き合わせて相談を重ねていた。


 そして、街道警備隊が持ち帰った異種族の植物と、調合を重ねた成分がすべて揃った。

 濃密な香りを放つ精油が完成を告げる。


 夢渡り香炉が、長い眠りを経て、久しぶりに本来の目的のために使われる準備が整った。

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