第二部「禁断の術」
調査はその日の午後から始まった。
ジェーンは兵士への聞き取りを担当した。
休息を取らせた後、無理のない範囲で記憶を確認する。
八日間の道中で何があったか。王都を出る前に何をしていたか。食事は何を取ったか。誰と話したか。
彼女は一つずつ丁寧にハルディンに確認していった。報告内容以外の記憶は鮮明だった。
抜けているのは、内容の部分だけだ。
しかし、肝心なその部分だけが完全に、形を失っていた。
彼女に付き添ったカックラウは自慢の鼻を使い、兵士がかいた汗から嘘を言ってるか確認したが、嘘をついている様子はなかった。
そして、グライムがもう一度ハルディンと話をしたのは、彼に休息を取らせた翌朝だった。
昨日のジェーンの聞き取りで、わかったことは整理できた。
記憶の欠損は内容の部分だけで、前後は鮮明だ。
しかしグライムにはもう一つ、直接確かめたいことがあった。
ハルディンは椅子に座っていた。
昨夜よりは顔色がいい。衰弱の色は残っているが、目の焦点は定まっていた。
グライムは部屋に入ると、彼の顔を注意深く見た。
それから鼻の付け根に視線を止めた。
「眼鏡は普段からかけているのか」
「え?」ハルディンは戸惑った表情を浮かべた。「眼鏡は……持ってはいるのですが、旅の途中で。いつなくしたのか定かではなくて」
「鼻の付け根に跡がある」グライムは言った。「日焼けの跡だ。つまり日常的に眼鏡を掛けているハズ。旅の途中でなくしたなら、その日がわかるはずだ。いつなくした」
ハルディンは自分の鼻の付け根に触れた。それから困ったような顔をした。
「それが……わからないのです。確かに持って出た記憶はある。しかしいつから手元にないのかが、はっきりしなくて、眼鏡を掛けていたのも、今思い出したくらいで……あれ? ……おかしいな」
「わかった……もう大丈夫だ。質問を変える。夢は見るか」
グライムの問いに、ハルディンは少し考えるような間を置いた。
「夢、ですか。……不思議なことを聞かれますね。ただ、そう言われると思い当たることが一つあって。馬を走らせている時、一度寝てるのか起きてるのかわからない時間がありました。寝ぼけてるようにも思えたんですが……。危険な兆候かと思い、馬を止めて休憩しました」
グライムは何も言わなかったが、部屋の空気がわずかに変わった。
グライムがハルディンに礼を言って部屋を出ると、廊下でパットンとジェーンが待っていた。
「どうだった」パットンが聞いた。
「眼鏡をなくした時期の記憶が曖昧になっている。なくしたこと自体が、ぼんやりしている。報告の件と同じだ。特定の部分だけが抜けている」
「旅の疲労で記憶が混乱することはあるが、どうもおかしいな……」
「日焼けの跡は嘘をつかない。長年かけていた眼鏡が手元にない。しかしその事実を本人が認識できていない。これは疲労じゃない」
パットンとグライム顔を突き合わせて、不可解な点を洗い出していると、ジェーンが静かに口を開いた。
「表では使われない古い諜報技術の中に、記憶を扱うものがあります」
そう切り出したジェーンを二人が見た。
「【夢盗み】と呼ばれていたと聞いています。ただ今は使える者がいない、失われた技術です。ですが、古い記録には実際に使用された記録も残っていて、眠っている間に情報を奪う。奪うだけではなく、偽の記憶を置いていくこともできると聞いています」
「それが本当だとしら……かなり厄介だ」グライムの顔が一際険しくなった。「失われたというよりも、失わせたと言ったほうが正しそうだ。情報の撹乱だけならともかく、冤罪を認めさせることも出来るってい事だからな。被害者は何かを失ったことに気づかない場合もある。失ったことを示す記憶ごと、書き換えられるからだ」
三人の間に沈黙が落ちると、その空白を埋めるかのように窓の外で風が鳴った。
それが、合図かのようにパットンが立ち上がった。
「調べる必要があるな。夢盗みについて。対抗手段があるかどうか。何が盗まれたのかを知る方法があるかどうか」
パットンがそう言い残して執務
室を立ち上がった瞬間から、屋敷の空気は目に見えない緊張感に支配されていた。
王都の権力者が辺境へ走らせた兵士の記憶をピンポイントで消し去り、その事実を示す眼鏡という物証ごと認識を奪う。
その周到で冷徹な手口に対抗するため、三人はそれぞれが持つ独自の領域へと潜り込んでいった。
ジェーンは、自らの出自に紐付く諜報の古い記録を屋敷の奥から引き出し、薄暗い灯りの下で一枚ずつ羊皮紙をめくった。
夢盗みに関する記述は極めて少なかった。残されている断片も、意図的に表現が濁され、肝心な術式や行使者の名は黒く塗りつぶされている。
元来、諜報技術とはそういうものだ。
具体的な使い方や術理は徹底して隠蔽され、ただ「その技術が存在した」という恐怖の事実だけが歴史の底に沈殿する。詳細は最初から消されているのだ。
それでも、ジェーンは掠れたインクの文字を指先で追い、
不自然な空白を繋ぎ合わせることで、ようやくその輪郭を炙り出した。
「……消去ではない。隔離なのね」
古い手記の行間から見出せたのは、一種の希望であり、同時に絶望でもあった。
夢盗みは、被害者が眠っている無防備な時間に仕掛けられる。
施術者が被害者の精神の深層へと意識を滑り込ませ、情報を奪う。あるいは、都合の良い偽の記憶を置いていく。
だが、奪われたはずの記憶は完全に消滅したわけではなかった。
それは被害者の精神の最も深い、本人すらアクセスできない暗がりの底へ「押し込まれている」に過ぎない。
扉を施錠され、鍵を奪われただけだ。情報そのものは、今もハルディンの脳裏に、形を保ったまま眠っている。
その事実こそが、閉ざされた記憶の扉を抉じ開けるための、唯一の糸口だった。
ジェーンがまとめた情報を下に、グライムは辺境という土地の歪みそのものに目をつけた。
王都から遠く離れたこの地には、時として奇妙な流通品が集まる。
中央の権力闘争で没収された品や、歴史の闇に葬られて市場から消えた禁忌の道具が、商人の積荷に紛れ、知らない間に辺境の市場へ流れ着いていることがある。
辺境というのは、王都から見て離れているということだ。
そうした曰く付きの道具は、この地へ流れ着くと本来の名前を消され、まったく別の品として売られる。
出所を偽り、追手の目を眩ませるためだ。
そうして、王都では御法度とされるような盗品や禁制品が、名を変え、姿を変えて、辺境の闇市場を人知れず回り続けている
夢への干渉に使われた古代の技術――その痕跡が、単なる風変わりな骨董品として売られていないか。
そう考えたグライムは、先ほど漁っていた商人のルートから闇市の動線を辿り、辺境の骨董商を回り始めた。
最初の一、二軒目、そして三軒目の店では収穫はなかった。
並んでいるのは、出所の怪しい新しく作られた古銭や、わざと錆びつかせ値打ち者だと思わせるような武器の破片ばかりだ。
だが、グライムの歩みは止まらない。
四軒目に訪ねたのは、通りの外れにある、埃の匂いが立ち込める小さな店だった。
店主は高齢の人間の女性だった。
彼女は薄暗い店の奥に腰掛け、感情の失せた手付きで淡々と香木を削り、お香の材料を作っていた。
その作業のせいで、熱せられていない香木の香りが漂う、どこか不気味な雰囲気が蔓延していた。
加えて、店内には異種族の装飾品や年代物の不揃いな陶器、出所のわからない古い武器の部品が、雑然と棚を埋めていた。
慣れていない冒険者が入ったら、一瞬怯むだろうという、時代の重みがある。
その風化しかけたガラクタの群れの中に、明らかに周囲の空気と馴染まない、年季が入った割にはしっかり手入れがされた跡がある、金属製の小さな器が転がっていた。
グライムがその器を指差して尋ねると、店主の老女は編んでいた手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
少しの間、グライムの品定めをするような沈黙が流れた後、彼女は重い腰を上げて棚の奥からそれを取り出した。
「……夢渡り香炉と、先代から聞いておりますよ」
差し出されたのは、掌に収まるほどの小さな青銅の香炉だった。
表面には、現代の職人では決して施さないような、不気味で精密な文様が深く刻み込まれている。
それは、ただの装飾ではない。かけて読めなくなっているが、なにかの呪術に関するような言葉の一端が見られる。
蓋の部分に規則正しく並んだ無数の孔は、煙の量をミリ単位で制御するための構造だと、一目で分かった。
「使い方は分かりません。ただ、普通の香炉とは明らかに違うものだということだけは分かっていましたので……買い取ったまま、ずっと触らずに棚へ置いていたのです」
グライムが香炉を手に取り、その冷たい重みを確かめる間、二人の間に再び沈黙が流れた。
使い方は分からない、と店主は言った。だが、グライムの目は騙せない。
彼は老女の削る『手元』を見ていた。
感情の失せた手付き。だが、香木を削る刃物の角度、その力加減には、『長年他人に気配を悟られずに刃物を扱ってきた者』特有の、極めて洗練された無駄のなさが染みついていた。
この埃っぽい店に身を隠している高齢の女性は、ただの古物商ではない。
元はどこかの国の諜報部に属し、訳あって逃亡し、この辺境の地に流れ着いた者だ。
グライムは確信していた。
その証拠とでもいうように、香炉を壊されないように『意識』を向けている。
作業に戻りつつ視線を変えても、グライムの行動はすべて見られている。
グライムは香炉の蓋の孔を親指でそっとなぞり、声音を一段落とした。
まるで、昔馴染みの同業者に世間話でも持ちかけるかのような、極めて自然で、拒絶を誘わない軽さだった。
「先代も……惜しいことをしましたね。これほどの業物を手に入れながら、ただ棚に眠らせておくとは」
店主は答えず、再び手元の香木に刃を当てた。
衣服の擦れる音さえしない、静かな収穫作業だ。
「これに刻まれた文様、欠けてはいますが……単なる装飾や迷信の類じゃない。ある特定の『術式』を安定させるための、極めて実戦的な魔術刻印だ。魔法陣という円の理から外れた、古い技術。それも、王都の禁書庫に並ぶような古い時代の。これだけの孔を穿って煙をミリ単位で制御する意味は、一つしかありません」
グライムは香炉をそっと机に戻し、覗き込むようにして視線を店主の手元に固定した。
「吸わせるためだ。眠っている標的に、濃度の狂いがないよう、完璧に計算された香の煙を」
老女の手が、ほんの一瞬だけ、香木の上で止まった。
削りクズがひらりと床に落ちる。
「……普通の薬師や骨董商なら、これを見ても『不気味な細工物』で終わる。だが、あんたは違った。これが『夢渡り香炉』という、そのものの名で呼ばれていたことを知っていて、なおかつ、普通の香炉とは違うと見抜いて、誰の目にも触れない棚の奥に隠していた」
グライムは微かに笑みを浮かべた。脅しではなく、相手の技術に対する純粋な敬意を混ぜ込んだ、逃げ道を塞ぐための笑みだった。
「使い方が分からないというのは、建前でしょう。あるいは、下手に触れば追手に自分の居場所を知らせる合図になりかねないから、触れなかった。……違いますか?」
老女は削り小刀を握ったまま、動かなかった。
近況感から五感が冴えわたる。
店の奥に蔓延する熱せられていない香木の香りが、急に濃くなったかのような錯覚を覚える。
「あなたがどこの国から逃げてきて、なぜここで隠居しているのか、俺は興味がない。お互い、辺境の住人だ。詮索は割に合わない」
グライムは懐から、ずしりと重い財布を取り出し、机の上に静かに置いた。
金属が擦れ合う鈍い音が響く。
正直、法外の値段だ。
それをポンッと出したのは、自分ではなくパットンの資産だということもあるが、同業者の先輩への礼儀も含まれていた。
客のふりを止め、同じ立場として話を進めた。
「オレが知りたいのは、この道具を安全に、かつ確実に機能させるための手順だけだ。香炉の代金とは別に、その『知識』への対価を支払いたい。この金があれば、もっと安全に見を隠せるだろう?」
長い沈黙が店を支配した。
やがて、老女は深く、重い溜息を吐き出した。その表情から「店主」の仮面が剥がれ落ち、酷く冷徹で、鋭い老スパイの目がグライムを射抜いた。
「今から言うのはただの独り言だ。ボケた老婆のね……」




