第一部「消された記憶」
その日の朝は、前日の雨が残した湿気が地面から立ち上るような霧深かった。
屋敷の執務室で、パットンは城壁改修計画の予算書を広げていた。
王都から秘密裏に届けられた資料は分厚く、数字の列が几帳面に並んでいる。いくつかの箇所に前任者の赤いインクの書き込みがあり、パットンはその箇所で何度も手を止め、前後のページを繰り返した。
城壁改修計画はヴァレンが中央で主導している事業だ。
王都の城壁の特定区画を補修し、防衛魔法陣の一部を調整し直す。
費用も人員も、王国の直近の公共事業の中では最大規模に近い。
ヴァレンが予算を動かし、ヴァレンが施工の命令を出し、ヴァレンの名前で計画が進んでいる。
その計画の詳細な予算書が、なぜか辺境の屋敷にいるパットン宛に届けられ、人払いをした執務室で広げられていた。
パットンは静かに次のページをめくったが、廊下から足音が近づいてくると、慌てて他の書類の中へ混ぜた。
ノックの音が響き、パットンが返事をすると、ジェーンが扉を開けた。
「王都から兵士が来ています。緊急報告だと言っています」
「わかった。部屋に通せ」
パットンは予算書の上に他の書類をドカドカと乗せ、如何にも普通の執務をしていたように装うと目を上げた。
通された兵士は若く、顔に疲労の色が濃かった。
馬を飛ばして来たのだろう、外套の裾に跳ねた泥が乾いた跡がついている。
王都から十日以上かかる行程を、睡眠と食事の時間を削って短縮してきた者の疲れ方だった。
疲労よりも、衰弱という言葉があっている。
しかし、兵士はパットンの前に立つと、毅然に姿勢を正し、一礼して口を開いた。
その様子から一大事だと言うのは、誰が見てもわかった。
「王都より参りました。緊急の御報告があり——」
皆が息を飲んで次の言葉を待つ中、そこで兵士の言葉が途切れた。
途切れた、というよりピタリと止まった。
なにかに引っかかったように、次の言葉が出てこない。
ど忘れというわけはなく、兵士は自分でも戸惑っている様子で、眉を寄せて視線を宙に泳がせた。
記憶を探す目の動きだ。
しかし、あるものが見つからない。何かを掴もうとして、手の中をすり抜けていくような表情をしていた。
それは記憶だった。
「……申し訳ありません。続きが」
「続きが、何だ? どうした?」
パットンは静かに言った。
急かしているのではなく、次の言葉を引き出そうとしているのだが、それは空振りに終わった。
「出てこないのです……。確かに報告を持って来たはずなのですが。出発前に上官から直接言われた言葉があって、それを届けるために来たはずで」
「その言葉か? その言葉だけが思い出せないのか?」
「はい……思い出せません。道中は覚えています。馬を替えた宿場も覚えています。しかし報告の内容だけが……」
兵士の表情に焦りが浮かんだ。
記憶を手繰り寄せようとするように額に手を当て、しばらく黙っていた。
あまりの様子のおかしさにジェーンが、なにか嘘をついていないかと兵士の顔をじっと観察していた。
すると突然「嘘は言ってない」と声をかけられた。
グライムだった。
扉の脇にいつの間にかグライムが立っていた。
廊下で声が聞こえたのだろう、音もなく入ってきて、壁際に静かに立っていた。
「盗み聞きしてたの?」
「盗み聞きするなら声をかけない」
「なら、どういことかわかるの?」
「さあな」
グライムが肩をすくめると、彼の存在に気付いたパットンが指で招いた。
「グライム、どう思う?」
グライムは改めて兵士を見た。嘘をついている様子はない。演技にしては精巧すぎる困惑だ。
嘘をつく人間の目は、どこかに焦点を定めようとする。
嘘をつくのが上手いほど、人の目をまっすぐ見られるのだ。
しかしこの兵士の目は、定める場所を失った目をしていた。
グライムは注意深く表情を確認しながら、兵士へ質問した。
「名前は?」
「ハルディンです」
「いつ王都を出発した?」
「八日前です。それは覚えています」
「ここまで十日以上かかる。よく二日以上も短縮できたな。睡眠時間を削ったか?」
「はい……緊急事態なので。睡眠は削りました。調理の時間も……。もしかしたら……そのせいで記憶が」
「待て、ハルディン。結論を出すな。いいか、オマエの仕事は完了してる。あとはこっちの責任だ。リラックスしろ。やることは結論を出すんじゃない。思い出すことだ」
「はい……。上官の顔も覚えています。部屋の様子も覚えています。しかし言葉だけが……」
「内容だけが抜けている。そのシーンが抜け落ちたのか?」
「はい。他は全部あるのに、そこだけがまるで、深い闇に落ちたかのように。なにもないんです」
「この兵士を休ませる。無理に思い出させようとするな」
パットンは 急に話を切り上げると、ジェーンに部屋を用意するよう言った。
ジェーンが兵士を連れだすと、部屋に残った二人にしばらく沈黙が流れた。
先に口を開いたのはパットンだった。
しかし、その内容は兵士の話ではなかった。
「……いつからいた?」
「ついさっきだ。その前までは商人の積荷を漁って嫌がられてた」
「国を使って、堂々と泥棒をするな……」
「検品だ。ここの輸送ルートが開通したことは、国にいるヴァレンに伝わるだろ。奴宛ての荷物が紛れ込んでる可能性がある。それとも、オレが調べたらなんかまずかったか?」
グライムはじっとパットンの目を見た。
「まずいに決まってるだろ……。オマエはスプーン一本でも、なにに使うか予想がつかない男だぞ。オマエこそ、突っ込まれて困ることでもあったのか?」
「……まっ、それもそうだな」
グライムが何事もなかったかのように肩をすくめたので、パットンはやれやれと頭を振った。
「不機嫌を晒してる暇があるのあらば……少しは兵士の心配をしたらどうだ?」
「少なくとも、記憶の欠如は疲労のせいじゃないな」
グライムは断定した。
推測ではなく、ハルディンとの会話を確認した上での言葉だ。
「どうしてわかった? なにか知っているのか?」
「途中まで話せた。止まったのは、内容に入ろうとした瞬間だ。全体的な記憶の欠損とは違う。特定の情報だけが抜けている。それは病気の症状じゃない。病気ならもっと前後に影響が出るだろう。記憶ってのは、勝手に改変されることはあっても、都合良くは消えてくれないんだ。だから急に思い出すってことがあるだろう」
パットンは眉を強く寄せ、眉間に不快をシワを作ってグライムを見た。
グライムを疑ってではない、緊急の報告を消された不信感が募っているからだ。
「ではなんだと言うんだ……。緊急の情報なのは間違いないんだぞ」
「誰かが故意に兵士の記憶の一部を消したとしたら。……大問題だな。確実に王都の関係者だ」




