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王賊 Crown & Crime  作者: ふん
記憶の在り処

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48/63

第一部「消された記憶」

 その日の朝は、前日の雨が残した湿気が地面から立ち上るような霧深かった。


 屋敷の執務室で、パットンは城壁改修計画の予算書を広げていた。


 王都から秘密裏に届けられた資料は分厚く、数字の列が几帳面に並んでいる。いくつかの箇所に前任者の赤いインクの書き込みがあり、パットンはその箇所で何度も手を止め、前後のページを繰り返した。


 城壁改修計画はヴァレンが中央で主導している事業だ。

 王都の城壁の特定区画を補修し、防衛魔法陣の一部を調整し直す。

 費用も人員も、王国の直近の公共事業の中では最大規模に近い。

 ヴァレンが予算を動かし、ヴァレンが施工の命令を出し、ヴァレンの名前で計画が進んでいる。


 その計画の詳細な予算書が、なぜか辺境の屋敷にいるパットン宛に届けられ、人払いをした執務室で広げられていた。


 パットンは静かに次のページをめくったが、廊下から足音が近づいてくると、慌てて他の書類の中へ混ぜた。


 ノックの音が響き、パットンが返事をすると、ジェーンが扉を開けた。


「王都から兵士が来ています。緊急報告だと言っています」

「わかった。部屋に通せ」


 パットンは予算書の上に他の書類をドカドカと乗せ、如何にも普通の執務をしていたように装うと目を上げた。


 通された兵士は若く、顔に疲労の色が濃かった。

 馬を飛ばして来たのだろう、外套の裾に跳ねた泥が乾いた跡がついている。

 王都から十日以上かかる行程を、睡眠と食事の時間を削って短縮してきた者の疲れ方だった。

 疲労よりも、衰弱という言葉があっている。

 しかし、兵士はパットンの前に立つと、毅然に姿勢を正し、一礼して口を開いた。


 その様子から一大事だと言うのは、誰が見てもわかった。


「王都より参りました。緊急の御報告があり——」


 皆が息を飲んで次の言葉を待つ中、そこで兵士の言葉が途切れた。


 途切れた、というよりピタリと止まった。

 なにかに引っかかったように、次の言葉が出てこない。


 ど忘れというわけはなく、兵士は自分でも戸惑っている様子で、眉を寄せて視線を宙に泳がせた。

 記憶を探す目の動きだ。


 しかし、あるものが見つからない。何かを掴もうとして、手の中をすり抜けていくような表情をしていた。

 それは記憶だった。


「……申し訳ありません。続きが」

「続きが、何だ? どうした?」


 パットンは静かに言った。

 急かしているのではなく、次の言葉を引き出そうとしているのだが、それは空振りに終わった。


「出てこないのです……。確かに報告を持って来たはずなのですが。出発前に上官から直接言われた言葉があって、それを届けるために来たはずで」

「その言葉か? その言葉だけが思い出せないのか?」

「はい……思い出せません。道中は覚えています。馬を替えた宿場も覚えています。しかし報告の内容だけが……」


 兵士の表情に焦りが浮かんだ。

 記憶を手繰り寄せようとするように額に手を当て、しばらく黙っていた。


 あまりの様子のおかしさにジェーンが、なにか嘘をついていないかと兵士の顔をじっと観察していた。


 すると突然「嘘は言ってない」と声をかけられた。


 グライムだった。

 扉の脇にいつの間にかグライムが立っていた。

 廊下で声が聞こえたのだろう、音もなく入ってきて、壁際に静かに立っていた。


「盗み聞きしてたの?」

「盗み聞きするなら声をかけない」

「なら、どういことかわかるの?」

「さあな」


 グライムが肩をすくめると、彼の存在に気付いたパットンが指で招いた。


「グライム、どう思う?」


 グライムは改めて兵士を見た。嘘をついている様子はない。演技にしては精巧すぎる困惑だ。

 嘘をつく人間の目は、どこかに焦点を定めようとする。

 嘘をつくのが上手いほど、人の目をまっすぐ見られるのだ。


 しかしこの兵士の目は、定める場所を失った目をしていた。


 グライムは注意深く表情を確認しながら、兵士へ質問した。


「名前は?」

「ハルディンです」

「いつ王都を出発した?」

「八日前です。それは覚えています」

「ここまで十日以上かかる。よく二日以上も短縮できたな。睡眠時間を削ったか?」

「はい……緊急事態なので。睡眠は削りました。調理の時間も……。もしかしたら……そのせいで記憶が」

「待て、ハルディン。結論を出すな。いいか、オマエの仕事は完了してる。あとはこっちの責任だ。リラックスしろ。やることは結論を出すんじゃない。思い出すことだ」

「はい……。上官の顔も覚えています。部屋の様子も覚えています。しかし言葉だけが……」

「内容だけが抜けている。そのシーンが抜け落ちたのか?」

「はい。他は全部あるのに、そこだけがまるで、深い闇に落ちたかのように。なにもないんです」

「この兵士を休ませる。無理に思い出させようとするな」


 パットンは 急に話を切り上げると、ジェーンに部屋を用意するよう言った。

 ジェーンが兵士を連れだすと、部屋に残った二人にしばらく沈黙が流れた。


 先に口を開いたのはパットンだった。

 しかし、その内容は兵士の話ではなかった。


「……いつからいた?」

「ついさっきだ。その前までは商人の積荷を漁って嫌がられてた」

「国を使って、堂々と泥棒をするな……」

「検品だ。ここの輸送ルートが開通したことは、国にいるヴァレンに伝わるだろ。奴宛ての荷物が紛れ込んでる可能性がある。それとも、オレが調べたらなんかまずかったか?」


 グライムはじっとパットンの目を見た。


「まずいに決まってるだろ……。オマエはスプーン一本でも、なにに使うか予想がつかない男だぞ。オマエこそ、突っ込まれて困ることでもあったのか?」

「……まっ、それもそうだな」


 グライムが何事もなかったかのように肩をすくめたので、パットンはやれやれと頭を振った。


「不機嫌を晒してる暇があるのあらば……少しは兵士の心配をしたらどうだ?」

「少なくとも、記憶の欠如は疲労のせいじゃないな」


 グライムは断定した。

 推測ではなく、ハルディンとの会話を確認した上での言葉だ。


「どうしてわかった? なにか知っているのか?」

「途中まで話せた。止まったのは、内容に入ろうとした瞬間だ。全体的な記憶の欠損とは違う。特定の情報だけが抜けている。それは病気の症状じゃない。病気ならもっと前後に影響が出るだろう。記憶ってのは、勝手に改変されることはあっても、都合良くは消えてくれないんだ。だから急に思い出すってことがあるだろう」


 パットンは眉を強く寄せ、眉間に不快をシワを作ってグライムを見た。

 グライムを疑ってではない、緊急の報告を消された不信感が募っているからだ。


「ではなんだと言うんだ……。緊急の情報なのは間違いないんだぞ」

「誰かが故意に兵士の記憶の一部を消したとしたら。……大問題だな。確実に王都の関係者だ」

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