第一部「夜明けの死体」
朝の市場が開く前に、男は死んでいた。
辺境の町の北区は、夜明けの時間帯が一番静かだ。
倉庫街というのはそういうもので、荷物が動くのは昼間だ。
夜明け前に人が動くことはほとんどない。
だからこそ死体は長い間、誰にも気づかれなかった。
発見したのは早朝に配達に出た荷運びの男で、路地の入口を通りかかった時に足が見えたと言った。
最初は酔っ払いが寝ていると思い近づいたのだが、ひと目見て違うと分かった。
衛兵が呼ばれ、屋敷へ報告が届いたのは、それから一時間ほどたった頃だった。
グライムは報告を聞いた時、眺めていた書類をそのまま置いた。
急いだわけではない。パットンに押し付けられたつまらない数字とにらめっこするよりも、遥かに頭を使う事件が起こったからだ。
領民一人の税の数字が合わないことなど、グライムにとってはどうでもいい。
パットンも同じだった。報告を持ってきたジェーンの話を最後まで聞く前に立ち上がると、話を聞きながら現場へと向かった。
北区の倉庫街は、屋敷から歩いてそう遠くない。10分ほどで着く距離にある。
朝の空気は冷えていて、石畳から薄い霧が立ち上っていた。商人が馬車を引いて遠くを通り過ぎる音が聞こえたが、それだけだ。
北区のこの一角まで来ると、倉庫の壁が音を吸っているかのように、音が遠のいた。
路地の入口に衛兵が三人立っていた。
一人が入口を塞ぐように立ち、一人が路地の中で死体の傍に跪き、もう一人が少し離れた場所に立って動かなかった。
三人目の男が持っているもの、恐らく凶器だと思われる剣を、グライムは路地に入る前に横目で確認した。
幅広い刃。金属の表面に細かい文様が刻まれている。
柄頭に紋章が入っていた。神殿の紋章だ。
葬儀や魂送りの儀式で使われる、司祭の儀式剣だった。
刃に血がついており、衛兵はそれを両手で丁寧に持っていた。
グライムが剣から視線を戻した隙に、その横をパットンが駆け抜けて行った。
「どうした! 何があった?」
駆けつけるなり、パットンはまず入口の衛兵に聞いた。
衛兵は一礼すると、話し始めた。
死体が発見されたのは夜明け前。
発見者の証言によれば、深夜には路地に人の気配はなかった。死亡時刻は今朝の雨が上がった後だろうという見立てだ。
死因は胸への刺突で、現場に残されていた儀式剣が凶器と見られる。
近くの神殿の司祭が、昨夜この付近で魂送りの儀式を行っていたことが分かっており、剣の出所から司祭への関与が疑われている。
司祭は現在、神殿で事情聴取の最中だ。
衛兵から話を聞き終えると、パットンが路地へ入ったので、グライムも後を続いた。
路地は狭く、二人が並んで歩ける程度の幅しかない。
両側に石造りの倉庫の壁が迫っており、昼でも日差しが入りにくいだろうと思われる角度だ。影を隠すのに丁度いい影が出来ている。
壁の下の方には藻のような緑が滲んでいる。水が染み込んで長い時間がたった跡だ。
昨夜の雨で石畳は濡れていたが、水溜まりは路地の端に寄って残っており、中央部はすでに乾き始めていた。
グライムは死体に近づく前に、路地全体を見渡していた。
争った跡がない。
これだけ狭い路地で争えば、必ず何かが乱れる。
暴れずに殺す方法があるのならば、こんな路地い誘い出す必要はない。
殺されたのならば、抵抗を見せるはず。
壁に傷がつくか、石畳に引き摺った跡が残るか、どちらかだ。
しかし何もない。
石畳の泥は雨の跡だけで、靴が滑った形跡も、誰かが転倒した様子もない。壁に手をついた形跡すらもなかった。
グライムは死体の傍に跪いた衛兵の横に立ち、死体を見下ろした。
被害者の男の名前はルーカス。四十代前後に見える。
顔立ちは平凡で、記憶に残りにくい種類の顔だ。中肉中背。
着ている服は商人風だが上等ではなく、長く使い込まれた服の傷み方をしている。
顔に傷があるが、オレは倒れ込んだ際に出来たものだろう。
ついで手を見たが、爪が綺麗だった。
殴られた形跡も、何かを掴んで争った形跡もない。誰かと揉み合った人間の手ではない。
こういう土壇場の場合、大抵は手のひらに爪の跡が残っていたり、爪が剥がれてしまったりするものだ。
肝心の外傷は、胸の中央、心臓の少し右側にある深い傷だった。
服が血で染まっているからして、これが死因と考えるのに間違いなかった。
しかし血の広がり方が、グライムの目には少し気になった。
傷口から体の前面に沿って血が流れている。石畳への拡散が限られている。
「……傷口を見せてくれ」
衛兵が死体の服をめくった。
傷口は一箇所だ。幅広く、儀式剣の刃幅と見比べると合う。
凶器は司祭が儀式使う短剣だったのは間違いない。
グライムは顔を近づけると傷口の角度を確かめた。
傷を触らずに、その方向へ向かって空中で指をなぞった。
体の外側から内側へ向かっている。
しかしその方向が、わずかに上から下へ傾いていた。
他者が正面から刺す場合、力の向きは水平か、やや下から上になることが多い。
下から上の方が、内臓へ向けて力を込めやすいからだ。
腕を上から振り下ろして刺す場合は角度がつくが、それにしてもこの角度はつきすぎる。
グライムは頭の中で傷の角度と力の方向を整理すると立ち上がり、儀式剣を持っている衛兵に近づいた。
「それ、少し見せてくれ」
衛兵は確認のためパットンを見た。
パットンが頷くと、グライムへ「どうぞ」と渡した。
持ってみると、重い。
想像より重かった。刃の幅が広い分だけ金属量が多く、装飾が多い分だけ柄も重い。これを片手で持って、正確に人間の胸へ刺すのは難しい。
相手が動かない状態であっても、角度を制御しながら片手で操るのは難しい剣だ。
「どうだ? 司祭で間違いないか?」
状況証拠からパットンは司祭で間違いないと思っていたが、グライムははっきり否定した。
「違う。これは自殺だ」
「どういうことだ」
「この傷跡。どう考えてもおかしい。誰かに刺されるなら、傷口の角度が違う」
上から下への方向。体重を乗せながら前に倒れ込んだ時、この角度が出る。
血の広がり方も合う。他者が刺した時の血の飛び方は、刺した時の勢いで傷口周辺に広がる。
しかし、自ら倒れ込んだ場合。体重がかかった後で血が流れるため、体の前面を伝う形になる。
今朝の死体の血の広がりは、後者に近かった。
「劇じゃないんだ。刺し方なんて、犯人のその時の状況によるだろう」
「だとしたら、殺される前に抵抗した形跡があるはずだ。だが、ここに争った形跡はない」
グライムは路地の壁を確認した。
石の継ぎ目に、わずかな擦れた跡がある。
石の表面についた新しい傷だ。
昨夜の雨の前についていれば、もっと水に洗われている。
雨が上がった後についた傷だ。
これは刃先の傷ではなく、もっと丸まったものが勢いよくぶつかったもの。
グライムの頭の中で、あるシーンが思い浮かんだ。
それは司祭が刺す映像ではなく、被害者がこの場所に倒れ込む映像だ。
ナイフの先を心臓に向け、脇を締めて固定する。
男がそのまま前に倒れ込み、自重で短剣を突き刺したのならば、傷の角度と一致する。血の広がり方とも一致する。
グライムが剣を衛兵に返すと、その一連の動作をパットンが見送った。
「なるほどな……。だが、死因に納得がいったとしても、理由がわからない。なぜ自殺するのにわざわざ儀式の剣を使う」
「……パットン」
「何だ」
「それは司祭に話を聞きに行こう」
北区から神殿へは、石畳の細い道を十分ほど歩く。
辺境の神殿は王都のそれとは違う。
王都の神殿は広い敷地に白い石造りの建物が並んでいるが、ここは礼拝堂と居室と保管室が一体になった、こぢんまりとした建物だ。
前の庭に草が生えており、手入れはされているが華やかさはない。
質素で、清潔で、長く使われてきた建物の落ち着きがある。
司祭は一人でそこに住み込んでいた。
名前はオットー。
衛兵から事前に聞いた情報では、六十に近い年齢で、この神殿に十年以上いるという。辺境の住民たちに親しまれている。
人当たりが良いと評判で、困った時に相談に来る住民もいると聞いた。
部屋に入ると、オットーは椅子に座っていた。
白髪を後ろへ撫でつけた、痩せた老人だった。両手を膝の上で組んで不機嫌にしている。
衛兵が二人、部屋の入口に立っているのをみて、もう既に尋問を終えた後だ。
だからか、オットーはパットンとグライムが入ってきても立ち上がらなかった。
自分の言うべきことはすべて話したと、態度から現れている。その目には怯えがなかった。
自分が殺人の容疑にかけられていると事態を理解した上で、それでも落ち着いているような目だった。
「殺してはおらん」
二人からなにか言われる前に、オットーは先に言った。
グライムはその言葉に頷いてから、しばらく室内を見渡した。
質素な暮らしぶりだった。
棚に宗教的な書物が並んでいる。
床に敷物がある。テーブルの上に燭台と書きかけの書類があった。
窓が一つ、外の光を細く取り込んでいる。
「昨夜の儀式の後、何をしていましたか?」
「神殿へ戻った。道具の手入れをして、眠った」
オットーの声は落ち着いていた。
問答に慣れた人間の答え方だった。
「儀式剣を持ち帰りましたか?」
「必ず持ち帰る。神聖なものだから、置き去りにはできない」
「今朝、剣がないことに気付きましたか?」
「気付かなかった。衛兵が来て、初めて知った」
「昨夜、誰か訪ねてきましたか?」
「来なかった」
「保管場所はどこですか?」
「保管室だ。鍵はかけていない。私一人しかいないから」
グライムはオットーの話を聞きながら、並行して別のことを確認していた。
オットーの足元だ。
椅子に座っているため全体は見えないが、床につく足の角度が気になった。
床に足の裏全体をつけていない。踵がわずかに浮いているせいで、喋る時に肩がかすかに揺れている。
椅子に座った時、人間は普通、足の裏を床につける。
踵を浮かせたまま座り続けるのは意識しないと難しいが、オットーはそれを意識している様子がなかった。自然にそうなっていた。
自然についた癖ではない。長年かけて体に染み込ませた姿勢だ。
グライムは質問を続けた。
「ルーカスという男を知っていますか」
オットーの目が、わずかに動いた。
それまでの落ち着いた目の動きと、少し違う動き方だった。
「……知っている。信者だ。月に一度、礼拝に来ていた」
「最後に会ったのはいつですか」
「三日前だ。葬儀の準備の打ち合わせで来た。知人を亡くしたので、葬儀に参列したいと言っていた」
「昨夜の葬儀にも来ましたか」
「……来なかった」オットーは少しだけ間を置いた。「来るはずだったが、来なかった。不思議に思っていた。まさか私を疑っているのか? 司祭だぞ?」
グライムは笑顔を作った。
「いいえ、これで今回の事件、あなたが犯人ではないことがはっきりしました。ありがとうございます」
その後、パットンがオットーのアリバイの詳細を確認した。
昨夜の儀式に同席した人間の名前。神殿へ戻った時刻。近隣の住民からの証言。それらを丁寧に確認したが、オットーのアリバイは複数の証人によって支えられていた。
昨夜の儀式に参列した住民が三人おり、全員が儀式の終了後に司祭が荷物をまとめて神殿の方へ歩いていくのを見たと言っている。
神殿の隣家の住人も、夜の間に特別な物音はなかったと言っていた。




