第四部「辺境へ」
新たな朝を迎え、出立の準備が始まる中、パットンはマリアを呼んだ。
パットンの妻。つまり王子妃だ
「マリア……君はここに残ってくれ」
「ええ、人質ですね」
マリアはにっこり笑っていた。
「マリア……」
「大丈夫、わかっていますよ」
「あの男は、私たちが辺境へ行った後も、何か手を打てるようにしておきたい。私に直接影響を及ぼせる立場の人間を、手の届く場所に置いておきたい。それが君なんだ」
パットンは自分に言い聞かせるように、声を抑えながら、しかし一語一語を明確に言った。
「理解しました」
マリアは震えのない声で言った。
「本当にすまない……連絡の手段は恐らくない。手紙は全て検問されるだろうし、ジェーンの潜入も不可能だ。君が一番危険な場所にいることになる」
パットンが目尻に涙を溜めて見つめると、マリアはくすくす笑った。
「心配しなくても大丈夫よ」
「気休めはいい……。私は君を牢屋に入れたも同じだ」
震えるパットンの声は涙のせいだが、震えるマリアの声は笑いのせいだった。
パットンが不思議に思うと、マリアはワイン瓶を一本取り出した。
「それは!?」
「海賊ワインって言うんでしたっけ? ここが牢屋ならばお似合いじゃないかしら?」
パットンが面食らった様子を見て、マリアまたくすくす笑うと、もう一つのアイテムを取り出した。
それはポプリだった。
「これは……ボンドが侵入する時に、カックラウの鼻を誤魔化すのに使っていたものか?」
「ええ、グライムがお友だちに話してくれたみたい。第二王子は、カックラウの鼻のことを言うと逃げたって。だから、お友達のゴブリンの匂い消しのギミックには気付いてないって。それと、海賊ワインの暗号の解き方を教えもらったわ。次にボンドと合う約束の場所と時間は、このワインの暗号を解けばいいの」
「あいつらめ……。よくもマリアに泥棒の技術を教えたな……」と憎たらしげに言う頃には、パットンの口の端に笑みが戻っていた。「無理はするな」
「それはあなたにも言えることよ。正しくない」
パットンは少し黙った。それから短く言った。
「生きていろ。それだけだ」
マリアは笑顔で頷いた。
出発の日は晴れていた。
考え事が何一つない頭の中のように、皮肉なほど良い天気だった。
青い空が広がり、城下町を囲む城壁が、日差しを浴びて、白く輝いている。
旅立ちに相応しい朝だとすれば、それが今日でなければよかったと思うほどだ。
パットンの一行は、馬車二台と護衛数名で編成されていた。
ジェーンとカックラウが同行する。グライムも乗る。それだけの一行だ。
お世辞にも国が出した編成だとは思えない。
これはヴァレンからの宣戦布告の意だった。
王城の門を出る前に、パットンは一度振り返った。
城壁が後ろに見える。
その城壁のどこかの一部は、過去の事件で壊れ、修復されたものだ。
そしてその修復の際に、魔法錠の境界が変わり、グライムへの罠が整えられた。
全てが繋がっている。
偶然はない。
「行くぞ、出せ」
パットンは前を向いて言うと、御者の無知が空にしなって響いた。
馬がいななき、馬車が動き始める。
グライムは馬車の窓から王都を見ていた。
行き交う人々。朝市の声。普通の日常が動いている。その中に、ヴァレンの協力者たちも混じっているはずだ。
どの顔が、どの声が、そちらへ繋がっているか分からない。
「グライム」
パットンが向かいの席から言った。
「七日の返答期限は今日で終わる」
「そうだな」
「断ったことになるな」
「そうだな」
パットンはしばらく外を見て、日差しに早る気持ちを溶かそうとしていた。
「後悔するか」
グライムは考えた。フリではなく本当に考えた。
「するとしたら新しい土地についてからだな」と言った。「これでしばらくは、オレはアンタの正式な部下だ。そう考えると後悔しかない」
グライムは魔法錠が外れた腕を見せていった。
「一応釘を差しておくが、私は真面目に言っているんだぞ」
「わかっている」
「それでも続けるつもりか」
「当然だ。そうでなけりゃ、ボンドを残さない」
グライムが視線を向けた先、パットンは幌の隙間からの外を見た。
そこには露天売りがいる。馬車に直接売りに来る違法な商売だ。
当然商人の馬車を狙う集団だが、国から出た馬車とは思えないほどの手薄な軽微なので、勘違いしてよってきたのだ。
その中で、グライムはだらしなくお腹が出たオークからワインを、馬車の中から通り過ぎざまに買った。
当然、そのオークは変装したボンドであり、暗号をしたためたワインを届けに来たのだった。
二人に別れの挨拶はなし、変わりに商人にお礼を言うようにワイン瓶傾けた。
すると、オークのお腹がいびつな形に膨らんだ。
グレッチェンもグライムにしばしの別れを告げたのだ。
「パットン。アンタも覚えろよ。賊の手段を。マリアとラブレターを送り合いたかったらな」
「そのことで文句がある……マリアに余計なことを教えるな」
「別にいいだろ。女が強いほうが国はまわる。それに、海賊ワインは城でも仕入れる。ヴァレンも疑わない。酒瓶一本一本疑ってたらキリがないからな」
いつの間にか馬車は王都を出て、東へ向かう街道へ入っていた。
王都の輪郭が後ろへ遠ざかっていく。
グライムはそれを見ていた。
街道の両側に広がる草地が、街並みに取って代わる。空は高く、どこまでも続いている。
遥か前方には、まだ見ぬ辺境がある。
新しい土地。新しい事件。新しい陰謀。
そして後方には、王都がある。
そこでヴァレンが動いている。中央で、自由に、計画を進めている。
「パットン」
グライムは言った。
「どうした?」
「一つ確認していいか」
「もうひと目を気にすることはない。言え」
「ヴァレン、あいつが何者であれ——古代魔法を使うということは、その魔法の媒体が必要だ。何かを持ってる。その媒体が分かれば、証明の糸口になるかもしれない」
「辺境へ行きながら、中央のことを考えているのか」
「常に考えてる。頭脳は場所選ばない。辺境だろうが……牢屋でもな。アンタが一番身に沁みてるだろ?」
パットンは少し間を置いて言った。
「本当に面倒な男だ……。だが、今はこんなに頼もしく感じるとはな」
二人は同じ方向を向いていた。
新しい辺境の地へ。
その日の夜。
王都の高い場所で、ヴァレンは報告を受けた。
パットンの一行が出発したこと。
グライムも同行したこと。七日の期限内に返答がなかったこと。
「失望しましたか」若い男が尋ねた。
「いや」ヴァレンは言った。
「期待通りだ」
「来ると思っていなかった?」
「来るとも来ないとも、思っていなかった。あいつがどちらを選んでも、次の手は変わらない」
「では今後は」
「中央での準備を続ける。パットンは遠い場所にいる。グライムもいない。今が動きやすい」
若い男は頷くと、どんな命令でもといったように一歩引いた。
だが、ヴァレンは手で制した。
「ただ」とヴァレンは付け加える。「辺境にいても、グライムは動く。確かだ。だから辺境での状況も、目を離さない」
「監視しますか」
「監視ではなく、観察だ」
ヴァレンは静かに言った。
「あれほどの頭脳が、辺境でただ事件を解決するとは思えん。絶対にこの国に残っている仲間に知らせるはずだ。国外のニュースは常に私の耳に入れろ。どんな些細なことでもだ」
若い男は黙って頷いた。部屋の灯りが揺れた。
ヴァレンはもう一度、窓の外を見た。
王都は静かだ。灯火が揺れている。パットンが去り、グライムが去り、中央で暗躍するものまた自分だけになった。
心に一時の安寧の風が吹く予定だったが、グライムの最後の動作を思い返しすと、そうもいかなかった。
城壁の欠片を投げた瞬間。
あれは偶然ではない。周到に用意されていた。逃げ道を塞いだつもりだったが、別の逃げ道をグライムは持っていた。
ヴァレンはそのことを、計算の中に書き込んだ。
グライムは把握されても困らない動き方を知っている。把握させながら、核心を隠す。そういう人間だ。
ヴァレンはここ数日、何度も思った惜しいという言葉を、また頭に思い浮かべてた。
一方その頃、辺境への街道を進む馬車の中で、グライムは目を閉じていた。
眠っているわけではなかった。
頭の中で、あの夜の会話を繰り返していた。
ヴァレンの言葉。
そのどこかに、何か引っかかるものがある。うまく言語化できない。しかし何かが、頭の中に刺さっている。
言わなかったことが、あった。
あの人物は巧妙に言葉を選んでいたが、何かを言いすぎていた。あるいは言わないことで、何かを示していた。
グライムはその感覚を大切にしまい込んだ。
辺境へ着いたら、もう一度整理する。
時間はある。
知性は敵を選ばない。
どこにいても、動ける。
馬車は夜の街道を進んでいく。
前方の暗がりの中に、新しい土地がある。
その先に、次の物語が待っている。
グライムは世界が太陽を落とし、闇に染まっていく中。
一人静かに覚悟を決めていた。
シーズン1の終了です。
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