第一部「第二王子の秘密」
シーズン1ラストの話です。
シーズン通してのグライムの行動が関係してくるので、この話から読み始めうようと思った方で、【ネタバレ】が苦手な方は、一話目からお読みいただけると幸いです。
詩人の事件が終わった夜。
高級宿から外へ出ると、夜の石畳に水たまりがいくつか残っていた。
雨はもう上がっており、今夜の月をより幽玄に輝かせていた。
グライムは水たまりを踏まないように歩きながら、先ほどまでの部屋を頭の中で反芻していた。
シオン・ヴォーカルは連行され、騎士団の背中が角を曲がって見えなくなるまで、グライムはそれを見ていた。
そんなどこか忙しない様子のグライムを心配して、パットンが隣に立った。
「大丈夫か? まだ顔色が悪いぞ」
「三行目まで食らったんだ。しょうがないだろ……」グライムは肩をすくめた。「脚が動かなくなって、頭が霧みたいになった。もう少し遅かったらやばかった」
「……来てよかった」
「助かった」
グライムの言葉は短かったが、本気だった。
パットンにはそれが伝わっていた。
やがてグライムが隠れ家に向かって歩き始めると、二人はしばらく無言で歩いた。カックラウが少し後ろをついてくる。ジェーンはもっと後ろで二重警護の形を取っている。
隠れ家までの道は長くない。グライムはその道のりの間、ずっと考えていた。
詩の術式の中に飛び込んできたパットンのことをだ。
グライムは詩のことはパットンに任せきりだったし、正直パットンが詩をあそこまで扱えるとは思っていなかった。
詩の批評でシオンのリズムを崩す。という手は、パットンが思惑に気付いて、呼応してくれなければ成立しなかった。
グライムが一人でいくら挑発しても、シオンは術式を続けながら対応できた。二方向か
ら同時に崩されたから、シオンは詩を完成させることができなかったのだ。
貸しができた、という話ではない。グライムはそう思っていた。
「パットン……」
グライムが口を開いたのは、隠れ家のある路地に入る手前だった。
「なんだ?」
「話がある……。今夜、ちゃんと話す」
パットンはグライムの横顔を一瞬見た。
何も言わなかった。ただ静かに頷いただけだ。
隠れ家の二階。
カックラウとジェーンには下がってもらった。
パットンが一言言えば、二人は何も聞かずに一階へ降りた。グライムはそのことに少し安堵した。
パットンの部下というのは、余計な口を挟まない。
蝋燭が一本灯っている。テーブルに酒を出すかどうか考えたが、グライムはやめた。飲みながら話す内容じゃない。
「三年前のことだ」グライムは椅子に座ったまま言った。「オレがこの国から消えた理由と繋がってる」
パットンは向かいに座り、腕を組んで聞いていた。
「オレが王都に戻ってきたのも、その理由からだ。三年前に見たものを……もう一度確認したかったから」
「第二王子のことか。……私の聞き間違いや、詩術の影響の幻の類ではないんだな?」
「ああ」
グライムは一度息を吐いてから続けた。
「二年か……三年ほど前だ。オレは王都の暗部と呼ばれる区域にいた。王城の北東、古い水路跡に沿った一帯だ。昼でも日が差し込まない路地が続く、苔とカビの匂いがする、あまり人が立ち入らない地域だ」
「知っている。まだ立ち入ったことはないがな。言っておくが、あそこは立入禁止区域だぞ」
「そうだな。それは重要だ。……その日の夕刻、路地を歩いていたとき、見覚えのある人物を見かけた。ヴァレンだ――第二王子のな」
パットンは何も言わなかった。変わりに強い眼力で、続きを話せと促した。
「ヴァレンがああした場所に一人でいることが、当然不自然に思えた。単純に、興味本位だ。後をつけた。七、八分ほどだな。ヴァレンは迷路のような複数の路地を通り抜けて、人目のない中庭のような場所に入った。オレは物陰から様子を窺ってた」
グライムの声から、いつもの軽さが消えていた。
「ヴァレンは周囲を確認した。念入りにな。一度で満足せず、三度、四度と視線を巡らせた。そして誰もいないと判断した時に——」
グライムは言葉を切ってから、少し声を大きくした。
「姿が変わった」
「変わった? どういうことだ」
「文字通りだ。まず全身から暗色の何かが剥がれ落ちるように拡散し、光が引くように消えた。そしてその後に現れたのは、オレが見知っているヴァレンとは別の人物だった。顔も、体格も、声も。その人物が数秒ほど独り言を呟くのを聞いた。たぶん声色の変化を確かめるためだろう。声色が違ったんだ、完全に」
しばらくの沈黙があった。
パットンは立ち上がり、窓際へ歩いた。外を見るためではない。
体を動かさないと、今の話を処理できないからだ。
体中の血管が、血の代わりに焦燥感を運んでいるかのように、全身に鳥肌が立っていた。
「……確かに見たのか?」
「見間違いの可能性は否定しない……」グライムは言った。「だからこそ、ずっと黙ってた。証拠がない。再現もきない。オレ一人の目撃証言だけでは何も言えない」
「それで三年前に国を出たのか」
「消される前に出た、が正確だ」
パットンが振り返った。
その顔は決心を固めたような、険しいものだった。
「つまり……グライム。オマエは既に、向こうに気付かれていたということか」
「たぶんな。完全には確信が持てないが、あの後から動きが変わった気がした。オレを探してる人間がいる感覚があった。だから出た」
「なぜ今、戻ってきた」
「もう一度確認したかったと言った。それは本当だ。それと——」グライムは少し間を置いた。「オレが欲しいものと、ヴァレンの欲しいものが一致している」
パットンはしばらく考えてからグライムを見ていた。
まるでガラスの薄板を相手にしているかのようだ。少し間違った質問をすれば崩れ去ってしまいそう。それほど、繊細な事件が起こっているのだ。
パットンは問いかけを間違えないよう身長になり、そしてそれは正解だった。
グライムの目的ではなく、ヴァレン真相について触れた。
「オマエがあの現象を何だと思ってるか、聞かせてくれ」
「光と闇を扱う古代魔法だ。現代では失われた技術とされてる。何らかの媒体を通じてしか発動できない。そして光と影を操ることで、外見そのものを変える力がある——そう伝承されてる。オレは魔法の専門家じゃない。でもオレが見た現象と、その描写は一致する」
「つまり今のヴァレンは偽物かもしれない、ということか」
「かもしれない――じゃない、偽物だ。でも証拠がない」
パットンは窓の外を見た。
街灯の灯火が無数に揺れている。そのどれもが自然であり、不自然な揺らめきだった。
「これまで感じていた違和感と一致する」
パットンは低い声で言った。
「ヴァレンとは何度か顔を合わせたことがある。兄弟の中で最も政治的な男だと思っていた。しかし何かがずれている感覚が常にあった。人間の温度というか——話しているのに、話していないような感覚だ」
「裏社会の人間は演じることに長けてる。でも生活に染み付いた習慣や表情の癖は、短時間では消せない。だから潜入って言葉があるんだ。潜入ってのは基本的にはバレるまでか、バレてもいいまでするもんだ」
「つまり本物のヴァレンであれば持っているはずの何かが、今のヴァレンには欠けているということか」
「それはオレにはわからない。話したこともないんだからな」
二人の間にしばらく沈黙が流れた。
「今夜話してくれたのは、なぜだ? 私はずっとオマエの裏を疑い、ジェーンに捜査させていた。気付いていただろう」
パットンが聞いた。責めているわけでも、捜査を悪びれているわけでもない。確認したかっただけだ。
グライムは少し考えてから、おもむろに口を開いた。
「パットンが来てくれたからだ。詩の術式の中に飛び込んできた。アンタの手を借りて、シオンの詩を壊した。オレが持ってるこれだけの情報を、何も返さないのはフェアじゃない」
「フェアか」
「義理と言い換えてもいい。裏の世界でも義理は通す。むしろ義理があるから、悪党同士が繋がれる部分もある」
「……なるほど」
それだけ言って、パットンは再び窓の外を見た。
「わかった。引き続き調査しよう。ただし秘密裏に。この情報は今この部屋の外に出してはならない」
「当然だ」
こうして、二人の秘密の会話は一度幕を閉じた。
その頃、城の一室。塔の上に、見晴らしの良い場所。
ヴァレンはそこから王都を見ていた。
王城の最上階に近い一室。
扉には鍵がかかっており、使用人が立ち入ることを禁じた部屋だ。
そこで彼は羊皮紙に記された報告書を読んでいた。
報告書の内容は、グライムという人物に関するものだった。
出自は不明。経歴はほぼ詐称。知識の幅広さ。詩人事件への関与と解決。
そしてパットンとの関係の変化。
ヴァレンはゆっくりと羊皮紙を置いた。
部屋の中に一人、使い走りのような若い男が控えていた。
二十代前半ほで若い顔出たちだが、長年そうしてきたかのように顔に表情の薄い男だった。
「王子……先日の件についてですが」
「話せ」
「グライムは気付いているようです。王子が数年前に王都の暗部で姿を変えた件——目撃者が存在するとは、その当時から懸念していましたが、やはり」
「やはり、だな」
ヴァレンの声は落ち着いていた。動揺の色がない。むしろ興奮に少し高ぶりを見せていた。
「以前、パットンの馬車にルミナス暗号の手掛かりを流したのも、その確認のためだったのでしょうか」
「そうだ。優秀な人間は、情報の断片から全体を組み上げる。断片を与えてみれば、どこまで辿り着くかが分かる。案の定ここへ戻ってきた。グライムは合格だ。私の試験に合格したと言っていいい。思った以上だった。グライムは私の仕掛けた誘導を見抜き、その上で自分に有利な形で利用した。あの事件の解決過程を追えば分かる。あれは偶然ではない。知性の働きだ」
若い男は黙って聞いていたが、感情のない声で「消しますか?」と尋ねた。
ヴァレンは少しだけ笑った。
人が笑う形に口角を上げただけで、目は笑っていない。
「惜しいな。あれほどの頭脳はそう生まれない。誰かが育てられるものでもない。生まれついてのものを、なすがままに研磨してできた。知性の剣だ。消すには惜しい」
「では」
「こちらへ引き込む。あるいは、こちらへ来ざるを得ない状況を作る。いずれにせよ、敵にしておくよりは味方にした方がいい」
ヴァレンは立ち上がり、窓際へ歩いた。
空のグラスを持つと、すぐに執事がワインを注いだ。
ブラッド・ムーンみたいに赤いワインだ。
それを明け始めた空の、消えかける月に向かって乾杯した。
「数日以内に接触する。場所を用意しろ。人目のない場所。ただしグライムに危険だと感じさせるな。頭の良いネズミだと思え。普通の場所に罠を仕掛けろ」
「承知しました」
「それから」ヴァレンは付け加えた。「魔法錠の境界を確認しておけ。城壁修復後、城下町の魔力の流れが変わった。現在の範囲が把握できていない者は多い。グライムはどうかな」
「おそらく把握していないかと」
「確認しておけ。あれはそういう細部を重視する人間だ。不意打ちを好まない。逃げ道を常に確保しようとする。その逃げ道を、静かに塞いでおく必要がある。魔法錠の範囲の外には出すな。パットンと三獣士が駆けつけると厄介だ」
ヴァレンは窓の外を見た。
王都の夜景が足下に広がっている。灯火が無数に揺れている。
その全てが自分の計画の一部だと言わんばかりの静かさで、ヴァレンは夜を眺めていた。




