第三部「流れ」
昼の街は騒がしい。
市場の通りは人が絶えない。
野菜の売り声、荷車の音、子供の笑い声、商談の声が混ざり合って、大きな音になっている。
ジェーンはその中を一人で歩いていた。
非番の昼だ。
ボンドも捕まえた彼女は上機嫌だった。
新しいドレスを自慢するように、特に目的もなく露店を冷やかしながら歩いていた。
果物の山を通り過ぎ、陶器の並ぶ棚の前で立ち止まり、香辛料の匂いのする路地を曲がった。
「そのドレス、似合ってるよ」
背後から声がし、ジェーンは振り返った。
振り向くとグライムがいた。通行人の隙間からこちらを見て手を振っている。
普段と変わらない格好で、笑顔で近づいてきた。
「ジェーン。地下牢ぶりだ」
ジェーンはグライムの作られた笑顔を見て、呆れ半分でため息をついた。
「あなたに言われても嬉しくない」
「なんで?」
「嘘つくの得意だから」
グライムが笑った。否定しなかった。
その余裕が気に障ったジェーンは「お仲間なら今頃捕まってるわよ」と告げた。
「だろうね」
グライムはそれだけ言って、特に動揺した様子もない。
それどころか、普通に隣に並んで歩き始めた。
彼を追い払うつもりだったジェーンは、その態度に少し拍子抜けした。
焦ってはいない。まるでそう告げられるのも予定通りみたいな顔だった。
ジェーンはそのまま歩き続けた。
グライムも横に並んで歩いた。
当たり障りのない会話。
ジェーンはその会話の中から、グライムの意図を見つけ出そうとした。
恋人でもなければ友人でもない。かといって他人行儀でもない。
不思議な雰囲気を持ったまま、二人で市場の通りを進んでいく形になった。
しばらく歩いたところで、グライムが通り沿いのワイン露店に目を向けた。
棚に瓶が並んでいる。ラベルに青い帆船の絵が描かれた銘柄だ。
「まだ人気あるんだな。これ」
「知ってるの?」
「前にこの国にいたって言っただろう」
「そうね。この国の名物みたいなものよ。国ではなく、人が作った名物。嫌いじゃないわ」
グライムが棚の前で足を止めた。
一本を手に取って瓶を傾ける。ラベルを見て、瓶の底を確かめて、光に透かして色を見た。
そして、ジェーンへと向き直った。
「この話の真実、知ってるか?」
「知ってるわ。海賊ワインが偽物だったって話でしょ」
「違う」グライムが言った。「"本物"になったんだ」
ジェーンは意味がわからないと言った表情を浮かべると、グライムはその顔が見たかったと悪戯な笑みを浮かべ、瓶を棚に戻しながら続けた。
「今じゃ、本物が売られていた期間よりも、偽物が売られていた期間の方が長い。そっちの方が基準になってる」
「意味わからないわよ」
「そんなことない。ジェーン。君なら知ってるはずだ。面白いだろ。誰も本物を知らないのに、みんな本物として飲んでる」
ジェーンはその言葉を聞いて、何か引っかかるものを感じた。
昔、グライムが地下牢に幽閉されていた時だ。
城では彼の存在は秘密になっているので、三獣士が交代で見張りについていた。
その時、似たような話をしていた。
ただし、そのときは"失敗した昔話"のように語っていたはずだ。
目の前のグライムは違う目でそれを見ている。
現在進行形で、今この市場で起きていることとして見ている。
グライムが別の棚の瓶を手に取った。こちらは焼印が違った。
「今年は煙が強い」
「そういう味なんでしょ? 海賊ワインは毎年、いくつも色んな種類が入ってくるのよ」
グライムが首を横に振った
「それは表の歴史だ。海賊ワインっていうのは、外の世界の情報を集めてくるんだ。北側の港で、新しい連中が動き始めた」
「……何の話?」
グライムの言葉に、ジェーンの動きが止まった。
「こっちは陸路輸送が増えてる。鉄輪加工も雑だ。急造ルートだな」グライムが瓶を棚に戻した。「焼印の打ち方が変わってる。同じ産地の銘柄なのに、去年と今年で工程が違う」
「ちょっとちょっと! なんでワインでそんなことがわかるの?」
グライムが少し笑ったので、一杯食わされたとジェーンはため息を付いた。
「なんだ……適当なのね」
「裏の連中は、酒を飲んでるんじゃない。流れを見てる」
「流れ……?」
「荷が動けば、誰かが動いてる。ルートが変われば、何かが変わってる。酒は重い。陸路で運ぶのは金がかかる。それでも陸路を使うなら、海が使えない理由がある」
「そうねぇ……。検問が増えてるとか?」
「あるいは港に入りたくない理由がある、とか」グライムが続けた。「この銘柄、去年まで港経由だった。今年から内陸の中継拠点を使ってる。それが焼印に出てる。金属の質と打ち方が違う」
グライムにワイン瓶を手渡され、ジェーンは瓶を改めて見た。
手元の瓶も、並んでいる瓶もどれも同じに見える。
ラベルも焼印も、大差ない。
しかし言われてみれば、焼印の線の太さが隣の瓶と微妙に違う気もする。
それが本当なのか、グライムの誘導によってそう感じているのか、ジェーンには判断がつかなかった。
「あなたはこういうことを、いつも調べてるの?」
「市場を見てると、色々見える。何が人気かじゃなくて、何がどこから来てどこへ向かうか。その流れが変わった時、誰かが何かをした。ということだ」
ジェーンは少しずつ、この男が何を見ているか理解し始めていた。
市場の棚に並んでいる酒。
それを買う客。売る露店主。補充する卸の人間。港から運ぶ業者。どこかの倉庫で積み替える人間。船から陸に上げる人間。海の向こうで樽を作る人間。
その全部が繋がっていて、グライムはその繋がりの変化を、棚に並んだ瓶の焼印から読み取っている。
「もう一つ見てるものがある」
グライムが棚から少し離れて、通り行く人を眺めた。
「何を?」
「誰がこの海賊ワインを買っていくかだ」
ジェーンも視線を向けた。
市場を歩く人々が、興味本位でワインの棚から瓶を手にとっている。
主婦らしい女性。商人風の男。使用人らしい格好の若者。高級な外套を着た老人。
「あの貴族、三本買った。先月は一本だった」
「見てたの?」
「先月もここを通った」
「覚えてるのなんてあなたくらいよ。そんな覚えてどうするのよ」
「三本と一本は違う。意味が違う場合がある」
ジェーンは呆れながらも、否定できなかった。
その様子を見て、グライムは続けた。
「贈り物が増えた。宴席が増えた。あるいは備蓄してる。あの貴族の中で、生活の何かが変わったんだ。市場って面白いよな。本物かどうかなんて誰も気にしてない。みんな、"みんなが本物だと思ってるもの"を買う」
ジェーンは黙って聞いていた。
「そういえば」グライムが通りの向こうへ目を向けながら言った。「貴族向けの注文箱、積まれてるな。あそこの配送業者、二ヶ月前から変わってる」
「配送業者が変わったのが、何か問題なの?」
「問題かどうかはわからない。ただ変わったんだ。でも、変わったのには理由がある。皆当たり前のことを見落としている」
ジェーンが少し考えてから言った。
「王都の南側で荷の動きが変だ、っていう話……。王子から聞いたことがあるわ」
グライムが少し目を動かした。
ほんのわずかだ。表情はほとんど変わらない。
「それがこのワインと関係してるの?」
「関係してるかもしれないし、してないかもしれない。ただ同じ時期に、同じ地区で、いくつかの流れが変わってる。これを偶然と捉えるかは……人によって変わる」
まるでこの場所から世界を動かしているかのような口ぶり。
ありえないことだと理解していても、一瞬ジェーンは背中に冷たいものを感じた。
「……あなたって、今何をしてるの。具体的に」
「君と二人で市場を歩いてる」
「それはわかってるわよ」
「それ以上のことは言えない。ここまで話したのは、キミのドレスがキレイだったからサービスだ」
ジェーンは足止めて少し考えた。
「最初に海賊ワインの噂を広めたのって……」
グライムは否定しなかった。ただ、少し笑った。
それでジェーンは理解した。
「海賊ワインは自然に広まったわけじゃないのね……あなたが故意に広めた」
「最初に火をつけたのは別の話だ。海上の酒が風味が変わること自体は本当だ。それは昔からあった。食料や飲料水の保存の技術が酒に生かされただけだからな、ただそれを"特別なもの"として市場に持ち込んだのは……まあ、色々あった」
「あなたが作った噂が、今でも市場に根を張ってる」
「それは結果の話だ」
「結果が大事でしょ」
「そうでもない。オレは失敗したと思ってるから」
「本当にそう思ってるの?」
「本物の再現には失敗した……」グライムが通りを眺めながら言った。「本物を作ろうとして、作れなかった。それが残ったのは偶然みたいなものだ」
「偶然とは思えないけど」
「キミが思ってるより、ずっと偶然だ」
ジェーンはグライムの横顔を見た。
この男は嘘をつくのが得意だとジェーンは思っている。
しかし今、嘘をついているようには見えなかった。
本当にそう思っているように聞こえた。それが逆に不気味だった。計算した上で正直に見せているのか、本当に正直なのか、ジェーンには判断できない。
ジェーンが溜め息をついた。
「一つだけ教えるわ。パットン王子は、あなたのことを信用しているようで、信用しきれていない」
「当然だ。信用されてたら、こんなものを付けられることない」
グライムが魔法錠の腕輪を見せると、ジェーンが笑った。
「じゃあわたし、まだ市場を見て回るから。引き留めるなら構わないけど」
「引き留めないよ」
「あら、今度は引き留めてもよかったのに」
ジェーンは冗談を言って再度笑うと、別れを告げて歩き出した。
グライムはしばらくその後ろ姿を見ていた。
人混みの中にジェーンが消えていく。
グライムは棚に並んだワインの瓶に視線を戻した。北側の港の動き。陸路輸送の変化。貴族の注文量の増加。配送業者の交代。
バラバラに見える動きが、一本の線で繋がりかけていた。
まだ確認が取れていない部分がある。もう少しだ。
グライムは市場の中を歩き始めた。いくつかの露店を巡りながら、瓶の焼印を確かめ、卸業者の台車に積まれた荷の向きを見て、通り過ぎる人の顔を記憶した。
市場は何も変わらず騒がしかった。




