第一部「囁きから始まる怪談」
噂というものは、最初は風に消えるような囁きから始まる。
『見た』と言う者が一人いれば、『自分も似たようなものを見た気がする』という者が三人出てくる。
三人が十人になる頃には、もう誰も最初の一人の話の正確な中身を覚えていない。
形だけが残り。肥大し。やがて街全体に染み込んでいく。
死者が歩いている、という噂が王都に広がり始めたのも、全く同じ広がり方だった。
城に入った最初の報告は、墓地の近くに住む老婦人の証言だった。
夜に目を覚ました彼女が窓から外を見ると、三年前に亡くなったはずの隣人が道を歩いていた、という話だ。
翌朝には、その老婦人が近所に言いふらし、近所から商店へ、商店から酒場へと広がった。
酒場まで広がったら、街全体が知っているようなものだ。
一週間のうちに、同じような証言が七件集まった。
つまり、毎日報告が入っているということになる。
内容は一致していた。
夜になると現れる。夜明け前には消える。誰かを襲うわけではない。声をかけても答えない。ただ歩いている。
そして二週間が経つ頃には、噂話は怪談話へと代わり、城下町の南区画で夜間に人が出歩かなくなっていた。
商店が早閉まりをするようになり、夜間の物流が滞り始めた。
酒場は客が来ないため閉店し、夜に動くはずの荷馬車が動かなくなった。
死者が一人も出ていないのに、街の夜の機能が止まり始めていた。
パットンがこの件を知ったのは、商業組合からの陳情書を通じてだった。
『夜間取引の停滞により、南区画の流通が麻痺しつつある。早急な対処を求む』
という内容だ。
書いた者は怪談の話など一言もしていない。
数字で被害を訴えている。流通量が半減した週次の記録、閉店した店舗の数、雇用者が職を失った件数。
パットンのお抱えの三獣士である猿の獣人のジェーンが、書類を読む彼の隣で補足情報入れ、より詳細に説明している。
パットンは書類を二度読んでから、マリアに声をかけた。
「どうすればいいと思う?」
「それはどっちについて聞いているのかしら。夜の怪談の真相と、それとも数日後に控えてる私たちの記念日について? 前者ならグライムに、後者なら自分の胸に聞くことよ。私が答えられることはないわ」
マリアは笑顔を全く崩さずに言うが、その言葉の節々には棘があった。
「……もちろんグライムに聞く予定だ。そうだろう? ジェーン」
「はい。この後のご予定は城下の隠れ家へ行き、グライムの知見を借りる予定だと言っていました」
ジェーンは淡々と答えた。
パットンがマリアとの予定を完全に忘れていることにも気付いていたが、ここではなにも触れず、彼への忠誠を示した。
だが、それをも見透かしているのがマリアだった。
口元に笑みを浮かべて、堪えきれずに小さくクスクス笑うと、改めてパットンの顔を見た。
「楽しみにしてるわ」
パットンは笑顔で返すと、ジェーンを連れてそそくさと部屋を出た。
そして、ドアを締めるなり「南区画の状況を調べてくれ。特に夜間の目撃情報の詳細を」と指示を出した。
「既に少し動いています。七件の証言を集めました。全て夜から夜明け前の間、全て南区画の墓地周辺で、全て"死んだはずの人物"を見たという内容です」
「他の共通点は」
「誰も襲われていません。何かを盗まれてもいません。ただ歩いていた、というだけで。どうしますか? 本当にグライムに知らせますか?」
パットンが書類をまとめると小脇に書かかえた。
「怪談話で経済が止まっているのは厄介だが……。混乱に乗じてグライムに動かれる方が厄介だ。被害が出るか、長引くまでは知らせなくていい。警備を強化しろ。影を捕まえろと言っているのではない」
翌日から、夜間巡回が増やされ、墓地周辺が封鎖された。
深夜外出者の取り締まりが始まり、死体損壊の可能性も視野に入れて、埋葬地の確認が始まった。
そして四日目の夜に、騒動の犯人が捕まった。
墓地の外壁に近い路地で、兵士の巡回に引っかかったゾンビ族の老人がいる。
黒い外套を纏い、手には短い杖を持ち、地面に何かの紋様を描いていたところを発見された。
兵士に取り囲まれた老人は抵抗しなかった。
ただ静かに立ち、どうしていいかわからずに、兵士たちを見ていたという。
拘束され、施設の留置房へ。
翌朝から尋問が始まったが、老人は口を割らなかった。
「儀式のためだった」
それだけ言って、あとは黙った。
何を尋ねても、何をどう問い詰めても、それ以上の言葉が出てこなかった。
名前すら確認するのに半日かかった。
夜導師と名乗り、それが名前なのか肩書なのかも、最後まではっきりしなかった。
パットンは報告を受けながら、罪状の整理をした。
死体操作の疑い。違法蘇生の疑い。死者冒涜の疑い。墓地付近での無許可儀式。
全部黒だと思った。証拠も揃い、黙秘でごまかそうとしている。
これで一件落着のはずだった。
しかし翌夜も、死者の目撃情報が入ってきた。
夜導師を捕まえた翌日のことだ。
南区画の住民から、また「亡くなった人間を見た」という報告が上がってきた。
さらにその翌日も。
そして翌々日には、目撃件数が増えていた。
パットンは報告書を手にしたまま、しばらく動かなかった。
首謀者を捕まえたはずだ。儀式をしていた人間を拘束した。なぜ事件が終わらない。むしろなぜ増えている。
別の誰かが続きをやっているのか。それとも夜導師は末端に過ぎず、本当の首謀者が別にいるのか。
あるいは、自分が何かを根本的に誤解しているのか。




