第一部「教会の約束」
城の廊下は夕暮れの光で赤く染まっていた。
西向きの窓から差し込む陽が、磨き抜かれた石の床に長い柱の影を等間隔に並べている。
衛兵の交代の足音が遠ざかり、廊下に静寂が戻ると、マリアがおもむろに口を開いた。
「パットン……いいかしら? お願いごとがあるのだけれど……」
隣を歩いていたパットンは、相談事がある時の声だと思い足を止めた。
頼み事がある時よりわずかに柔らかく、しかし諦める気がない時よりわずかに慎重な、そういう声だ。
「どうした?」
「グライムに、会いたいのだけれど」
沈黙があった。
その静寂の間に、パットンの表情がみるみるうちに変わった。
眉間になにか挟めそうなほど、深いシワができている。
「……なぜだ」
パットンの声が低いのは驚きを押し殺しているからだ。
マリアはそれを感じ取りながら、口元にイタズラが成功した子どものような笑みを浮かべ、彼の手を取って両手を重ねた。
「だって、もう地下牢にいないのでしょう? 友人として会いたいわ。そんなにおかしい話かしら?」
「友人というのが気になる。地下牢にいた男だぞ。なにを話したんだ?」
「気になるなら……聞いたらどうかしら?」
「グライムにか?」
「社交界で、少し変わったワインを贈られたのよ。エルフのワイン。あのあたりの高級品はここ数年、流通がほとんど止まっているでしょう? それが手元に届いたから、飲んでみたら本当においしくて。それで……グライムにも飲ませて、感想を聞いてみたくなったの」
「ワインの感想が聞きたくて、あの男に会いたいのか」
「変な理由かしら」
「変だとは言っていない。私でもいいだろう?」
「あなたは少し……お酒に疎いから」
「高級なワインに疎いだけだ。それに、グライムが高級ワインに詳しいとも限らないだろう」
「あら、知らないの? グライムは高級ワインに詳しいのよ。エルフのワインだって、グライムから聞いたワインの知識を話したら、せっかくだからって贈り物にしてくれたの」
パットンは歩き出した足を、数歩で止めた。
「詐欺師だぞ、あいつは……。きっとワインだってそれで詳しいんだ」
「あら、詳しいのは認めるのね」
マリアが口元に手を当ててクスクス笑うと、パットンは眉間のシワをやわらげた。
グライムと酒の話をしたことはないが、きっと詳しいはずだというのは容易に想像がついた。
この際、色々踏み込んで聞きたい話もあると、パットンは思い直した。
「しかしだ……。城で会わせるのは危険だ。身分がある。万が一正体が知れたら面倒が起きる」
「だからこそ、あなたに相談しているのよ」
「地下牢は……雰囲気が悪すぎる」
「そうね。せっかくのワインだもの。エールだったら、ちょっと楽しいかも」
「マリア……」
「冗談よ」
パットンは眉間を押さえた。指二本を額に当てて、目を閉じる。何かを考えているというより、何かを諦めようとしている顔だった。
「隠れ家は、王子妃が足を踏み入れる場所ではない」
「それもそうね」
マリアは口元に小さな笑みを浮かべていた。
反論しているのではなく、パットンが自分で答えを出すのを待っているような笑みだ。
パットンはその笑みの意味を知っていた。自分の答えがもう出ているということは、彼女は気づいているのだ。
「……教会が使える」
「まあ」
「マリア、お前は礼拝だ。私は護衛名目で随行する。グライムは裏から呼ぶ。城下の聖堂であれば、身分の異なる者が同じ場所にいても不自然ではない」
マリアは静かに頷いた。
「よかった。やっぱりあなたは頼りになるわ」
「最近……時々だが、キミと話してると……グライムと話してる気になる。どうにもやり込められるような……」
「その答え合わせも、教会でしましょ」
マリアがにこやかに笑うが、それこそグライムが煙に巻く時の表情のような気がして、パットンは返事が出来なかった。
翌日の昼過ぎ、城下に聖堂は穏やかだった。
石造りの天井が高く、明かり取りの窓から差し込む光が、塵を光らせながら静かに落ちるように床を照らす。
礼拝台の前には線香の煙がゆっくりと立ち上り、その歴史を感じさせる凛とした香りが、建物全体に染み込んでいた。
平日の昼間とあって、参拝者は少ない。
商人の妻らしき女と老いた男が一人、そして奥の長椅子に、フードを深く被った人物が座っていた。
フードを被っているのは珍しくない。
礼拝に自分を隠して来る者は少なくないからだ。
そして、そのフードの男こそグライムだ。
彼はフードの下で、天井の装飾を眺めていた。
石に刻まれた植物のレリーフが、礼拝堂の壁をぐるりと囲んでいる。
職人の手仕事の丁寧さが伝わってくる彫り方で、花びらの一枚一枚に微妙な凹凸があった。
これだけの細工をするのに何年もかかる。これを盗んで売ればいくらになるかと値踏みしていると、隣の長椅子から気配が近づいてきた。
「来てくれたのね」
静粛な雰囲気を壊さないよう低く抑えた声だったが、グライムには聞き覚えがあった。
「マリア。久しぶりだな。地下牢以来か。やっぱり地上で見たほうがキレイだ」
グライムが人懐っこい野良犬のような笑みを浮かべると、思わずマリアも笑みを浮かべた。
「ここも地下よ」
「でも、あなたには教会が似合う」
フードを少し上げてグライムが頷くと、マリアは隣に腰を下ろした。
礼拝に来た婦人の自然な所作で、正面の礼拝台を見たまま話す。
少し離れた通路の柱の陰に、パットンが立っていた。
腕を組んで、二人の様子を見ている。護衛という名目だが、監視と大差ない立ち位置だった。
グライムはそっちに向かって軽く顎をしゃくると、パットンの眉間がわずかに動いた。挨拶したわけではなかったが、互いに相手の存在を確認したという、無言のやり取りだった。
グライムがふざけて美人だなとジェスチャーを送ると、パットンの鋭い視線がますます鋭くなった。
まるで研ぎたてのナイフだ。
その反応に満足したグライムは、まるっきりパットンを無視してマリアに向き直った。
「なんでもワインを飲ませてくれるんだって?」
「ええ。好きだって言ってたでしょ」
マリアが膝の上に置いた布袋を少しだけはだけさせると、中に細長い瓶が一本見えた。ガラスの色は深い緑で、首の部分に金色のラベルが貼られている。
ラベルには植物の絵と、見る人が見ればわかる細かなエルフ文字が記されていた。
「これはエルフのワインだな」
「あら、知っていたのね」
「でも、飲んだことは流石にない。ワインのエルフはここ最近外には出てないって話だからな。見たことなら何度か」
「社交界の知人から贈られたのよ。珍しいと思って」
「相当珍しい。エルフってのは規律を重んじるから、今の状況で出回るのはほぼゼロだ。そのほぼに含まれるワインか……それとも隠して保存していたのを、カネに困って売り出したのが回ってきたか」
「貿易に関わっている方。エルフとのルートを持っていると聞いていたから、それで珍しいものを、と思われたのかしら。でも、直接的な用件ではないの。ただ、最近の社交界では話題のワインで。何本か出回っているようで、入手した方が何人かいらっしゃるのだけれど……」
「値段は」
「一本で、中程度の宝石が買えるくらい、というのが相場らしいわ」
グライムは少し黙った。礼拝台の前の蝋燭が、彼の心の動きのようにゆらりと揺れる。
そんなワインなら礼拝の真似事などしてる場合ではない。
「場所を変えよう。飲めるところに」
「まだ礼拝中よ」
「神様が言ってるんだ」
「神様が飲めって言ったの?」
「パットンを困らせろって言ったんだ」
マリアはイタズラ顔でグライムの提案に乗った。
二人がそそくさと席を立ち上がると、予定外の行動に驚いたパットンが慌てふためいたて追ってきた。
聖堂の奥には、司祭が接客に使う小部屋があった。事前に話をつけてあったらしく、扉は開いていた。狭い部屋だが、丸テーブルが一つとグラスが三つ、それだけあれば十分だった。
「一体何があった!?」
少し遅れて駆け込んでくるパットンとに、グライムが「その顔が見たかった」と言うと、マリアはもうおかしくてたまらないと言った風に、満面の笑みを浮かべていた。
久しく見ていない突発的な心からの笑顔に、パットンはため息で感情の整理をつけるしかなかった。
後を続いたカックラウが、制裁を与えるかという顔をしたが、グライムが手で制した。
そして、その長い溜息を掻き消すように、グライムがコルクを抜いた。
オープナーを使わず、コルクの端を指先で少し押し込んでから角度を変えて引き出す、慣れた手つきだった。
コルクが抜けると、低い音が部屋に残った。
ワインを四つのグラスに注ぐ。
赤だった。光の当たり方によっては、ほとんど黒に見える色合いの深い赤。
「パットン王子……」
カックラウはお忍びと言えど、席をともにしてワインを飲むことは出来ないと視線を送るが、すべてを見透かしたパットンは、口元に柔らかい笑みを浮かべた。
「パーターだ。ここには友人しかいない。ワインを共にするのになにか問題があるか?」
「いえ、いただきます」
カックラウもまた笑みを浮かべると、四人はそれぞれグラスを持った。
「それじゃあ、乾杯しましょ」
マリアの号令とともにグラスが手元で軽く上がる。
彼女は一口口に含み飲み込むと、「美味しいわ」と感動の声を上げた。
グライムも口に含んで、転がして、飲み込んだ。
「普通に美味いな」
マリアが笑った。「そう、でしょう? それで感想を聞きたかったの」
「美味い。本当に」
グライムは二口目を飲みながら、瓶のラベルを眺めた。
一瞬偽物かと疑ったせいで、どうにも気になっていたのだ。
それからコルクを取り上げて手の中で転がした。正面から、側面から、底から見る。
特に問題はないのだが、その不可解な行動にパットンは気づいていた。
「どうした?」
「いや、何でもない。美味い」
それきり、しばらく三人は話しながらワインを飲んだ。
グライム地下牢にいたとき、マリアが会いに行っていた理由は、会話術のためであり、それでパットンとの夫婦の会話で優先権を得ていることや、それでパットンが苦労しているなど、まるで長年の友人が介したワイン会のような雰囲気だった。
和やかな時間だった。扉の外から聖堂の静寂が滲んできて、蝋燭の炎がゆっくり消えていく。
やがて三人がワインの香りの表現を言い合っていると、カックラウが眉間にしわを寄せた。
強面の犬顔がますます怖くなる。
すぐに気付いたパットンが尋ねた。
「どうした? カックラウ。酔ったか?」
「いえ……それが……少し変な匂いがします」
「変な?」
「はい。エルフのワインだと思うんですが……なんか変です」
カックラウがワイングラスに鼻を近づけてわずかに動かした。
長い鼻梁が微かに上を向く。空気を読むというより、空気を分析している動作だ。
「御三方はずっと森林のニオイと表現されていますが、森っぽい匂いじゃなくて……乾いた岩みたいな匂いがします。どちらかと言うと苔。エルフのワインなら、もっと木の香りが混じるはずで。フェアリーオークで熟成されているなら特に」
「フェアリーオークを知っているのか?」
「犬の獣人の鼻には、木の種類が匂いでわかるんです。普通の樫とフェアリーオークは、かなり違います」
パットンが振り返って視線をグライムに剥けたが、彼は既にコルクを手の中に持って何か考えていた。




