第五部「盗まれたファラオ」
翌朝。まだ日が完全に昇りきらない時刻だった。
城中に響き渡ったのは、悲鳴に近い声だった。
「――ない! 余の右腕が、ない!」
その一報は、瞬く間に王宮を駆け巡った。
パットンは真っ先に客室へと駆けつけた。
ファラオの部屋の中は、昨夜のままの静けさを保っていた。
窓はしっかりと閉ざされている。扉にも、施錠の痕跡がそのまま残っていた。寝台のシーツには乱れた様子すらほとんどない。
ただ一つ。ファラオの右腕だけが、跡形もなく消えていた。
「陛下……」パットンは、青ざめた顔で言った。「窓にも扉にも、侵入の形跡がございません。夜通し配置していた兵士たちも、不審な人影は一切見ていないと」
「盗まれたのだ……」ファラオは右腕の失われた場所を見つめながら、低く唸るように言った。「余の右腕は、ただの身体の一部ではない。我が一族の王は、生前よりこの右腕に特別な血脈の証を宿す。死してなお、その証は残り続ける。故郷の宝物庫の扉は、我が一族の王の右腕――その血脈の証にのみ、反応する仕組みになっている。真の鍵は腕輪ではない。この腕そのものだ!」
パットンは、その重みを噛みしめるように、深く頭を下げた。
「今この時をもって、正式に申し伝える」ファラオは言った。「この右腕こそが、我が一族の真の鍵だ。よもや城の外へと持ち出されでもすれば、故郷の宝物庫そのものが、脅かされることになる。我が一族の宝が、この国で盗まれたと言ってもいい」
側近たちが、慌ただしく駆け寄ってくる。
「一大事でございます、陛下……!」
「わかっている」ファラオは言った。「宰相にも、まだ伝えていない。だが、パットン殿下。時間は、そう多くは残っていないと心得よ」
「承知しております」パットンは、深く頭を下げた。「必ず、取り戻します」
その場にいた誰もが、言葉を失った。
国賓として迎えた王の右腕――国家機密級の重要物が、警備の厳重な城の中から、跡形もなく盗み出されたのだ。
その時、ちょうど遅れてグライムがやってきた。
するとパットンの顔から心配の色が少し消えた。
「良かった……オマエを呼びに行くところだった。来てくれて助かった」
パットンが声を潜めると、グライムはそれ以上に声を潜めた。
「カックラウに叩き起こされたよ……。状況説明はされてないけどな」
「今する」
パットンからことの成り行きを聞いたグライムは、部屋の中をゆっくりと歩き回った。
窓の位置、寝台からの距離、床に落ちたわずかな塵。
他の誰も気に留めないような細部に、彼の視線は注がれていた。
「陛下」グライムは、静かに訊ねた。「あのきらびやかな装飾が施された腕。あれを抱いて眠ることはないと思うのすが、どうでしょうか? 昨夜、お休みになる前のことを思い出してください。右腕はどちらに置かれましたか」
「寝台の脇の、卓の上だ」ファラオは答えた。「いつも通り、そこに置いて眠った」
グライムはその卓を確認した。
卓の上には、確かに腕を置くための台座があった。
だが、右腕が置かれていた形跡が、あまりにも薄かった。
埃の払われ方も、寝台からの距離も、どこか違和感がある。
「本当に、その卓の上でしたか」
グライムはが念を押すように訊ねると、ファラオは少し考え込んだ。
口からでまかせで適当なことを言うのではなく、しっかり思い出す仕草を見て、グライムはこれは彼の一芝居ではないことを見抜いた。
「いや……正確には、覚えていない。いつもの癖で、卓の上に置いたつもりでいたが。昨夜はずいぶん楽し思いをさせて貰った。少々酒も進んでいからな」
「では、昨夜はいつもと違うことをされませんでしたか」グライムは、さらに問いを重ねた。「どんな些細なことでも構いません」
ファラオはしばし目を閉じ、記憶を辿るようにしていた。
「……月が、あまりに美しかった」ファラオは、ぽつりと言った。「久方ぶりに、心地よい夜だった。とだけ覚えている」
その一言で、グライムの頭の中にばらばらに散らばっていた手がかりが、一気に繋がった。
「……この部屋を、ずいぶん気に入ったみたいですね。確かにこの部屋は、この時期一番月がよく見える部屋です」
アンデット族の中にこんな言葉がある。
――太陽は身を焼くが、月はまるで恋人のようだ。あれほど心地よいものはない。
「アンデッドは、太陽よりも月を好む」グライムは言った。「そして、今回用意された客室は、ファラオにとって非常に快適だった。快適すぎるほどにな」
「まさか……」
パットンの声に、ようやく理解の色が浮かび始めた。
「証言では、ファラオは『卓の上に置いた』と言ってる。だが、それが本当にこの場所だったとは限らない」
「ファラオにとって、右腕を外して置くのは日常的な行為だってことだ。厳密な場所を覚えてなくても不思議じゃない。だが、もしも昨夜が特別な月夜だったら? ――月明かりの差し込む場所まで、わざわざ持っていっていたとしたら?
グライムはそこで言葉を切り、部屋の奥のバルコニーに続く小さな扉に目を向けた。
「あそこだ」
グライムがバルコニーへと続く扉を開けると、そこには小さな石造りの露台があった。
月明かりが遮るものなく降り注ぐ、まさに月を眺めるのにうってつけの場所。
グライムはしゃがみ込み、石畳の上に残ったかすかな跡を調べた。パットンが背中からそれを覗く。
何かが置かれていた痕跡――そして、その周囲にわずかに残る、外部からの侵入者の足跡らしきもの。
「見ろ、バルコニーから寝室には侵入の跡がない。当然だ。犯人が狙ったのは、寝室じゃなくここだったんだから」
「犯人がここへ腕を置くように誘導したってことか?」
「月というのはアンデット族に重要なものだ。月の魔力を体に浴びる習性がある。それを利用した可能性がある。相手は詳しいぞ、オレかそれ以上にアンデット族のしきたりや歴史に」
グライムは腕を盗んだ犯人とその方法を調べようと、さらにその足跡へともう一度顔を近づけた。
始めは人間が相手だと思っていたグライムだが、不自然に丸い跡を見つけると、考えをすぐに改めた。
丸の広がり方からして、適度に柔らかいものに体重をかけた跡だ。
「……待てよ。これ、人間の足跡じゃないな」
「何だと」
パットンが覗き込むように屈んだ。
グライムは一度丸を認識すると、他にも似たような跡が続いてることに気付いた。
窪みはどれも小さく、丸みを帯びていた。
等間隔とはいえない、気ままな歩幅で、露台の縁から寝台の脇まで、ぽつりぽつりと続いている。
「これは猫だ」
グライムは、静かに言った。
「猫……?」パットンは、呆気に取られた声で繰り返した。「猫が、王家の秘宝を持ち去っただと? 洒落にならないぞ……」
「洒落にならないどころか」グライムは口の端をわずかに上げた。「これは、意外と悪くない話かもしれない」
グライムは足跡を露台の縁まで辿っていった。
ふちの先には、隣の屋根へと続く細い樋がある。
「城の裏庭あたりに、よく居着いてる野良猫がいるだろう。丸々太った、白黒のやつ。あいつの足跡に、よく似てる」
「猫ってのは、光るものや、匂いの強いものに、やたらと執着する生き物だ。ファラオの右腕は、独特の香油で清められてる。乾いた皮膚特有の匂いも、猫にとっちゃたまらなく興味を引くものだったんだろう
「では、あの足跡の主が……」
「気に入って、遊び道具にでもしたか、自分の巣に運んでいったか。そんなところだろうな。猫が集めた獲物や玩具を溜め込む場所だ。この足跡が続いてる先だな。隣の屋根伝いに、辿ってみる価値はある」
既にふちに足をかけて足跡を辿ろうとするグライムを見て、パットンは深く息を吐いた。
「わかった……行くぞ」
足跡は露台から隣の屋根、さらにその奥にある古い物見塔の隙間へと続いていた。
長らく使われていない塔の内部には、藁と布切れを寄せ集めた、小さな寝床が作られている。
グライムが顔を覗かせると、そこには丸々と太った白黒の猫が、香油の匂いのする布の切れ端や、小さな装飾具の欠片に囲まれて丸くなっていた。
傍らには、乾いた褐色の右腕が、まるで大切な宝物のようにそっと寄り添うように置かれている。
「……いたぞ」
グライムは小さく笑って眠る猫の姿を確認すると、パットンが恐る恐る覗き込んだ。
「無事なのか? 腕を見つけても、指一本なくなってれば大問題だぞ……」
「無事だ」
グライムはファラオの右腕を丁寧に持ち上げた。
猫は眠そうな目でそれを見上げたが、抵抗する様子もなく、大きく欠伸をしただけだった。
「乱暴に扱った様子もない。どちらかというと――大事に、可愛がってたみたいだな。干物とでも思ったのか、ねぶり倒したあとがある」
「呆れた話だ……。国家機密級の秘宝が、猫の玩具にされていたとはな……。ヴァレンの思惑ではなさそうだ」
「まぁ待て、パットン。呆れるのは、まだ早い」グライムは、ファラオの右腕を丁寧に布でくるみながら言った。「これは、ファラオにとっちゃ、悪い話どころじゃないかもしれない」
「いい加減含んだ物言い早めて説明しろ」
「砂漠の文化には、王族のほうが詳しいだろう? 猫をどう扱う種族か」
パットンはその言葉に、はっとした表情を浮かべた。




