第一部「範囲の外側」
空には数えられるほどの雲しか浮かんでいないある晴れた午後。
陽光はまるで地面に溶けるように広がり、通り全体に温かみを届けていた。
石畳の通りには行商人の呼び声が重なり合い、焼き立てのパンの匂いと、馬の汗と、誰かのつけすぎた香水の残り香が混ざって漂っている。
どこかで子どもが転んだのか、甲高い泣き声がして、それをかき消すように荷馬車の車輪が軋んだ。
賑やかで、雑然として、活気に満ちている。
なにも変わらない、いつもの城下町の午後だった。
夜に向けて仕込みをする、良い匂いが漂う酒場の積み荷の影に身を隠しながらも、ボンドは必死に叫んでいた。
「おい、グライム! やめろ! バカなことをするな!!」
その声は、掠れるほどの強い叫びだ。
ボンドの細長い指が空を切るように伸び、その先には背中を向けたグライムの姿があった。
だが、グライムは振り向かなかった。
立っているのはなんてことない通りだ。
だが、グライムにとってはここが境界線、いわば行動範囲の端だ。
腕に嵌められた魔法錠が、かすかに光を帯びている。
赤みを帯びた警告の光ではなく、まだ限界線ぎりぎりを示す薄い橙色の輝きだった。
ゆっくりと振り返ったグライムの顔に、迷いはなかった。
「どうしてもやらないとダメなんだ……。わかるだろう」
その声は低く、静かだった。
怒鳴るでも懇願するでもなく、ただ事実を告げるだけ。奇妙なほどに落ち着いたトーンだった。
あと一歩でも踏み出せば、パットンの部下に通報が入り、すぐに駆けつけくる。
当然グライムもそんな事はわかっていた。
ボンドの顔がゆがんだ。意を決したように長い鼻が僅かに上を向くと、それから大きく息を吐いた。
「オレは逃げるぞ。オマエも早く来い! 思い直せ!」
「ボンドは早く逃げろ。オマエは顔を見られてる。パットンに見つかったら厄介だぞ」
グライムは視線はボンドを真っ直ぐに捉えたまま微動だにしなかった。
そしてまた、ボンドからの視線を受けて、踵を返した。
「オレは――行く」
ボンドが何かを叫ぼうとした瞬間、グライムの姿が魔力範囲の外側へ踏み出した。
すぐに、魔法錠が一瞬だけ激しく発光し、それから静かに沈黙した。
その頃。執務室に差し込む西日が、テーブルの上に広げられた地図を赤く染めていた。
パットンは椅子に深く腰を沈め、額に片手を当てたまま目を閉じていた。
片方の耳には絶えず部下の報告が流れ込んでいる。
扉を叩く音がした。「入れ」と低く答えると、廊下から躊躇いがちな足音が続いた。
入ってきたのは、猿の獣人の女性ジェーンだ。
しなやかな長身に、鍛えられた四肢。長い髪は戦いやすいよう高く束ねられ、眉間から頬にかけて生えた短い毛が精悍な顔立ちを際立たせている。
金色の瞳は常に鋭く、敵でなくとも気圧される迫力があった。
パットンお抱えの三獣士のひとりだ。
「パットン王子」
「なんだ? 今忙しい……」
ジェーンが答える前から、その顔色を見て、悪い報告だとパットンはすぐに理解した。
三獣士が来るということは、誰が問題を起こしたか丸わかりだからだ。
「グライムの腕輪が魔力範囲外に消えました」
ジェーンが周囲に聞こえないように耳打ちすると、パットンの眉が動いた。
椅子の背もたれから体を起こし、彼女の顔を正面から見る。
「またか……逃げたのか?」
「それはまだ確認が取れておりません。既にカックラウが魔力感知が消えた場所へ向かっています」
パットンは立ち上がった。外套を掴んで肩にかけながら、ジェーンに向かって手短に命じた。
「場所を教えろ……」
ジェーンが指を地図の上に走らせたのは、城下町の南東、市場通りの端。
人の往来が多く、複数の路地が交差する場所だった。
「少し席を外す。ジェーン……ここに残って仕切りを頼む」
「はい」
パットンはもう一度、地図のその点を一瞥してから、独り言のように呟いた。
「何度も何度も……一体どういうつもりだ……グライム」
廊下を歩き出したパットンの足音は、いつもより少しだけ早かった。
城下町の南東、市場通りの外れに出る。通りを一本外れただけで、石畳の色が変わった。
観光客や商人が好んで歩く大通りは磨き抜かれた白っぽい石が敷かれているが、こちら側は苔が生えた古い石が雑然と並んでいる。
細い路地。二階から吊るされた洗濯物が風にはためく音が聞こえると、パットンはそれが合図かのように路地の奥に目を向けるた。
そこにグライムがいた。
見つかった。という表現が正確かどうか怪しいところだが、とにかくそこにいた。
魔力範囲外から一歩踏み出したまさにその地点で、隣に立つ若い女性と何かを話しながら笑っていた。
そう。彼はただ立ち話をしていただけだった。
そのあまりに爽やかに笑うグライム表情を見たパットンは、怒りを通り越して一瞬言葉を失った。
怒鳴り込むべき状況で、胸の中を埋めていたのは呆れだった。
鉄格子の中に入れた猛獣が逃げ出し、いざ捕まえてみると縁側で日向ぼっこをしていた猫だったような、奇妙な拍子抜けだ。
パットンの大きなため息に、グライムが気づいた。
彼に向かって、片手を軽く上げる。
まるで古い知り合いに道で出会ったときのような、ひどく気安い仕草だった。
「おう、パーター。どうした? こんな時間に珍しいな」
パットンの呆れは、その一言で再び怒りに戻った。
しかし彼は、怒鳴る前に一呼吸を置いた。
偽名で呼ばれると、自分がここではどういう立場にあるかを思い出すことができる。
第三王子という身分を隠して城下町に来ているパットンにとって、それは一種の安全装置のようなものだった。
そして同時に、グライムにおちょくられているということも意味していた。
「どうしたじゃない……」 パーターは耳打ちできる距離まで歩み寄り、声を潜めた。「足輪のことを覚えてるだろう」
「この間。腕輪にしたのを忘れたか? いざ走ってみると邪魔だからって、ほら」
グライムは挨拶でもするように片手を持ち上げた。袖がずり落ちると、手首に嵌められた銀色の魔法錠が姿を現した。
にっこりと笑って答える様子には、悪びれの欠片もない。
「そういうことじゃないだろ……」
「ちょっと怒りすぎだってパーター。そもそもアンタが送った腕輪だろう? な?」
グライムが意味ありげに肩をすくめると、隣に立っていた女性が二人へ好奇の視線をぶつけてきた。
彼女の視線は、値踏みするというよりは、純粋に面白がっているようだった。
男が男に送る腕輪。それも挨拶もそこそこに確認するほどのもの。
それにどんな意味が込められているのか。
これがグライムだったならば、宝の在処につなげるかも知れないが。
彼女は、恋の匂いを嗅ぎつけソワソワし始めた。
パットンは咳払いを響かせた。
ジロジロ見られて、もしかして王子かと少しでも思われては困るからだ。
場所も立場も考えろと、パットンは歯の奥で噛み殺した言葉を飲み込み、ほとんど引きずるような形でグライムの腕を掴んで歩き出した。
背後から黄色い声がパットンの背中に突き刺さったが、何を言われたかはっきりとは聞こえなかった。
おそらくは、聞こえなくてよかった類の言葉だ。
隠れ家のドアを閉めるなり、その勢いでパットンは振り返った。
「なんだあれは?」
腕を組んで立ったまま睨みつけるパットンとは対象的に、グライムは椅子に逆向きに跨って、背もたれに腕を乗せた。
「そういう趣味の女性は別に珍しくない。城のほうがそういう話が多いだろ」
「私が言っているのはだな!」一瞬パットンは語気を強めてから、はた、と気づいた。「待った……。なんでオマエが城のことを知っている?」
「一般論だ。城で働いてるやつはゴシップが好き。そういうもんだろ」
グライムの口調はあくまでも穏やかで、飄々としていた。
嘘をついているわけでもなく、かといって本当のことだけを言っているわけでもない。その絶妙な中間地点の上澄みで喋っている感じだ。
「オマエからそういう話が出ると不安になるだろ……。城に忍び込んでいないだろうな」
「城まで届かないだろ――オレの行動範囲は。これに管理されてるんだから」
グライムは魔法錠を付けた手首をパットンに向けて差し出した。
その表情は無実を主張するというよりも、証拠を提示しているだけだという顔だった。
パットンは舌打ちをするような勢いでため息をついた。
「オマエの魂胆はわかっているぞ……。抜け道を探してるな」
「そんな物を探すんだったら、何度も範囲内と範囲外をうろちょろするだろ。ただ立ち話をしてただけだ」グライムは首を傾けた。「それとも、あるのか? 魔法錠の抜け道が」
「……じゃあなにをしていた」
「同じ城下町に住んでるんだぞ。人と立ち話くらいするだろう」
「オマエがなにも考えもなしに、こんなことをするわけがない。なにを確認していた」
パットンの語気は鋭かった。その言葉にはある種の確信が滲んでいた。グライムのことを知っているから言える言葉だ。
「まるで昔からの知り合いみたいに言うんだな」
グライムが肩をすくめると、パットンは短く息を吐いた。
ため息というより、感情の排気に近い。
「丁度いい……見ろ」
パットンは外套の内側に手を入れると、筒状に丸められた紙を取り出した。
それを乱暴にテーブルの上に放り投げる。
「おいおい……ラブレターの渡し方も知らねぇのか? マリアが不憫だな」
「いいから。開いて中を見ろ」
グライムは立ち上がって丸まった紙を手に取ると、テーブルの上に広げ、紙の上に目を走らせた。
はじめは漫然とした様子で読み進めていが、だんだん表情が変わっていった。
柔らかく笑ったままだった輪郭が、引き締まるように少し硬くなる。
なぜなら、そこには過去にグライムが関わったいくつかの事件と、その手口が箇条書きされていたからだ。
間違っている箇所も見られるが、内容の精度は高い。
「ラブレターって言うのは、相手の気持ちを思って書くんだぞ? 行動を調べて羅列するんじゃない」
「部下に調べさせた。オマエのポートレートでも描かせようと思ってな」
「なるほど……。それな優秀だな」グライムはもう一度、紙の上に目を落とし、今度はゆっくりと読み返えした。「先に言わせてもらうぞ。この【天使の涙】を手に入れた手口は、まさに芸術だろ?」
「盗賊め」
「それは……山賊からの昇格か? 降格か? だいたいな……知ってるだろ? 天使の涙は持ち主不在の宝石だぞ」
グライムは紙から顔を上げ、椅子に座り直した。
その声には珍しく力があった。のらりくらりと煙に巻いたり、言い訳ではなく、信念を語るときの声だ。
「戦争のついでに、不参加国が横から掠め取ったもんだ。欲に目がくらんで、盗んだあとのことを考えてなかった。売ることもできず、展示することも出来ない。やがて国から金持ちの手へ、また金持ちから金持ちの手へと転々とした。その最中、誰かがどこかに落とした。オレはそれを拾っただけだ」
「拾ったのなら……返す気はないのか?」
「どこに? 三つの国が関わってんだぞ。今更表の舞台に出したほうが問題になる。これは歴史の闇に消えるべきものだ」
グライムは紙を折り返してテーブルに置くと、突き返すようにパットンの方へと寄せながら続けた。
「まあ……調べたのはご立派だが。パットンが関わるなら、四つの目の国が関わることになるな。宝石に曰くがつくとしては十分だ。そろそろ売り時か?」
「なるほど……。オマエなら、闇に紛れるような盗品をどう売る?」
パットンの口調が変わった。試すようでいて、探るようでもある。
静かな圧力を持った声だった。
グライムはその変化を敏感に受け取った。少し考える素振りを見せてから、指を一本立てた。
「簡単だよ。天使の涙として売らない」
「それだと意味がないだろう」
「オレとしては、元の伝説はどうでもいい。それこそ厄介だったからな。いいか? 四つの国が争っているという新しい曰くがついたら、元の伝説はただの付属物になる。商品の価値を変えるってわけだ。言っとくけど、これは常套手段だぞ。よくある呪いの宝石の殆どはそれだ。……もしかして、なにか盗まれたのか?」
「白状するか、白状させられるかだ。選べ」
「待った! 本当に盗まれたのか?」
「そうだ」
パットンは椅子を引いて腰を下ろした。
白状するまでは長丁場も覚悟するという意志の現れだ。
グライムの目の動きが変わった。
話を整理し、パットンの表情から詳細を繋ぎ、感情の空白を組み立てる。
「なるほど……」
独り言のように呟きながら、グライムは窓の外に目を向けた。
細い路地の向こうに石畳が見える。行き来する人の足音が遠くに聞こえた。
「盗まれたのはパットン――アンタの私物だな? 恐らく場所は城じゃない……。となると……部下か? 部下になにかを預けていた。だが、アンタの直属の部下じゃない。恐らく獣人のカックラウにニオイを調べさせて、オレのニオイが出てこないから一旦話を閉じて一晩寝かせた。そしたら、オレが身に着けてる魔法錠が効果範囲外に出たって、魔力警報が出た。ここまで合ってるか?」
テーブルの上に沈黙が落ち、パットンの目つきが鋭くなった。
「合いすぎていて、白状してる最中だと思っている……」
「じゃあ、今度はアンタが白状する番だ。一晩待った理由は? 絶対にオレじゃないってわかったから一晩寝かせたんだろ? 今のオレはアンタの管轄内でしか自由に行動が出来ない。だろ?」
グライムが不意に窓の外へ手を振った。
石畳に落ちる影が、木陰の奥へと素早く引っ込んだ。
カックラウが遠くから監視をしているのだ。
「知っていたか……」
「オレだってアンタの立場なら見張りを付ける。それも四六時中な。今だと三日に一回くらいで、穴がありすぎだぞ。それがかえって怖い……」
「それなら成功だな」
パットンは一瞬笑顔を見せたが、すぐに表情を険しくした。
「オマエのことを知っているのは私とマリア。それと直属の部下三人だ。その三人は普段の任務もある。オマエにばかり時間を避けない。わかるだろう?」
「わかるよ。それなのにだ。オレが最近何度も、範囲外に出て魔力警報がなるから苛ついてんだろ」
「わかってるなら。いい加減やめろ。部下もイライラしてる。今のカックラウに会ってみろ。食い殺されるぞ」
「国の飼い犬は物騒で困るな。それで、何が盗まれた?」
「なんでオマエに話す必要がある」
「頼りにしに来たんだろ? な? "パーター"」
パットンは目を閉じた。
数秒のあいだ、何も言わなかった。その僅かの間の沈黙が答えだった。
それがわかっていたので、グライムも黙っていた。
追い詰めるような空白ではなく、相手が言葉を選ぶための余白として、時間を使わせた。
「わかった……オマエの頭脳を頼ってるのは本当だ。ただ、あまりに私用過ぎて、オマエを使うか悩んでいたんだ」
「むしろ部下を使うほうが悪いと思うけどな。調べてほしいのは、指輪かネックレスか?」
「突然どうした? なんでそう思う」
「愛人にやるもんなんてそんなもんだろ。まさか通りに名前でも付けるつもりか? 王族っては、やることがキザだね」
「私はマリア一筋だ!」
パットンの声が珍しく裏返った。
恥ずかしがって過度の咳払いで誤魔化すと、これで見栄がなくなっただろうとグライムは満足げに笑った。
「だろうな。アンタが浮気したらすぐにバレる。で、本題だ。どれだ? 三つのうちどれかだろ?」
「そうだ。オマエが解決に関わった三つの事件。壁が壊されていただろ」
「この間の絵の事件もそうだったな。なるほど……壁が盗まれたか」
グライムが軽口のように言った。冗談のつもりだった。
すぐにパットンから「なにを言っているんだ」と返ってくると思っていた。
しかし彼の目は、冗談を受け入れていなかった。
その目はまっすぐにグライムを見ているので、思わず目丸くして返した。
「まさか本当に盗まれたのか?」
「正しくは壁の一部だ。壁が剥がされて持っていかれたわけではない。壁がどうやって壊されたか調べるために破片を集めてみたが、修復するには全く足りない。明らかに一部が抜き取られている」
グライムは少し黙った。
椅子の背もたれに抱きつくようにして体を預け、天井に目を向ける。
何かを計算しているような難しい顔をして、静かな集中の時間を数秒を過ごすと、途端にいつもの飄々とした表情に戻った。
「防衛魔法陣の書き換えが目的じゃないのか? この城下町は魔法防壁で守られてる。だから変なモンスターが外から入ってこないんだろ」
「なるほど……。二回も壁を壊したのは、修理を重ねた時出来た、魔力の抜け穴を探すためかも知れないな。今後、モンスターを引き連れて来るかも知れない。一応この辺りの大型モンスターと、変種の届けが出ていないか調べ直す」
「それがいい。早いに越したことはない」
グライムはこれで話は終わり、ようやくゆっくり出来ると思ったのだが、パットンが変える様子はなかった。
なんだと眉間にしわを寄せると、ようやく椅子から立ち上がる。
「どうせ暇なんだろう。頼りにしてるぞ。今後しばらく魔法錠の警告が入ったら、その場の判断はカックラウに任せることにする」
「わかったよ……行動範囲から出ないで、探ればいいんだろ」
パットンは外套を正すと、笑顔を深めた。
それからグライムを見下ろし、一息ついてから口を開いた。
「オマエがそういつも素直なら、私の部下になれる素質があるんだがな」
「今のが素直な返答だと思ってるなら、相当な変人だぞ」
パットンは答えなかった。だが、ドアに手をかけながら上機嫌に口角が動いたのを、グライムは見ていた。




