第二十一話 一寸の虫にも五分の魂
幻想神域という言葉を聞いた瞬間、狭霧の表情が変わった。
これまで決して崩れることのなかった冷静な顔に、初めて明らかな動揺の色が浮かぶ。
「貴方、どこでそれを?」
その問いに、龍三は目を見開いた。
あの狭霧が、明らかに取り乱している。
「その反応……ってことは、あんたは幻想神域が何なのか知ってるんだな?」
たたみかけるように問いを投げかける龍三。
すると狭霧は、ハッと息を呑んだ。
しまった。
ほんの一瞬だけ、その表情に自らの失策を悟った色が浮かぶ。
何を聞かれても氷のような冷静さを崩さなかったのに、たった一つの単語にここまで露骨な狼狽を見せてしまった。
狭霧は反射的に口を閉ざす。
しかし、その態度こそが何より雄弁な答えだった。
もはや誤魔化しきることはできないと悟ったのだろう。
狭霧は小さく息を吐き出すと、乱れかけた表情を静かに整える。
「……ええ。知っていますよ。それが何か?」
「……っ!」
先ほどまでの動揺が嘘だったかのように、狭霧の声音は落ち着きを取り戻していた。
けれど、龍三は見逃さなかった。
今の反応は、ただの言葉への驚きなんかじゃない。
幻想神域という存在そのものが、狭霧にとって何か特別な意味を持っている。
「『幻想神域』はどんな願いでも叶える世界だって聞いた」
龍三は狭霧の目を真っ直ぐに見据える。
「そして、それを小雪が持ってるってことも……」
「……っ」
狭霧の瞳が僅かに揺れる。
「その話しは、誰から聞いたのです?」
今度は龍三が息を呑む番だった。
張り詰めた霧の結界の中、彼女から放たれる静かな威圧感が、肌を刺すような冷気となって龍三を包み込む。
その内容は、狭霧にとっても聞き捨てならないものだったのだろう。
今までに感じたことのないプレッシャーが、龍三の全身に襲い掛かった。
ここでとぼけたり、下手な嘘を吐いて刺激すれば、取り返しのつかない事態を招きかねない。
そう直感した龍三は、情報の出所を正直に明かした。
「……土鬼から聞いた」
「土鬼?」
その名を聞いた瞬間、狭霧の眉がぴくりと反応する。
「なるほど……」
狭霧は、何かを考えるように目を伏せる。
「つまり貴方も、あの現場に居合わせていたのですね」
「……ああ」
「……ふむ。しかし、妙ですね……」
「?」
「なぜあの妖魔がそのようなことを知っていたのでしょう?」
狭霧は、何か引っかかるものでもあるのか、僅かに眉を寄せる。
「それは、俺にも分らない。土鬼の奴も誰から聞いたか忘れたって言ってたし」
「……そうですか」
狭霧はそれ以上、そのことについて追及することはなかった。
「それより、こっちが聞きたいのはその先だ」
龍三は狭霧を見据えたまま続ける。
「結局、幻想神域ってのは何なんだ?」
「……」
「さっきのあんたの反応を見る限り、幻想神域と小雪が無関係だとは思えない。もしかして、月の都の離れに小雪を閉じ込めていた本当の理由は、それなのか?」
「……質問が多いですね。まあいいでしょう。どうせ記憶を消すのは決定事項ですし……」
そう言って、狭霧は深く、諦めたように息を吐くと、ゆっくりと告げた。
「幻想神域というのは――無尽蔵とも呼べる霊氣を内包した、特殊な神域のことです」
「無尽蔵の……霊氣?」
聞き慣れない言葉に、龍三が目を細める。
「霊氣というのは、言わばこの世界に満ちる根源的なエネルギーのことです。またの名を、マナとも呼びます」
「マナ……」
「ええ。霊氣は周囲の環境に応じてその性質を自在に変化させることができる。その特性から万能物質とも呼ばれています。我々が扱う霊能力。それに必要な霊力も、霊氣と精神エネルギーを練り合わせることで生み出される力なのですよ」
「まさか、幻想神域がどんな願いでも叶える世界って言われる理由は……」
「はい。誰がそのような話しを広めたのかはわかりませんが……確かに、膨大な霊氣を利用すれば、通常では到底不可能な現象すら引き起こせる」
「…………」
龍三は黙って狭霧の言葉を聞いていた。
「だからこそ、それを悪用しようと企む者の手から、月詠様を守らなければならないのです」
「それが、小雪を連れ戻そうとしている本当の理由……」
「……ここまで聞いても、貴方は月詠様を地上に留めたいですか?」
その問いに、龍三は答えることができなかった。
狭霧の理然とした言葉が、胸の奥へ鉛のように沈んでいく。
小雪と一緒にいたい。
叶うことなら、このまま月に帰らず、ずっと地上にいてほしい。
それが、龍三の胸の奥に秘めた偽らざる願いだった。
でも、小雪の身の安全を最優先に考えるなら、狭霧の言葉には痛いほどの理がある。
それは龍三にもわかっている。
狭霧の言っていることは正しい。
けれど――。
「……」
狭霧は苦悩に押し潰されそうになっている龍三を、しばらく黙って見つめていた。
やがて、静かに目を伏せて口を開く。
「……今一度、問います」
相変わらず、その声音には感情の色がない。
「大人しく、私に記憶を差し出しなさい」
龍三の瞳が揺れる。
「それで、全て解決する」
狭霧は最後にそう告げると、ゆっくりと境刀・國之狭霧を構えた。
紫色の刀身が一瞬だけギラリと不気味に光る。
「……結局、そうなんのかよ……っ!」
龍三は拳を握り締めた。
わかっていた。どれだけ対話を重ねても、どれだけ自分の言葉をぶつけても、狭霧の目的は変わらない。龍三の記憶を消す。そのために、凛と一緒に龍三をこの霧の結界の中に閉じ込めたのだ。
それでも――。
「何度聞かれたって、答えは同じだ!」
小雪と過ごした時間を、胸に刻まれた思い出を、自分から手放すことなんてできるものか。
「断る!」
胸を焦がす葛藤を力任せに振り払うように、龍三は真っ直ぐに言い切った。
なぜ、ここまで頑なに拒むのか。その明確な理由を、今の龍三には上手く言葉にできない。
ただ――この記憶だけはどうしても譲ることができなかった。
「……そうですか」
狭霧は静かにそう答えると、龍三の瞳をじっと見つめた。
射すくめるような視線の先、龍三の双眸には、先ほどまでの迷いを完全に振り切った強い意志が宿っている。
狭霧はしばしその瞳を見つめ――やがて、温度のない声で淡々と告げた。
「残念です」
狭霧が刀を構える。
龍三も身構え、右手に破魔の焔を灯した。
それが、合図だった。
「細小波!」
狭霧の刀が、一閃。横薙ぎに振り抜かれる。
刀身から放たれたのは、鋭く細い、白い霧の斬撃。それは大気を揺らし、文字通り波打つような軌道を描いて龍三へと肉薄する。
龍三は一歩も引かず、右手を前方へと突き出した。
猛然と迫る霧の刃が、激しく揺らめく青い焔に激突する。
ジ、と水を焼く音が響き、霧の斬撃は跡形もなく消滅した。
「……やはり効きませんか」
狭霧は表情一つ変えず、淡々と呟く。
次の瞬間、彼女の輪郭が陽炎のように歪み、龍三の視界から完全にかき消えた。
「え――」
どこへ行った、と。
思考がその疑問を形にするよりも早く、
「――ッ!?」
腹部を襲う、内臓を破裂させるかのような凄まじい衝撃。
狭霧は刃を返し、峰を龍三の身体へと叩き込んだのだ。
息を吸う暇さえ与えられず、龍三の身体はくの字に折れ曲がり、弾かれたように後方へ吹き飛ばされる。
「ごふっ……!」
地面を激しく転がり、仰向けにのたうつ龍三。
濁る視界を無理やり開いたその瞬間、容赦なく「それ」が視界に飛び込んできた。
美しく、洗練された黒いヒール。
いつの間にか距離を詰めていた狭霧が、龍三の腹部を冷酷に踏みつけ、地面へと縫い止めていた。
「ぐっ……がああ!?」
更に龍三の腹部を踏みつけたまま、もう一方の足で龍三の右腕を押さえ込む。
「詰みです」
鎧袖一触。勝負は、一瞬にして決着した。
あの凛を圧倒した人物だ。身体能力が人並みの龍三では、まるで歯が立たない。
狭霧の手には、紫色に光る刀――國之狭霧が握られている。
切っ先の鋭い刃が、龍三の喉元へ、狂いなく向けられた。
「これは脅しではありません。それ以上動けば、その時は、貴方の頸と胴が泣き別れになりますよ?」
「ぐっ……!」
有無を言わせぬ威圧感を残し、狭霧は刀を突きつけたまま、懐から一枚の半透明の布を取り出した。
「大人しくしていてください。悪いようにはしません」
――天の羽衣。
それを身に纏った者の記憶を奪い去るという、月の都の霊装。
狭霧はそれを、龍三を見下ろしながら静かに広げた。
「ただ、これをかけるだけ……」
光を孕んだ羽衣が、龍三の視界の全てを覆い尽くすように、ゆっくりと、確実に近づいてくる。
「それで、全て終わるのです」
終わる。その言葉が、龍三の脳内で不吉に反響した。
視界を埋め尽くしていく白銀の光。
その光を前にして、龍三の脳裏に小雪との思い出が次々と蘇る。
初めて出会った日のこと。
一緒に食卓を囲み、自分の作ったオムライスを美味しいと言って食べてくれたこと。
他愛のないことで笑い合ったこと。
夏祭りを一緒に見て回ったこと。
その一つ一つが、まるで走馬灯のように脳裏を駆け巡っていく。
あの光に覆われたら、この記憶は全て消えてしまう。
そう思った瞬間、小雪を失う悲しみと同じくらい、自分自身が形作ってきたものが消えてしまうという恐怖が、龍三を襲った。
これまで積み重ねてきた記憶も、経験も、小雪と過ごした時間も。それら全てが自分の中から綺麗さっぱり失われてしまう。
魂の根幹を浸食されるような戦慄が、龍三の全身を震え上がらせる。
小雪との思い出を、忘れたくない。
この大切な時間を、自分の中から失いたくない。
「――ッ!」
恐怖に震える身体を、龍三は無理やり動かした。
右腕は狭霧に押さえ込まれている。
だが、左手は自由だ。龍三は空いている左手を伸ばし、降ってくる羽衣を掴み取った。
それと同時に、掌に破魔の焔が灯る。
次の瞬間、ぼっ、と小さな音を立てて、天の羽衣が燃え上がった。
「なっ……!?」
狭霧の表情が、一瞬にして驚愕に染まる。
右腕を封じれば、破魔の焔は使えない――狭霧はそう踏んでいた。
しかし、それは完全な誤算だった。
まさか封じられていない左手にまで、焔を灯すことができるとは。
狭霧が息を呑む間にも、天の羽衣は蒼炎に包まれ燃やされていく。
淡く透き通っていた布地は、やがて一片の欠片も残さず消滅した。
「ざまぁ……みろ……っ!」
「――ッ!」
狭霧の顔に、明確な苛立ちが走る。
直後、彼女は龍三の身体を容赦なく蹴り飛ばした。
「ごふっ……!?」
龍三の身体が地面を離れ、後方へ吹き飛んだ。
「……まさか、このような形で天の羽衣を失うとは思いませんでした」
「いってぇ、くそ……派手に蹴りやがって」
龍三は荒い息を吐きながら、ふらつく身体を起こした。
脚に力が入らない。
「あまりこの手は使いたくなかったのですが……仕方ありません。これ以上、抵抗されても面倒です」
そう呟くと、狭霧が静かに刀を構え直す。
「……?」
「絶界・五感の棺・虚実ノ閾――」
何か呪文のようなものをぶつぶつ唱え、そして、次の瞬間。
「――無識ノ剣」
その姿が、龍三の視界から再びかき消えた。
――速い。
そう認識した直後には、既に背後に気配があった。
「――ッ!」
振り返るよりも早く、紫色の閃光が龍三の身体を縦に斬り裂く。
「――!?」
痛みはなかった。実際に、龍三の身体は傷一つない。
ただ――世界が、途切れた。
「……」
龍三の全身から力が抜ける。
何が起きたのか理解する暇すらない。
膝から崩れ落ちる身体を、龍三自身が認識することもできなかった。
「安心してください」
暗闇に沈んでいく意識の底で、狭霧の声だけが微かに響く。
「意識と外界の境界を、一時的に断っただけですから」
その言葉を最後に、龍三の意識は完全に途絶えた。




