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幻想神域の零能力者(イレギュラー)  作者: 蒼春-Aoharu
第一章 バタフライ・エフェクト/Butterfly Effect
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第二十話 霧ノ境界



 狭霧と凛の戦いは、熾烈を極めていた。

 夜の闇に濃い霧が立ち込める中、紫と翡翠の剣閃が幾度となく交錯する。

 刃が交わる度に火花が散り、凛の御神刀に付いている風鈴が時折、ちりん、と澄んだ音を響かせる。

 狭霧の剣捌きは、見惚れるほどに洗練されていた。

 無駄な動きが一切ない。

 一振りごとに凛の隙を正確に狙い、受け流されれば間髪入れずに次の斬撃へと繋げていく。

 対する凛も、僅かに後手へ回りながら、必死に食らいついていた。

 迫る刃を紙一重でかわし、時には御神刀で受け流す。

 狭霧の剣筋を読み、反撃に転じようとするものの、その度に狭霧は先手を取ってくる。

 ただ、凛が後手に回っている理由は、単純に狭霧との実力差だけではなかった。

 その動きに、ほんの僅かながら躊躇いが見られる。

 原因は他でもない。

 刃を交える相手が、天之狭霧だからだ。

 相手は月の民。

 不用意に傷つければ、事態をさらに悪化させてしまう可能性がある。

 だからこそ、凛は攻め切れない。

 結果として、その僅かな躊躇いが生んだ一瞬の遅れを、狭霧は正確に突き、凛を後手へと追いやっていた。


(……速すぎて、目で追えねぇ)

 そんな二人の激しい攻防を、龍三は少し離れた場所から固唾を飲んで見守っていた。

 紫と翡翠の刃が、霧の中を目にも止まらぬ速さで駆け抜けていく。 

 切り結んだと思った次の瞬間には、もう別の場所で刃がぶつかっている。

 何が起きているのか、龍三にはほとんど理解できない。

 凛の戦闘をまともに見るのは、これが初めてだった。

 まさか、ここまで戦えるとは。

 しかも、今の凛が身に纏っているのは、いつもの忍び装束ではない。

 夏祭りのために着てきた浴衣だ。

 足捌きは制限されるし、長い袖や裾も戦闘の邪魔になる。どう考えても、刀を振るうのに適した格好とは言えない。

 それでも、凛は狭霧の攻撃になんとか応戦していた。


「くっ……!」

 凛が大きく踏み込み、横薙ぎに刀を振り抜く。

 狭霧は身体を僅かに沈め、その一撃をかわした。

 そのまま凛の懐に入り込む。

「――っ!」

 振り抜かれる國之狭霧。

 凛も咄嗟に身を反らす。

 間一髪。

 紫紺の刃が、凛の眼前を掠めていった。


 狭霧は身体を捻り、今度は斜め下から刀を斬り上げる。

 凛は御神刀を立ててそれを受け止めた。

 甲高い金属音が霧の中に響き渡る。

「……どうやら、刃を交えるだけの腕は、持ち合わせているようですね」

 刃を押し合わせたまま、狭霧が感心したように言う。

「ならば、これならどうです?」

 そう告げた瞬間。鍔迫り合いを続けていた狭霧の刀が、ぐっと凛の御神刀を押し返す。

 そのまま狭霧は凛を押しやるようにして後方へ跳んだ。

 そして、その身体が白い霧の向こうへと消えていく。

「……」

 凛はすぐさま御神刀を構え直し、周囲を警戒する。

 周りは濃い霧に覆われている。

 視界は白く閉ざされ、数歩先の様子すら、はっきりと捉えられない。

 これでは、視覚情報を頼りに相手の攻撃を予測するのは難しい。

 普通の人間なら、この時点でほぼ勝敗は決していると言っても過言ではないだろう。

 だが、凛の御神刀には敵意や殺気を霊的な揺らぎとして感知し、知らせてくれる風見鈴がある。

 それを利用して、狭霧の攻撃に対処する。

 凛は静かに呼吸を整えると、全神経を研ぎ澄ませた。

 次に狭霧が仕掛けてくる、その瞬間を逃さないために。

 

「――霧(きり)斬(き)り舞(まい)」


 霧の奥から、狭霧の声が響く。

 その瞬間、ちりん、と風鈴が鳴った。

「!」

 霧の奥から一筋の白い刃が飛び出してくる。

 凛の瞳がそれを捉え、咄嗟に刀を振るった。

 小さな金属音が響く。

 不思議な感触だった。刃で弾いた時は確かに硬い物同士が当たったような感触だったのに、次の瞬間には白い刃は気体となって霧散したのである。

「これは……」

 その異様な手応えに凛が目を見開く。

(霧で作られた斬撃……?)

 驚いたのも束の間。

 ちりん。

 ちりん、ちりん――。

「……!」

 柄頭に吊るされた風鈴が、何かを訴えるように激しく鳴り始めた。

 凛が身構える。

 次の瞬間、無数の白い刃が、四方八方から凛目掛けて雨霰の如く襲い掛かった。

「くっ……!」

 凛は風鈴の音を頼りに御神刀を振るい、迫り来る斬撃を次々と弾き落としていく。

 しかし、一つを凌げば、すぐさま次が飛んでくる。

 斬撃をかわした先にも、さらに別の刃が待ち構えていた。

 まるで逃げ道を潰すような、絶え間のない波状攻撃。

 凛は必死に刀を振るい続けるも、少しずつ劣勢に追いやられていく。

「っ……!」

 息が上がる。

 腕も重くなる。

 浴衣の裾が足に絡み、思うように踏む込めない。

(このままじゃ、まずい!)

 このまま防ぎ続けていては、いずれ捌き切れなくなる、

 凛は斬撃を受け流しながら、必死に活路を探した。

 その時、絶え間なく続いていた斬撃の波に、僅かな間隙(かんげき)が生まれる。

 凛はその一瞬に賭けた。

「――風遁(ふうとん)・風車(かざぐるま)!」

 術を発動した瞬間、凛を台風の目にして、周囲に強烈な旋風が巻き起こる。

「――ッ!」

 渦巻く風が、一気に周囲へと広がっていく。

 吹き荒れる突風に煽られ、辺りを覆っていた白い霧がまとめて掻き消えた。

 視界を塞いでいた濃霧が一気に晴れる。

 凛は荒い息を吐きながら御神刀を構え直した。

 ようやく開けた視界。

 その先に、霧の中へ身を潜めていた狭霧の姿が、はっきりと浮かび上がった。

 凛は目にも止まらぬ速さで狭霧の眼前まで移動し、御神刀を構える。

 だが、狭霧を目前に捉えたところで、凛はまたしても、ほんの一瞬だけ動きを止めた。

「……」

 目の前にいるのは、月の民。

 しかも、月の姫巫女である小雪を迎えに来た者だ。

 そんな相手に、自分から刃を向ける。

 それが、どれほどの意味を持つ行為なのか。

 凛にも分かっていた。

 だが、もしここで自分が倒れれば、その次に狭霧の標的になるのは龍三だ。

 そうなれば、龍三は小雪との記憶を全て奪われてしまう。

 龍三と小雪……二人の気持ちを知っている凛だからこそ、それだけは何としてでも阻止したかった。

 数瞬の葛藤の末、凛の出した答えは――。

(申し訳ありません、狭霧様……!)

 凛は腰を低く落としたまま、御神刀を横薙ぎに振るう。

 その動きに、もう躊躇いはなかった。

 翡翠色の刃が、狭霧の胴を一直線に薙ぐ。

 紫紺の衣が大きく裂け――狭霧の身体が、横一文字に斬り払われる。


 ――はずだった。


「……?」


 凛は、刀を振り抜いた直後に妙な違和感を覚えた。

(手応えがない?)

 確かに狭霧の胴を捉えたはずだ。

 それなのに、刀を握る手には、まるで空気を斬ったような感触しか残っていない。

(空振り……? いや、そんなはず――)

 凛は訝しげに顔を上げる。

「……なっ!?」

 その瞬間、凛は目の前の光景を見て息を呑んだ。

 狭霧の胴――斬り裂かれたはずの部分が、白(・)い(・)霧(・)へ(・)と(・)変(・)わ(・)っ(・)て(・)い(・)る(・)。


「身体が……霧状に!?」


 離れた場所で戦況を見つめていた龍三も、そのあまりに異常な光景に思わず絶句した。

 凛の放った一撃は完璧だった。

 電光石火の踏み込みから繰り出された鋭い横薙ぎの一閃。それは確実に狭霧の胴体を横一文字に捉え、両断したはずだった。それなのに、狭霧は傷一つ負っていない。

 斬り裂かれたはずの胴体は、血を流すどころか白い霧へと変わり、通り過ぎた刃の後を追うように、散った霧の粒子が斬られた箇所へと収束していく。まるで最初から傷など存在しなかったかのように、両断されたはずの胴体は瞬く間に繋ぎ合わされ、完璧な元の姿を取り戻していた。

(なんだ、今の……?)

 龍三の背筋を、冷たい戦慄が駆け抜ける。


 物理的な攻撃が一切通じない。

 斬っても、突いても、捉えることすらできない。


 それこそが、天之狭霧の霊能力――『霧ノ境界』だった。


「私に斬りかかるその気概は、認めてあげましょう」

 狭霧は何事もなかったかのように、傷一つない状態のまま凛を見つめていた。

 その直後、狭霧の青い瞳が、すっと冷酷に細められる。

「――ですが、それでは私に届かない」

 静かな声の余韻を残したまま、狭霧は刀を下から掬い上げるようにして、容赦なく振り抜いた。

「――っ!」

 凛は咄嗟に御神刀を横に構え、迫り来る刃を受け止める。

 凄まじい衝撃が腕を突き抜けた。

「くっ……!」

 受け止めたはずの身体が、そのまま後方へ弾き飛ばされる。

 凛は空中で身を捻りどうにか着地すると、間髪入れずに素早く術を発動し、六本の光の苦無を生み出した。

 それを、一斉に狭霧目掛けて射出する。

「はぁっ!」

 六本の苦無が白い軌跡を描いて飛翔する。

 狭霧は微動だにしない。

 避けたり、身構えたりすることなく、その動きすら不要とばかりに立ち尽くしている。

 そして、全ての苦無が――狭霧の身体をすり抜けた。

「ッ……!?」

 凛の表情が強張る。

「愚か者め……」

 狭霧の身体が、再び霧へと変わっていく。

 白い霧は地面を這うように広がると、やがて一つにまとまり、まるで生き物のように宙を舞った。

 白い尾を引きながら大きな弧を描き、凛へ向かって一気に突っ込んで来る。

 その様子は、さながら白い龍が如し。

「――!」

 凛は反射的に御神刀を構えた。

(正面から……!)

 迫り来る霧を見据え、受け止める態勢を取る。


「――移流(いりゅう)斬(ぎ)り」 

 

 霧の中から、狭霧の声が響く。

 次の瞬間、凛の眼前まで迫っていた霧の塊が、ふっと輪郭を失った。

「……え?」

 凛の視界を、白い霧が覆う。

 霧は彼女の身体を包み込むようにして、そのまま後方へと流れていった。

 まるで、風が木々の間をすり抜けていくように。

 

 ――ちりん。

 

 そこで、刀の柄頭に吊るされていた風見鈴が、澄んだ音を響かせる。

「ッ――!」

 凛が反応するよりも早く、斜めに奔った紫紺の刃が正面から凛の身体を捉えた。

「がっ……!?」

 浴衣が大きく裂け、鮮血が舞う。

 死線の火花が散るような一瞬の交差。離れた場所から叫ぶ龍三の声すら届かない程の神速の一撃だった。

 斬られた衝撃で、凛の身体がよろめく。

 風見鈴が事前に攻撃が来ることを知らせてくれたのに、全く反応できなかった。

 何が起きたのか理解できないまま、凛はゆっくりと振り返る。

「い、いつの間に……?」

 そこには、國之狭霧を振り抜いた姿勢のまま、狭霧が立っていた。

 正面から突っ込んできたはずの狭霧は、霧へと姿を変え、凛の身体をすり抜けていった。

 そして、霧が凛の身体を通過するその一瞬。

 狭霧は霧の中から刀を振るい、凛を斬り裂いたのだ。


 狭霧が凛の方へ向き直る。

 そのまま一歩踏み込み、左手を伸ばした。

 その手が、凛の首を鷲掴みにする。

「が……はっ……!」

 細い身体が、いとも容易く持ち上げられた。

「凛っ!」

 離れた場所で見ていた龍三が、思わず声を上げる。

 狭霧は冷たい眼差しで宙に浮いた凛を見据える。

「ここまでです」

「くっ……!」

 凛は苦し気に狭霧の腕を掴もうとする。

 だが、掴めない。

 狭霧の腕はたちまち白い霧に変わり、凛の指は虚しくその中をすり抜けていった。

「掴めなくて、もどかしいでしょう?」

 狭霧は冷徹なまでの静けさを湛えた声で、淡々と告げた。

「今の私は、実(・)体(・)と(・)霧(・)の(・)境(・)界(・)を(・)曖(・)昧(・)に(・)し(・)て(・)い(・)る(・)ので、肉体なのか、霧なのか――その境目がなくなっているのですよ。だから、貴方の手は私を捉えられない」

「ぐっ……ぅぐっ、……」

 狭霧の指に、さらに容赦のない力が込められる。

 凛は苦しそうに顔を歪めながらも、狭霧を睨み返した。

 脳は酸素を求め、視界がチカチカと明滅する。だが、凛の思考はまだ死んでいない。

(実体と、霧の境界を、曖昧に……!?)

 己の首を絞め上げている狭霧の白く透き通るような腕を見つめる。

 確かに、全く掴めない。先程から抵抗しようと必死に伸ばした凛の手は、彼女の腕に触れることすらできず、水か煙を掴むようにすり抜けるだけだった。凛から狭霧へ向けた物理的な干渉だけが、まるで意味を成さない。

 だが、狭霧は確かに、凛の首をその手で締め上げている。

 その矛盾が、凛の思考を刺激した。

 狭霧は完全に霧になっているわけではない。かといって、肉体だけでもない。

 実体と霧。その二つが混ざり合い、その境目そのものが消えている状態なのだ。

(そうか……)

 狭霧の言葉が、凛の脳裏でパズルのピースのように噛み合った。

(これは単に、身体を霧に変化させるだけの能力じゃない。狭霧様の霊能力は……霧と、『境界』そのものを操る能力なんだ)

 実体と霧を隔てる境界を自在に操作し、消失させることで、物理攻撃を透過させている。

 敵の絶望的な無敵能力の正体を、凛はその燃え盛るような生存本能の中で、ついに見破った。

 つまり、完全に存在が消えているわけではない。そこに物質としての「霧」があるからこそ、狭霧は人の形を保ち、自分の首を絞めるという物理的な力を生み出せているのだ。

(だったら……)

「……さて、最後に何か言い残すことはありますか?」

「……っ」

 狭霧の言葉に、凛は僅かに目を細める。

 そして、掠れた声を絞り出した。

「……二人の……恋路を、邪魔するな……!」

「……?」

 狭霧の眉が、僅かに動く。

「二人の恋路……?」

 意味がわからない。

 何のことだ? と狭霧が訝しんだ、その瞬間――。

 ガクン、と狭霧の全身が沈んだ。

「――っ!?」

 凛の『浮世離れ』は、物質に作用する「浮力」を自在に操る霊能力。

 狭霧の身体が肉体なのか、霧なのか区別がつかない状態ということは――逆に言えば、その身体は肉体でもあり、霧でもあるということに他ならない。

 狭霧の身体を構成する物質に霧が含まれているのなら、大気に漂う霧ごと浮力をゼロにして地に落とせるはず。

 凛のその予想は、見事に的中した。

 それまで狭霧の身体を支えていた浮力が、一瞬にして失われる。

 肉体と霧の境界が曖昧になっている今の狭霧にとって、それは肉体そのものが浮力を失うことと同義だった。

「これは――!?」

 重力に引かれた狭霧の身体が、猛烈な勢いで地面へと引きずり落とされる。

 まるで、全身が鉛の塊と化したかのようだ。

 想定外の重圧に、狭霧の目が見開かれる。狭霧は咄嗟に凛を手放すと、のしかかる重圧に抗うようにして後方へと大きく飛び退き、距離を取った。

「げほッ……! ごほっ、げほっ……!」

 解放された凛が、その場に崩れ落ちる。

 地面に手を付き、激しく咳き込みながら必死に呼吸を繰り返した。

 一方、着地した狭霧は、自身の身体に起きた現象を即座に脳内で紐解いていた。そして、冷徹な視線を凛へと向ける。

「浮世離れか……小細工を――ッ!」

 狭霧が冷酷に言い放ち、その右腕を鋭く一閃させた。

 生み出されたのは、白濁とした霧の刃。それが空中で交差し、巨大な『×』の字の斬撃となって凛へ牙を剥く。


「霧(きり)裂(さ)メ――!」


 視界を白く染め上げる、あまりにも強烈な一撃。激しく咳き込み、まだ身動きの取れない凛の瞳に、迫り来るばつ印の斬撃が映る。

(しまっ――)

 凛が身構えた、その瞬間。

 彼女の前に、一人の背中が滑り込んできた。

「くっ……!」

 龍三だった。

 彼の右腕には、メラメラと揺れる青い焔が宿っている。

 あらゆる穢れを無に還す『破魔の焔』。

 だが、その焔を突き出そうとする龍三の心奥には、一抹の焦燥と恐怖があった。

 この焔がこれまで焼き祓ってきたものは、あくまで妖魔の放つ妖術や穢れだけだ。対する狭霧の力は、人間が扱う霊能力。同じ異能の類とはいえ、その性質はまるで違う。

 この焔が霊能力にまで作用するかどうかは、試してみないことにはわからない。


 詰まる所――これは、ぶっつけ本番の賭けだった。


 龍三は破魔の焔を宿した右手を突き出し、迫り来る霧の斬撃を正面から受け止める。

 直後――。

 轟ッ! という激しい衝撃音が夜の空気を震わせた。

 形を持った霧が龍三の焔に触れた瞬間、蒼炎が一気に燃え広がり、凄まじい勢いで霧の斬撃を無へと還元していく。

 狭霧の放った超常の斬撃は、破魔の焔によって完全に無効化された。

「防げた……!」

 右腕を突き出したまま、龍三は荒い息を吐く。

 熱による反動はない。だが、霊能力と破魔の力がせめぎ合った衝撃で、右腕がジンと痺れていた。

 賭けには勝った。人間の霊能力であろうと関係ない。この焔は等しくそれを「打ち消すべき異能」として焼き尽くす。

 その確信を得た龍三は、すぐさま後ろを振り返った。

「凛、大丈夫か?」

「た、龍三殿……」

 地面に手を付き、まだ喉を押さえながらも、凛はしっかりと龍三を見上げている。

 その様子を見て、一先ず無事であることを確認すると、龍三は再び狭霧の方へと力強く振り向いた。

 そして、破魔の焔に包まれた拳を握り締め、目の前にいる狭霧を鋭く睨み付ける。

「もう十分だろ。これ以上、凛に手を出すな……」

 毅然と言い放つ龍三。

 だが、その返事は言葉ではなく――。

「……!」

 首筋に、冷たい刃が突き付けられる。

 刃先は、喉元に触れるか触れないかというところでぴたりと止まっていた。

「…………」

 呼吸さえも躊躇われる。浅く息を吸うたび、刃先が喉に近づいてくるような錯覚まである。

 ほんの少しでも身じろぎするだけで、皮膚を裂かれそうだった。

 龍三がごくりと唾を飲み込む。

 その小さな喉の動きすら、今は怖い。

「……貴方、一体何者ですか?」

「……?」

 予想外の問いに、龍三は眉を顰めた。

 狭霧は龍三の首元に紫紺の刃を突き付けたまま、静かに問いを重ねる。

「なぜ、私の斬撃を止めることができた? ……いや、あれは止めたというよりも、触れた先から事象そのものを消し去ったように見えました」

 その声音には、先ほどまでの冷淡さとは明らかに異なる困惑と警戒が混ざっていた。

 卓越した霊能力者である狭霧の直感が、目の前にいる少年という存在をどうしても計りかねているのだ。

「一体何をしたのです? それに、その手から出ている青い焔……」

 狭霧の視線が、龍三の右手へ落ちる。そこには、破魔の焔が今も静かに揺らめていた。

 狭霧にもこれが見えているのか、と龍三は自分の手に目を落とす。

 小雪に凛、土鬼に続いて狭霧にまで……。

 なぜ、彼女らにはこの焔が見えているのか。

 未だにその理由は判然としない。


 けれど、彼なりに考えている仮説が一つだけあった。

 もしかすると、この焔は霊力や穢れなど、霊的なものに関わりのある者。あるいは、それを感じ取れる者にしか見えないのではないか。

 勿論、根拠など何もない。

 ただ、狭霧にもこの焔が見えているという事実が、これまで漠然と考えていた仮説を、ほんの少しだけ現実味を与えているように思えた。


 ぐるぐると巡る思考を打ち切るように、龍三は小さく溜め息を吐く。

 そして、探るような視線を向けてくる狭霧へ、飾らない本音を投げかける。

「知らねぇよ。俺にだってよくわかってねぇんだ。この力……」

「…………そうですか」

 狭霧は龍三の言葉を聞きながら、僅かに目を細めた。

 そして、彼の首元に突き付けていた刀を静かに下ろす。

 ようやく首元から刃が離れたことで、龍三は張り詰めていた身体の緊張を緩め、ほっと胸を撫で下ろした。

 だが――。

「――っ!?」

 刹那、龍三の身体が横薙ぎに吹き飛ばされた。

 狭霧が、抜き身の國之狭霧とは反対の手に握っていた鞘を、横殴りに振り抜いたのだ。

「龍三殿!?」

 凛の悲鳴のような叫びが響く。

「ぐっ……うぅ……」

 地面を激しく転がった龍三は、苦悶の声を漏らしながらなんとか身を起こそうとする。

 脇腹を押さえ、痛みに顔を歪めながら目の前の狭霧を睨み据えた。

「なに、しやがる……っ!?」

「貴方は少し危険ですね。霊力の気配は微塵も感じないのに、私の霧の斬撃を打ち消して見せた。はっきり言って……気味が悪い」

 狭霧はそう吐き捨てると、龍三に思考する時間すら与えなかった。

 間髪入れず、畳み掛けるように攻撃を仕掛けてくる。

「――霧(きり)時雨(しぐれ)」

 その一言と同時に、狭霧の周囲で霧が一斉に蠢いた。

 次の瞬間、無数の霧の斬撃が龍三に向かって雨霰と降り注ぐ。

 広範囲を隙間なく埋め尽くす、凶悪な斬撃の嵐。

「っ――!」

 危ういところで、凛が咄嗟に龍三の前へと躍り出た。

「風遁・風陣結界!」

 即座に術を発動する。凛を中心に猛烈な風が渦を巻き、それは瞬く間に二人を包み込むドーム状の天蓋を形成した。

 直後、無数の斬撃が襲い掛かる。しかし、荒ぶる風の壁に触れた瞬間、全ての刃は軌道を反らされ次々と霧散していった。

「……っ」

 凛は荒い息を吐きながら、周囲へ視線を巡らせる。

 一先ず、これで時間は稼げる。

 次は、どう出るか。

 狭霧は小雪を連れ戻すために、月の使者として地上に送り込まれた人物だ。

 それは、月の都がそれだけ彼女の実力を買っているということでもある。

 そして実際に刃を交えた凛には、それが決して過大な評価ではないことが、嫌というほど分かっていた。

 それだけではない。

 彼女の霊能力――『霧ノ境界』。

 その名の通り、霧と境界を自在に操る霊能力。

 まともに斬り合ったところで、こちらの攻撃は全てすり抜けてしまう。

 先ほどは機転を利かせ、『浮世離れ』で霧と実体が曖昧な状態になった狭霧の身体を僅かに封じることが出来た。だが、同じ手が二度も通じるとは思えない。

 最初に刃を交えていた時のあれは、ただの戯れに過ぎなかったのだ。

 本気を出された今、凛の攻撃など通用するはずもなかった。

 攻めても無駄。守っていても、いずれは押し切られる。

(……こんな相手、どうやって戦えば……)

 凛は冷や汗の滲む手で御神刀を握り直した。

 荒れ狂う風の結界の向こう、白い霧の中に紛れる狭霧を見据えながら、必死に次の手を模索する。

 だが、その思考は唐突に打ち切られた。

 ちりん、と風見鈴が澄んだ音を響かせたからだ。

「――なっ!?」

 そして、凛がほんの一瞬、瞬きをした刹那。

 彼女の目の前に、何の前触れもなく狭霧が突然――現れた。

 しかも、右脚を振り上げた状態で。

「お前は少し、眠っていろ……」

「――っ!」

 凛は反射的に両腕を顔の前で交差させる。

 直後、狭霧の鋭い蹴りが凛の腕を真正面から叩きつけた。

 凄まじい衝撃とともに、凛の身体が後方へ大きく吹き飛ばされる。

「――がはっ!」

 防戦一方のまま宙を舞った凛は、背中からガードレールへと激突した。

 鈍い音が響き、凛の身体が糸の切れた人形のように力なく崩れ落ちる。同時に、周囲を覆っていた風の結界が頼りなく霧散した。それは、凛の意識が完全に断たれたことを意味していた。

「凛っ!」

 龍三が悲痛な叫び声を上げる。

「…………」

 狭霧は倒れ伏した凛をしばし見つめた後、やがて、未だに立ち上がれずにいる龍三へと静かに視線を戻した。

「さて、次は貴方の番です」

「てめぇ、よくも凛を……!!」

「加減はしました。今は気を失っているだけですよ」

「くっ……!」

 龍三は地面を強く踏み締める。

 痛む身体を無理やり起こし、ゆっくりその場に立ち上がると、鋭い眼差しで狭霧を睨み返した。

 狭霧は暫く何も言わず、値踏みするように龍三を見据えていた。

 やがて――ふと、何かを思い出したように薄い唇を開く。

「そういえば……先ほど凛が『二人の恋路を邪魔するな』と言っておりましたね」

「……っ!? だ、だったらなんだよ……!」

 不意を突かれた龍三の動揺を、狭霧は見逃さなかった。

「もしや貴方は、月詠様のことを憎からず思っているのですか?」

「…………」

 痛い所を突かれ、龍三は一瞬言葉に詰まる。

 胸の奥が熱くなるのを感じながら、きつく奥歯を噛み締める。そして、観念したように不器用な言葉を吐き出した。

「……悪いかよ」

「ふむ、そうですか」

 狭霧はそれ以上追及することはなかった。

 ただ、僅かに目を細める。

「でしたら……尚更、やめておいた方が身のためですよ」

「……何?」

 思いがけない言葉に、龍三が怪訝そうに眉を顰めた。

「月詠様を想う気持ちまで否定するつもりはありません」

 狭霧は淡々と、しかし残酷な現実を突きつけるように話を続ける。

「ですが、貴方と月詠様とでは、あまりにも身分も立場も違いすぎる。月詠様は、月の民にとって特別な御方です。貴方がどれほどあの方を大切に想っていようと、一時の感情だけでどうにかなる問題ではありません」

「……」

「それに、仮に貴方と月詠様が結ばれたとしても――」

 そこで言葉が途切れた。

 夜の静寂が、二人の間に重く沈む。

 じっとこちらを見つめる狭霧の瞳には、憐れみとも警告ともつかない、どこか冷徹な光が宿っていた。

 ごくり、と龍三の喉が鳴る。

 その小さな音を合図にするかのように、狭霧が再び口を開いた。

「……あの御方は、不老不死の存在。先に老いて死にゆくのは、人間である貴方の方です」

「不老、不死……」

「ええ」

 その言葉を聞いた瞬間、龍三の脳裏に、かつて土鬼から聞いた言葉が鮮烈に蘇った。

 土鬼も以前、小雪のことを『不老不死の存在』だと言っていた。

 あまりに荒唐無稽な話だったため、その時の龍三は半信半疑で聞き流していたが、その言葉を聞いた時の小雪の顔が今でも忘れられない。明らかに動揺していた。まるで、そのことだけは龍三に「知られたくなかった」とでも言うように。

 その反応が、ずっとトゲのように心の片隅に引っ掛かっていたのだ。

 そして今、狭霧の口から改めてその事実を突きつけられたことで、それまで抱いていた疑念が確信へと変わる。

 あの時の土鬼の言葉は、嘘でも、はったりでもなかったのだ。

 龍三は、目の前に佇む狭霧へと視線を向けた。

 ならば――同じ月の民である狭霧はどうなのだろうか。

「あんたたちも、小雪と同じ不老不死なのか?」

「いいえ。我々月の民は不老ではありますが、不死ではありません。月詠様が特別なだけです」

「小雪だけ?」

「はい」

「……なんで小雪は不老不死になっちまったんだ? あいつが持ってる不変の力と、何か関係があるのか?」

「……常世の神を、その身に降ろされたからですよ」

 狭霧は、ほんのわずかに間を置いてから、その名を口にした。

 その声音には、これまでの淡々とした口調とはどこか異なる、言い知れぬ重さが滲んでいた。

「常世の神?」

「かつて地上に実在した、新興宗教の神の名です」

「そんな、神って……」

 思わず漏れた声には、龍三自身も戸惑いを隠せなかった。

 不老不死というだけでも現実離れしているのに、それに加えて、今度は神をその身に宿したという。

「まあ、驚くのも無理はありません。そうしたものと縁のない人間からすれば、俄かには信じ難い話でしょう」

 狭霧は声色一つ変えず、しかしどこか諭すように言う。

「……その神を、小雪は身体に宿してるってことか」

「その認識で大体合っています。ただ……月詠様が自ら望んで、常世の神を降ろした訳ではありません」

 龍三の表情が、一気に険しさを増す。

「それってつまり……小雪の身体に常世の神を降ろすように仕向けた、第三者がいるってことか」

「そうです」

「そいつの名前は知ってるのか?」

 問いかける龍三の拳に、自然と力がこもる。

 狭霧はしばしの沈黙の後、その名を静かに口にした。

「その者の名は――大生部多(おおふべのおお)」

「おお、ふべ?」

 聞き馴染みのない奇妙な響きに、龍三は眉を顰めてその名をなぞった。

「皇極三年。富士川のほとりで常世の神を祀る信仰運動を起こした人物です」

「なんか、変な名前だな……」

「大昔の人間の名ですから。現代とは、名前の付け方も異なるのでしょう」

「そいつが、小雪を不老不死にした張本人……」

「ええ」

「じゃあ、あんたたちが小雪を月の都の離れに閉じ込めていたのも、それが理由なのか?」

 龍三の問いに、狭霧は静かに目を伏せる。

「……それとこれとは、また別の話しです」

 その答えに、龍三は眉を顰めた。

 ――別の話?

 常世の神をその身に宿していることと、小雪が月の都の離れにある社で生活を強いられたこと。

 それらは別々の理由だという。

 本当にそれだけなのだろうか?

 気にはなったが、それ以上、詳しく語るつもりはないことは、その態度から見ても明らかだった。

 だが、その徹底して情報を隠そうとする態度が、かえって龍三の疑念を強めた。


 確かに、不老不死であること。常世の神を宿していること。そして、姫巫女という特殊な立場。

 それだけでも、小雪が特別扱いされる理由としては十分だろう。

 しかし、それならなぜ――『岩倉』の中に長い間、小雪を閉じ込めておく必要があったのか。

 大切に扱うというのなら、他に方法はいくらでもあったはずだ。

 なのに、なぜそれほど極端な手段を選ぶのか。


 そこに、龍三は拭いきれない違和感を覚えていた。


 守られていた、というよりも――まるで、小雪の内側にある「何か」を、外界から隔離して閉じ込めているようにもみえる。

 月の都。常世の神。不老不死。小雪の姫巫女という立場。岩倉に閉ざされた生活。バラバラだった幾つものピースが、龍三の脳内で目まぐるしく噛み合っていく。

 不老不死だからではない。常世の神を宿しているからでもない。その二つが組み合わさっただけでは説明しきれない、もっと別の理由がある。

 月の都が彼女を「絶対に外へ出してはいけない」と判断するほどの理由が。

 その思考に行き着いた時、龍三は以前、土鬼が話していたとある言葉を思い出した。

 自分でも、なぜ今それを思い出したのか分からない。

 ただ、小雪を戒めている理由と、その言葉が、見えない糸で繋がっているような強烈な直感があった。

 龍三はゆっくりと口を開き、その単語を紡いだ。


「…………幻(・)想(・)神(・)域(・)?」


 その瞬間だった。

 それまで何を聞かれても氷のように冷静だった狭霧の表情が、初めて崩れた。

 両目が、大きく見開かれる。

 まるで、聞いてはいけない言葉を聞いたかのように。

 一瞬、呼吸すら忘れたように、狭霧は言葉を失った。

 そして龍三を射抜くその瞳に、これまでの憐れみや諦念とは明らかに異なる、剥き出しの警戒が宿る。


「……貴方、どこでそれを?」




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