第十九話 月の使者
霧の向こうから現れた女――天之狭霧は、白銀にも近い銀髪を右側へ垂らし、サイドテールにまとめていた。
そこには紫色の花をあしらった髪飾りが揺れている。
身に纏っているのは、和装と戦装束を組み合わせたような衣装。
白を基調とした上衣は左右で形が異なっており、右側には白い長袖が伸びているが、左側に袖はない。代わりに、その腕には黒い籠手が装着されていた。
右袖は袖口へ向かうにつれて白から紫へと色が移ろい、腰には紫色の帯の上に注連縄が巻かれている。
その下には右側に大きくスリットが入った紫色の装束が続いていた。
そこへ黒に近い濃紺の前垂れが重ねられ、その裾から伸びた脚には黒いハイヒールが収まっている。
衣装の随所には、霞を思わせる紋様があしらわれていた。
そして左腰には、一振りの刀。
普通に暮らしていれば、まず目にすることのない奇妙な装い。
だが――。
その中でも、取り分け目を引いたものがある。
それは狭霧の瞳だった。
澄み切った空や、深い海を思わせるような青。
それは、すぐ隣にいる小雪の瞳と、あまりにもよく似ていた。
青い目といえば、どうしても外国人を思い浮かべる。だが、小雪も狭霧も、顔立ちは決して西洋人のそれではない。
白い肌に、整った鼻筋。けれど、その輪郭や目元にはどこか東洋人らしい面影がある。
まるで、日本人の顔に青い瞳をそのまま嵌め込んだような、不思議な印象だった。
正直、ただの偶然だとは思えない。
もしかするとあの青い瞳は、月の民に共通する特徴なのかもしれない。
意識を失った桜華を横抱きにしたまま、天之狭霧は静かに口を開いた。
「月詠様、お迎えに上がりました」
「狭霧……」
警戒心を露わに、小雪がその名を呟く。
月からの迎えが来た。
それは、本来なら喜ぶべきことなのかもしれない。
しかし、狭霧が突然目の前に現れたことへの戸惑いと、その腕に抱かれた桜華の姿を前にしては、素直に喜ぶことが出来なかった。
「……よもや、其方一人で来たわけではあるまい?」
「ええ、もちろん。猿田彦も一緒です」
「猿田彦……あやつもここに来ておるのか」
その名を聞いた瞬間、小雪の目が僅かに見開かれた。
「正確には、猿田彦本人は地上ではなく月にいますが……」
狭霧はそう前置きして、淡々と話を続ける。
「地上の穢れは、我々月の民にとって毒ですから。猿田彦は穢れの影響を受けない鴉を使役し、私は結界を張って穢れから身を守りながら、月詠様を捜索していたのです」
「鴉……?」
小雪が眉を顰める。
「まさか……あの時の鴉は……」
脳裏に浮かんだのは、先ほど祭りの最中に飛び込んできた一羽の鴉。
あれは、猿田彦が自分を探すために放っていたものだったのだ。
「しかし、見つけるのには苦労しました」
狭霧が再び口を開く。
「予定ではもっと早くに月詠様を見つけて、月へお連れつもりだったのですが……」
「……」
小雪は、自分がこれまで狭霧たちに見つからなかった理由に、心当たりがあった。
土鬼との一件以降、小雪は自分の身体から、常に異様な霊力の気配が漏れ出していることを知った。
このままでは、土鬼のように霊力の気配を感じ取った妖魔が、小雪のもとへ集まってきてしまうかもしれない。
それを阻止するため、小雪は己の持つ拒絶能力によって気配の遮断を行ったのだ。
以来、妖魔に狙われることはなくなった。そして、霊力の気配そのものを遮断していたため、結果的に狭霧の探知にも引っ掛からなかったのである。
勿論、意図したわけではない。思わぬ形で狭霧の探知を欺いたのは、小雪にとっても偶然の産物に過ぎなかった。
だが――今日、祭りへ出掛けるために久しぶりに外へ出たことで、その状況は一変する。
その行動が結果として、自分の居場所を彼女らに知らせることになってしまったのだ。
しかし、ここで一つだけ腑に落ちないことがあった。
「……どのようにして、妾の居場所を突き止めた?」
日本は島国とはいえ、その国土は決して狭くはない。
全国を隅々まで探すとなれば、それだけで相当な時間がかかる。その間に小雪が別の場所へ移動してしまう可能性だってある。
それなのに、先ほどの狭霧の口振りからすると、最初から小雪の居場所をある程度まで絞り込んでいたように聞こえた。
では、一体どうやって?
小雪の問いに、狭霧は淡々と答える。
「凛が提出した報告書に残された戦闘の記録から、幾つもの不自然な点が見つかりまして。八意様がそれを詳しく調べたところ、月詠様のいる可能性が最も高い場所として、この籠目市が浮かび上がったのです」
(報告書から……?)
凛の顔が青ざめる。
(どうやって……?)
八意という名前は、凛も知らないわけではない。退魔庁に所属している退魔師ならば誰もが知る名だ。
東方総代――八意思兼。
月の都の政治を取り仕切り、同時に退魔庁全体の指揮を執る、月の民の最高責任者。
当然、退魔庁に提出された報告書には、最終的に八意の目が通ることも凛は知っていた。
だからこそ、報告書の内容には細心の注意を払った。
小雪の存在を悟られないよう、余計な情報は一切記さなかった。
それなのに――まさか、報告書の内容からここまで見抜かれるとは、思ってもみなかった。
ふと、狭霧の視線が凛へ向く。
「久しいな、凛」
「……っ」
凛の身体が強張った。
狭霧の瞳には、怒りも敵意も浮かんでいない。
そこにあるのは、昔から知っている相手を見るような眼差しだった。
だからこそ、凛には余計に恐ろしく感じられた。
まるで、既に自分が何を隠していたかまで、見透かされているような気がしたからだ。
狭霧はそれ以上何も言わず、小雪に視線を戻す。
「さあ、帰りましょう。月詠様。民たちも皆、貴方の帰りを待ち遠しく思っております」
「…………」
小雪は、すぐには答えなかった。
代わりに、狭霧の腕の中で眠る桜華に視線を向ける。
「その前に……桜華を解放せよ。その者は、妾の大切な友人じゃ。それ以上、手荒な真似をすることはまかりならぬ」
小雪が語気を強めて言う。
狭霧は何も言わず、小雪を見つめていた。
やがて、静かに目を伏せる。
「……承知しました」
思いのほか、あっさりとした返事だった。
その様子に龍三は呆気に取られるも、小雪の表情は神妙なままだ。
「ご安心を。私も別に、この者に危害を加えるつもりはありませんので」
「ならば――」
「ただし」
小雪の言葉を遮るように、狭霧が続ける。
「条件があります」
「条件?」
「はい。月詠様には、こちらまで来ていただきます」
「…………」
「そうしていただければ、この娘はお返ししましょう」
桜華は狭霧の腕の中で目を閉じたまま、ぴくりとも動かない。
眠っているだけなのか。
怪我はないのか。
確かめようにも、辺りを覆う濃い霧が邪魔をして、その様子を窺うことすらできない。
「……………………」
小雪はしばらく桜華を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……わかった。其方の言う通りにしよう」
それから、ほんの少しだけ間を置いて。
「じゃが、その前に少しだけ、時間をくれぬか?」
「……」
狭霧は何も言わず、小雪の顔をじっと見つめていた。
そして、観念したように溜め息を吐く。
「……わかりました。それで気が済むのなら……」
「小雪……」
龍三の声に、小雪が振り返る。
「龍三……すまぬ。このようなことになってしまい。妾のせいで、桜華を危険な目に遭わせてしまった」
「それは、小雪のせいじゃねぇだろ……」
どうして小雪が謝る?
別に、小雪が悪いわけじゃない。
月の都から、いつか迎えが来ることはわかっていた。でも、まさかこんなやり方で連れ戻しに来るなんて、誰にも予想できなかったはずだ。
「……」
小雪は俯いたまま、口を噤む。
しばらくして、ゆっくりと顔を上げた。
「……短い間じゃったが、世話になった……」
その瞳は、潤んでいた。
声も、僅かに震えている。
その表情を見れば、これが小雪にとって決して容易な決断ではなかったことくらい龍三にもわかった。
小雪だって、心の底では龍三たちと別れたくないのだ。
それでも、彼女は月へ帰ることを選んだ。
選ばざるを得なかった。
「……小雪」
もう一度、名前を呼ぶ。
ただ、それ以上の言葉が続かない。
行かないでくれ。
そう言えばいいだけなのに、その言葉だけはどうしても口から出てこなかった。
小雪には帰る場所がある。
それを知っているからこそ、自分の気持ちだけを押し付けることが出来ない。
月の都側にも、彼らなりの事情がある。
小雪を迎えに来た彼女たちにだって、小雪を連れ戻さなければならない理由がある。
それを自分勝手な理由で邪魔することなんて、龍三にはできない。
それでも、ついさっきまで一緒にみんなで祭りを楽しんでいたことを思い返すと、急に訪れた小雪とのお別れがあまりにも唐突すぎて、龍三の感情は全く追い付いていなかった。
龍三は現実を受け入れられず、茫然とその場に立ち尽くす。
「そのような顔をするでない。元より、いつかは月に帰らねばならぬ運命だったのじゃ。それが、今日であったというだけの話し」
「……」
小雪は寂しそうな顔をして俯くと、今度は凛へ視線を向ける。
「……凛も、久しぶりに会えて良かった」
「小雪様……」
凛の声が震える。
小雪はそんな凛に、少しだけ微笑んだ。
「お主たちとは出会ってまだ数日しか経っておらぬが、それでも……」
小雪が自分の胸元に重ねた両手を添える。
「この思い出は、妾の一生の宝物じゃ」
小雪が月へ帰る。
それだけなら、仕方のないことだと思っていた。
小雪は月の民だ。
自分たちとは住む世界が違う。
だから、いつか別れの日が来る。
それも、頭では分かっていた。
けれど――いざその瞬間を目の前にすると、やっぱり、どうしても受け入れることができなかった。
胸の奥が強く締め付ける。
息をするのさえ苦しくなるほどの喪失感が、身体の奥から込み上げてくる。
まるで、大切なものを突然、目の前から奪われてしまうような感覚だった。
そこで、龍三は気付いた。
自分が嫌なのは、小雪が月へ帰ってしまうことではない。
小雪が――自分の前からいなくなってしまうことが、嫌なのだと。
離れたくない。
もっと一緒にいたい。
そんな思いが、堰を切ったように次から次へと溢れ出してくる。
どうして、こんなにも苦しいのか。
どうして、こんなにも小雪を失いたくないと思うのか。
その答えを――龍三は今、この最悪の瞬間になって、ようやく理解した。
自分は、小雪のことが好きなのだ。
それを自覚した瞬間、奇妙な感覚が胸を過る。
誰かに対して、これほど愛おしい感情を抱くのは、人生で初めてのはずだった。なのに、どうしてか「初めて」という気がしない。
むしろ、ずっと忘れていた大切な何かを、”ようやく思い出した”。そんな言葉の方が、今の胸の疼きには不思議なほどしっくりくる。
それが一体、何を意味しているのか、今の龍三には知る由もないけれど。
ただ一つ確かなのは、それを自覚するには――あまりにも遅すぎた。
「達者でな、龍三……」
小雪がゆっくりと踵を返す。
「小雪……!」
名前を叫ぶのと同時に、去っていく小雪に思わず手を伸ばしかける。
だが、龍三の手のひらが触れたのは、冷たい夜の空気だけだった。
伸ばした指先が、虚しく空を掴む。
もう一歩、踏み込んでその身体を抱き寄せれば、連れ戻せるかもしれない。
けれど――。
脳裏に、桜華の姿が浮かぶ。
狭霧に人質として捉えられている以上、下手な真似はできない。
その考えが、龍三の足を止めた。
結局、少しずつ遠ざかっていく小雪の背中を見つめることしか、今の龍三にはできなかった。
「……」
龍三は顔を俯け、拳をぎゅっと握り締める。
何もできない自分が、ひどく歯痒かった。
「龍三殿……」
凛も龍三の心境を察し、心配そうに見つめる。
やがて小雪が狭霧の元まで辿り着く。
すると狭霧は、何も言わずに桜華を小雪へ渡した。
「桜華……!」
小雪が慌てて桜華を抱き留める。
腕を通して、桜華の体温が伝わってきた。よく見ると、ちゃんと呼吸もしている。怪我をしている様子もない。
小雪は桜華の無事を確認すると、安堵の息を吐いた。
その瞬間、自分の周囲を、濃い霧が覆い始めていることに気づく。
「……?」
あっという間に霧は小雪と桜華を包み込み、その姿を隠していく。
「狭霧!? 何のつもりじゃ!」
小雪の声が霧の向こうから響く。
「龍三たちは――」
そこで、小雪の声が完全に途絶えた。
「……小雪、桜華!?」
突然、二人が霧の向こうへ消えたことに驚いて、龍三が声を上げる。
しかし、狭霧はそんな龍三の焦りを意に介した様子もなく、静かに口を開いた。
「安心してください。別に取って食べたりするわけではありません。二人とも無事ですよ。今は結界の外です」
「結界の……外?」
龍三は思わず霧の向こうへ目を凝らした。
だが、どれだけ目を凝らしても、小雪たちの姿は見えない。
ただ白い霧が静かに漂っているだけだった。
「ええ」
狭霧は周囲を覆う白い霧へ、ちらりと視線を向けた。
「この霧で出来た結界は、私の有する霊能力――『霧ノ境界』によって作られたものです」
「霧ノ境界?」
「月詠様を追いかけたいというのなら、止めはしません。ですが……」
狭霧の青い瞳が、龍三と凛を静かに捉える。
「もう、この霧の迷宮から抜け出すことはできませんよ?」
「……!」
もう手遅れだと言いたげな狭霧の言葉に、龍三は息を呑んだ。
「ここは今、現世から切り離された、一種の神域と化していますから」
――神域。
それは、この現世と重なるようにして存在する、無数の異世界の総称。
「……なんで……」
龍三は状況を上手く飲み込めないまま、その場に立ち尽くした。
隣にいる凛も、険しい表情で狭霧を見つめている。
小雪と桜華が無事に結界の外へ出たことには、一先ず安堵した。
だが、なぜわざわざ自分たちと二人を引き離したのか、その理由がわからない。
狭霧が何を考えているのか、未だに掴めない。
ここまでの予測のつかない行動の数々に、凛の警戒心はますます強くなっていた。
そんな二人を前に、天之狭霧は静かに口を開く。
「さて……これでゆっくりお話しができますね」
「……?」
龍三が怪訝そうに狭霧を見る。
「話したいことは山ほどありますが……その前に一つ、伝えておかなければならないことがあります」
狭霧の青い瞳が、龍三へ向けられる。
「そこの貴方……名は確か………」
「朝日奈龍三だ……」
「朝日奈龍三……良い名です。では、単刀直入に申し上げましょう」
そして狭霧は、一切の躊躇もなく、告げた。
「朝日奈龍三さん。貴方の記憶を、月詠様と過ごしてきたこれまでの思い出を……全て消させていただきます」
「……は?」
龍三の目が見開かれる。
「記憶を? 消す……?」
その言葉の意味を理解するまで、僅かな時間を要した。
狭霧は答える代わりに、懐から一枚の半透明な布を取り出す。
薄く光を帯びたそれは、まるで月明かりを織り込んだような幻想的な代物だった。
「これは天の羽衣」
狭霧が静かに告げる。
「これを身体に掛ければ――たちまちその者の記憶を消すことができます」
「……!」
龍三の背筋に、冷たいものが走る。
「何を、言ってやがる?」
狭霧は答えない。
ただ、手にした天の羽衣を静かに広げた。
それを見た凛の顔からも、さっと血の気が引いていく。
「そんな……」
これは、お別れなどという生易しいものではない。
小雪と過ごした時間そのものを、なかったことにされようとしている。
その事実に気づいた瞬間、凛の胸に言いようのない恐怖が込み上げた。
「お待ちください狭霧様! 龍三殿は、霊能力も扱えないただの一般人! 何も悪い事なんてしていないのに、記憶を消すだなんて……あんまりでござります!」
「むしろ、一般人だからこそ記憶を消すのです」
「え?」
「私は彼を、元の日常へ帰すと言っているのですよ」
狭霧は淡々とした口調で告げる。
「月詠様の存在は、表沙汰にはできない秘事。退魔庁の人間でもなければ、月の都に関わる者でもない。ましてや、霊能力すら持たないただの一般人が、その存在を知ってしまったとなれば、これは由々しき事態です」
龍三が息を呑んだ。
「だから、俺の記憶を消すっていうのか?」
「ええ」
「で、でも……そこまでしなくても……」
凛が納得できないと言いたげに口を挟む。
狭霧はそんな凛を一瞥すると、静かに口を開いた。
「凛の提出した報告書によれば、最初に戦闘があったのは商店街。そして、今度はそこからかなり離れた高架下周辺で、大規模な戦闘が起こっていますね」
「……?」
突然の話題変換に、凛が眉を顰める。
狭霧はそんな凛の反応を気にする様子もなく、淡々と口を開いた。
「何故、土鬼は商店街を離れて貴方を追いかけたのでしょう?」
「……そ、それは」
凛の顔に、動揺の色が浮かぶ。
狭霧は天の羽衣を懐にしまいながら話を続ける。
「確か、あの妖魔が操る妖術は、穢れた土があってこそ本領を発揮する。商店街周辺は、既にあの時点で妖魔の縄張りと化していた。しかも当時の妖魔は、三日前の戦闘で黒結晶を損傷し、弱っていました」
狭霧の口調は、あくまで淡々としている。
「そんな状態で、わざわざ自分の有利な戦場を捨ててまで、貴方を追う必要があるのでしょうか?」
凛は答えられない。
まるで真実を覆い隠すために大量に張り付けた嘘の紙を、一枚ずつ剥がされていくような、そんな不快感があった。
「特に、八意様が最も不自然だと感じたのは、夜明けまで戦闘が続いていたことです」
「……!」
凛の表情が強張る。
「妖魔は陽の光を浴びると消滅してしまう。妖魔にとって、太陽の光は最大の弱点です。それがわからないほど、あの妖魔も愚かではないでしょう。普通なら、夜明けが近づいた時点で戦闘を切り上げ、身を隠すはず……」
確かに、普通の退魔師から見れば土鬼の行動は異常だ。夜明けが近いのに、逃げることもせず戦い続ける。
それは他でもない。小雪を手に入れるという、執着ゆえの行動だった。
その異様な行動を、八意思兼は見抜いていたのだ。
狭霧の声には、責めるような響きはない。
ただ、事実だけを淡々と突きつけていく。
「ところが、あの妖魔はそうしなかった」
狭霧は凛を見つめる。
「縄張りを捨ててまで貴方を追い、夜が明ければ自らが消滅することも厭わず、戦い続けた」
そこまで話して、狭霧は僅かに間を置いた。
「妖魔には、それほどまでして追い続けなければならない”理由”があった」
「……」
「では、誰を追っていたのか。それは凛、貴方ではない。貴方と別にいた第三者……」
狭霧はそんな凛の反応を見つめたまま、最後の答えを口にした。
「そう、月詠様です」
「…………」
凛は何も言えなかった。
否定の言葉すら、出てこない。
「答え合わせは、その顔を見れば必要なさそうですね」
狭霧が小さく息を吐く。
そして、再び龍三へと視線を向けた。
「長々と説明しましたが、私の言いたいことは一つです」
狭霧の青い瞳が、今度は龍三を見据える。
「実際に、あの妖魔は月詠様を執拗に追った。その事実がある以上、貴方をこのまま日常へ帰すわけにはいきません。何がきっかけで、貴方が月詠様と繋がっていることを知られるかわからない。もしそのことが妖魔に知られたら、次に被害が及ぶのは……貴方の身内かもしれないのですよ?」
「……」
龍三は黙り込んだ。
「私はそれを憂いているのです」
狭霧の話しを聞き終えても、龍三はすぐには答えなかった。
確かに、狭霧の言う通りなのかもしれない。
小雪を狙う妖魔が、今度は自分を手掛かりにして小雪の居場所を探ろうとする可能性は十分にある。
そうなれば、自分だけでは済まない。
家族や、身近な人間まで巻き込んでしまうかもしれない。
それでも――。
「……あんたの言いたいことは、よく分かった」
龍三は拳を強く握り締めた。
「それでも……やっぱりあんたの言うことを聞くことはできない」
「……」
狭霧の青い瞳が、僅かに細められる。
龍三は、その視線から逃げることなく見返した。
「小雪との思い出も……」
左胸に手を当てる。
「小雪と築いた、この関係も……」
指先に力がこもる。
「小雪に抱いた、この気持ちも――」
そして、服をぎゅっと強く握り締めた。
「全部忘れるなんて、俺にはできない。だから、俺の記憶を消させるわけにはいかない!」
「……そうですか」
狭霧は小さく息を吐いた。
「参りましたね」
その声には、僅かな困惑が滲んでいた。
だが、それもほんの一瞬。
「ならば、仕方ありません」
狭霧の周囲を漂っていた白い霧が、ゆっくりと彼女の元へ集まり始めた。
霧は次第に濃さを増し、狭霧の身体を覆っていく。
「多少、手荒な真似をしてでも――貴方の記憶を消させていただきましょう」
「……!」
悪く思わないでくださいね、とだけ言い残し、狭霧の姿が霧の中へ消えていった。
「龍三殿、下がって!」
凛が咄嗟に御神刀を実体化させ、そのまま龍三を庇うように前へ踊り出る。
刀を抜き放ち、翡翠色の刀身を構えて霧の向こうを睨み据えた。
「あ、ああ」
言われるがまま、龍三も後ろへ下がる。
凛の手にした御神刀の柄頭で、風鈴が微かに揺れている。
――風見鈴。
普段なら、敵意や殺気に反応して鳴る風鈴。
だが、その音は凛自身に攻撃が向けられている場合にのみ鳴るものだ。
狭霧が凛ではなく、龍三に攻撃を仕掛ける場合、風見鈴は何の役にも立たない。
だからこそ、凛は御神刀を構えたまま、神経を研ぎ澄ませる。
狭霧の狙いは龍三だ。
この場で彼を守れるのは自分しかいない。
その瞬間だった。
「――!」
濃霧の中から、紫色の刀身が閃いた。
予想通り、狙いは龍三だった。
凛は反射的に踏み込み、御神刀を振るう。
翡翠色に輝く刃が、迫り来る紫色の刃を迎え撃つ。
甲高い金属音が、濃い霧の中で響き渡った。
「何の真似です、凛? 自分が何をしているのか、わかっているのですか?」
刃を交えたまま、狭霧が問いかける。
「狭霧様こそ、今、何をしようとしたんですか!?」
「彼の記憶を消すのですよ。それ以上でもそれ以下でもない」
紫紺の刀身を挟んだ向こう側で狭霧が凛を睨み据える。
その手に握られているのは――境刀・國之狭霧。
狭霧自身の名を冠した一振りの刀だった。
「……私は、龍三殿の記憶を消すことには反対です!」
刃を押し合いながら、凛が懇願するように訴える。
次の瞬間――凛と狭霧は、同時に後方へ跳んだ。
二人は一定の間合いを保ったまま、相手の出方を窺う。
凛が横へ一歩動けば、狭霧もまた同じように歩をずらす。
互いを中心に据えるように、二人はゆっくりと円を描いていた。
「何か勘違いしているようですね、凛」
狭霧は凛から視線を逸らさない。
その声音は、相変わらず淡々としている。
「月詠様の存在は退魔庁の上層部の中でも一握りの人間しか知り得ない情報です」
「……」
「貴方が記憶を消されず、今もこうしていられるのは――他でもない、貴方が月詠様に気に入られ、特別に扱われているからに過ぎません」
狭霧の声が、僅かに冷たさを増した。
「本来ならば、お前も記憶を消される側の立場であることを、ゆめゆめ忘れぬことです」
「っ……」
凛は何も言い返せなかった。
狭霧もそんな凛をしばらく見つめていたが、やがて静かに目を伏せる。
「それともう一つ。何故、月詠様が地上に降りていることを知った時点で、上に報告しなかったのですか?」
「それは……」
凛の言葉が詰まる。
言えるはずがない。
小雪に頼まれたから――なんて。
小雪は、月へ帰ることを拒んでいたわけではない。
ただ、帰る前にもう少しだけ、みんなと一緒にいたい。
ここで過ごした時間を、少しでも多く思い出として残しておきたい。
小雪の境遇を知っていた凛は、その願いを聞き入れたのだ。
けれど、それを今ここで狭霧に話せば、小雪との約束を破ることになってしまう。
それだけは、口が裂けても言いたくなかった。
「…………」
黙り込む凛を見て、狭霧は静かに目を細める。
「返事はなし。それがお前の答えか……」
「……」
「ならば、こちらから問うこともありません」
「狭霧様……私は、その……」
「報告書に月詠様のことを書かなかった件については、よしとしましょう。月詠様の存在は、秘匿されるべきものです。貴方がその存在を伏せたこと自体を、咎めるつもりはありません」
狭霧はそこで一度、言葉を切った。
「ですが――」
青い瞳が、再び凛を射抜く。
「月詠様の所在まで秘匿することは、訳が違います」
「っ……」
「月詠様は、月の都において最高位におられる御方です。本来ならば、その所在を知った時点で、貴方は月の都へそのことを報告しなければならなかった。そうすれば、我々もすぐに月詠様をお迎えに上がることができたでしょうし、捜索にこれほど時間を費やすこともなかったでしょう」
狭霧の声が、更に冷たくなる。
「それを貴方は怠った。これは、単なる報告義務違反ではありません。月詠様の所在を意図的に隠した――明確な罪」
「……!」
「故に、春風凛。私はお前を、月詠様の所在を秘匿した罪で処罰せねばなりません」
狭霧が刀を構える。
「抵抗しなければ、楽に済ませてやるぞ?」
狭霧は淡々とそう告げた。
その声には、脅しの色すらない。
「…………」
凛も御神刀を握り直す。
「お断りします。私も、痛いのは嫌なので」




