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幻想神域の零能力者(イレギュラー)  作者: 蒼春-Aoharu
第一章 バタフライ・エフェクト/Butterfly Effect
19/24

第十八話 月に叢雲花に風



 四人が河川敷へ辿り着く頃には、辺りはすでに大勢の人で賑わっていた。

 夏祭り初日ということもあり、普段なら広々としている河川敷も、今日は人で埋め尽くされている。

 通りには屋台がずらりと並び、焼きそばやたこ焼きの香ばしい匂いが、夜風に乗って漂ってくる。

 店員の威勢のいい呼び声に混じり、子供たちのはしゃぐ声や、祭りを楽しむ人々の笑い声も聞こえていた。

「うわぁ……すごい人!」

 桜華が目を輝かせながら辺りを見回す。

「人が多いですねぇ」

 凛も感心したように周囲を見渡した。

 河川敷へ続く道も人で埋め尽くされている。浴衣姿の男女や家族連れが屋台の並ぶ通りへ次々と流れ込んでいた。

「初日でこの人数か。明日はもっと多くなるぞ、これ……」

 龍三が人の流れを眺めながら呟いた。

「ほう……これが夏祭りというものか」

 その隣では、小雪が物珍しそうに辺りを見回している。

 普段は静かな社で暮らしている小雪にとって、これほど多くの人が集まる場所は珍しいのだろう。

 青い瞳が、あちらこちらへ忙しなく動いていた。

「小雪ちゃん、何か食べたいものある?」

 桜華が尋ねる。

「?」

「ほら、あそこ。りんご飴あるよ!」

「りんご飴……?」

 桜華が指差した先には、赤く艶やかなりんご飴がずらりと並んでいた。

「おお……!」

 それを見て、小雪が目を輝かせる。

 その反応を見た龍三は、思わず笑みを浮かべた。

「りんご飴か。美味しそうだな」

「妾、あれが食べてみたい……!」

 小雪がりんご飴を指差す。

「じゃあ、一緒に買いに行くか」

「うむ!」

 小雪は嬉しそうに頷いた。

 

 それからしばらくの間、四人は屋台を見て回った。

 最初に買ったりんご飴を片手に歩きながら、たこ焼きを食べ、かき氷を食べ、射的では誰が一番景品を落とせるかを競い合った。

「おお、当たった!」

 凛が放ったコルク弾が、景品の箱に見事に命中する。

「凛さん、凄い!」

「お見事……」

「いやぁ、それほどでもぉ……。私ほどの実力があれば、これくらいおちゃのこさいさいでござります!」

 初めは恥ずかしそうに頭を掻いてぺこぺこしていたのに、急に態度を百八十度変え、得意げに胸を張る凛。

「情緒不安定かお前は」

 龍三がすかさず突っ込みを入れる。

 そんな二人のやり取りを見て、小雪がくすりと笑う。

 その後も幾つか屋台を見て回り……。

 しばらくすると、桜華がふと足を止めた。

「ねぇ、トイレってどこにあるっけ? 私、ちょっとトイレに行きたい」

「え? トイレなら、確か向こうの方にあった気がするけど」

 龍三が指差した先には、大勢の人でごった返した通りが続いていた。

 しかし、桜華は構わず。

「わかった、私ちょっと行ってくるね! 漏れる~!」

「お、おう」

 桜華はそう言うと、さっそく人混みの中へ向かった。

「私も、桜華殿を一人にするのは少し気が引けるのでついて行ってきます」

「うむ」

 小雪が頷く。

「龍三殿、小雪様をお願いしますね!」

「ああ、わかった」

「それでは、行って参ります」

 凛はそのまま桜華の後を追って駆けていく。

 しかし、しばらく進んだ辺りでこちらへ振り返り、少し離れたところから龍三たちに声を張った。

「お二方は私たちに構わず、祭りを楽しんでてください!」

 そう言い残し、今度こそ桜華と共に人混みの中へ消えていった。

「……行ってしまったのう」

「ああ……」

 龍三は桜華と凛が消えていった方向を眺める。

 騒がしかった二人が急にいなくなったせいだろうか。

 周りの音が、妙に耳についた。

 祭囃子の音。

 屋台から聞こえる店員の呼び声。

 行き交う人々の話し声。

 それまで気にも留めなかった音ばかりが、やけにはっきりと聞こえてくる。

 桜華や凛がいる間は、二人の会話に混ざったり、祭りの賑わいに紛れるようにして自然と話すことができていた。

 けれど、二人きりになった途端、急にお互いのことが気になり始める。

 さっきまでは気にならなかった相手との距離が、今は妙に近く感じられた。

 そのせいか、二人はまた、互いにどう接すればいいのかわからなくなっていた。

「…………」

「…………」

 龍三はず頭を悩ませる。

 せっかく小雪と話せるようになったのに、このままではまた以前と同じように気まずい空気になってしまう。

 何か話さなければ……と思うけれど、そう思うほど、何を話せばいいのかわからなくなる。

 隣にいる小雪を見ることさえ、少し躊躇してしまう。

 小雪も俯いたまま、黙っていた。

 それでも時折、ちらりと龍三の方を見てくる。

 龍三がその視線に気づいて振り向くと、小雪は慌てたように目を逸らした。

「…………」

 再び、二人の間に沈黙が落ちる。

 龍三は困ったように後頭部を搔いた。

 ――本当に情けない。

 自分のへたれ具合に、嫌気が差してくる。

 こんなにも、気になる相手と話すことに勇気がいるなんて思わなかった。

 そこでふと、桜華に言われた言葉が頭をよぎる。


『お見合いじゃないんだから、二人とも緊張しすぎ』


「……………」

 確かに、その通りかもしれない。

 こうして小雪と夏祭りを見て回れる機会だって、次はいつになるか分からない。

 下手したら、もう二度と一緒に祭りへは来れないかもしれないのだ。

 そう考えると、このまま何もせずに終わってしまうことが、急に怖くなった。

 きっと、あとで後悔することになる。

「………」

 ぎゅっと拳を握り締め、龍三は深呼吸した。

 そして――。

 意を決して、小雪の手を取った。

「……っ」

 小雪の肩が、ぴくりと跳ねる。

 握られた手へ目を落とし、それから龍三の顔を見上げた。

「ほ、ほら……人も多いし? 迷子になったら大変だろ?」

 龍三は小雪と目を合わせられず、前を向いたまま取り繕うように言う。

「う、うむ……」

 小雪も恥ずかしそうに頷く。

 握られた手へ、もう一度視線を落とした。

 今、自分は龍三と手を繋いでいる。

 そう意識しただけで、心臓が胸から飛び出してしまいそうだった。

 それに、龍三の言うことも一理ある。

 これだけ人が多ければ、少し離れただけでも互いを見失ってしまうかもしれない。

「じゃあ、行くか……」

「はい……」

 小雪は小さく返事をして、こくりと頷いた。

 どこへ? と聞くことはなかった。

 龍三が静かに歩き出す。

 繋いだ手を軽く引かれ、小雪も素直にその後をついていった。

 人混みの中を進んでいく龍三は、人とぶつかりそうになるたび、小雪の手を引いて自分の方へ寄せる。

「大丈夫か?」

「……うむ」

 そして時折、気にかけるように振り返る。

 小雪は頷くと、龍三はまた前を向いた。

 自然とその背中へ、視線が向いてしまう。

「…………」

 自分の勘違いかもしれない。

 龍三にとっては、ただ人混みではぐれないようにしてくれているだけなのかもしれない。

 それでも、人の波を掻き分けるように先を歩き、時折振り返ってはこちらを気にかけてくれる龍三を見ていると――。

 本当に、自分のことを大切に思ってくれているのではないか。

 そんな気がしてしまう。

 そう思うと、龍三の背中を見つめる時間が、妙に心地よく感じられた。

 しばらく歩くと、屋台の並ぶ通りから少し外れた場所に、木製のベンチが置かれているのが見えた。

「あ……」

 龍三が足を止める。

「ずっと歩いてたから疲れただろ? あそこで少し休もうぜ」

 龍三がベンチを指差し、小雪もその先へ目を向け、

「うむ」

 と頷いた。

 そして、二人は並んでベンチに腰を下ろす。

「ふぅ……」

 龍三は背もたれに身体を預けた。

「それにしても、すげぇ人だな」

「そうじゃのう。妾もこれほど大勢の人に囲まれることはなかった故、恥ずかしながら、人混みに呑まれすぎて少し酔ってしまった」

「え? 大丈夫か?」

 龍三が、すぐさま小雪の顔を覗き込む。

 その声には、からかうような響きは微塵もなかった。

「うん?」

 小雪は目を瞬かせる。

 どうやら、本気で心配してくれているらしい。

 龍三の真剣な眼差しや顔つきを見るだけで、それがひしひしと伝わってくる。

 そのことがわかると、自然と頬が緩んでしまう。

「うむ。そこまで酷いものではない。だから大丈夫じゃ」

「そっか……それならいいんだ」

 龍三はほっとしたように息を吐く。

「あ、でもしんどくなったらちゃんと言えよ? 無理すると身体にも悪いだろうし」

「ふふっありがとう」

 小雪が小さく笑う。

 その笑顔を見て、龍三も照れくさそうに視線を逸らした。

「……当然だろ」

 そして、逸らしていた目を前へ戻した――その瞬間。

「…………」

 龍三の動きが止まった。

 目の前に広がっているのは、先ほどまでと変わらない夏祭りの景色。

 それなのに――なぜか、初めて見る景色ではないような気がした。

 胸の奥を、奇妙な感覚が駆け抜ける。

 祭りの喧騒が、急に遠のいた。

 この感覚には覚えがある。


 ――既視感。


 七月一日の朝から、龍三の身に何度も起きている不思議な現象。

 相変わらず、この感覚には慣れない。

 ただ、こうまで頻繫に起きるようになると、何か意味があるのではないかとつい考えてしまう。

「……」

 そういえば、土鬼と戦っていた時に感じた既視感は、これまでのものとは少し違っていた。

 あの時は、ただ懐かしいと感じただけではない。

 ――何かが来る。

 そんな確信めいた感覚が、突然、龍三を襲ったのだ。

 そして、それは二度あった。

 どちらも背後からの奇襲だった。

 あの感覚がなければ、攻撃に気づくことはなかっただろう。

 もしかすると、自分は今ここにいなかったかもしれない。

 既視感に助けられた……といえば聞こえはいい。

 だが――。

 どうして急に、自分はこんなにもデジャブを覚えるようになったのだろう?

 思えば、その始まりは七月一日。

 小雪と初めて出会った日からだった。

「……」

 龍三はおもむろに隣へ目を向けた。

 純銀を溶かし流したかのような、綺麗な銀色の髪。

 海のように透き通った紺碧の瞳。

 淡い薄桃色の着物。

 小雪は膝の上に小さな白い手を揃え、静かに祭りを眺めている。

 すると、龍三の視線に気づいた小雪がこちらを振り向く。

 目が合った。

「な、なんじゃ? 龍三?」

 不意に見つめられていたことに、小雪の胸がどきりと跳ねる。

 その声で、龍三の意識も現実に引き戻された。

「え!? ああ、いや……悪い。何でもねぇ……」

 龍三は少し気恥ずかしそうに、すぐに視線を逸らした。

「そ、そうか……」

 小雪もどこか落ち着かない様子で前を向き、髪を耳にかける。

「…………」

「…………」

 それから、しばらく沈黙が続いた。

 何か話さなければと思うのに、どちらからも言葉が出てこない。

 やがて、小雪がぽつりと口を開いた。

「……桜華と凛、遅いのう」

「……そう、だな。あいつら本当、何やってんだか」

 龍三はそう答えながら、隣に座る小雪を意識していた。

 それは小雪も同じだった。

 けれど、二人の間に交わされるのは他愛もない話ばかり。

 もちろん、こんなことではいけないと分かっている。

(俺は、小雪と……どうなりたいんだ?)

 ふと、そんな疑問が頭をよぎる。

 友達のような関係性でいたいのか。

 それとも――恋人になりたいのか。

 考えてみても、すぐに答えは出て来ない。

 だが、このまま何もせず、ただ思考を巡らせているだけでは、何も始まらないことも分かっていた。

 龍三は膝の上に置いていた自分の手を見つめ、そして隣にいる小雪の手に視線を向ける。

 少しだけ迷ってから、勇気を振り絞ってもう一度、隣にいる小雪の手をぎゅっと握った。

「……っ」

 小雪の身体が小さく震える。

 一瞬、驚いたように目を見開いた。

 だが、小雪は手を振りほどくようなことはしなかった。

 それどころか――。

 小雪の指が、龍三の指にそっと絡む。

「……っ!?」

 予想していなかった動きに、龍三が驚いて隣を見る。

 小雪も、龍三を見ていた。

「…………」

「…………」

 二人の視線が重なる。

 今度はどちらも、目を逸らさなかった。

 周囲では相変わらず祭囃子が鳴り、屋台からは人々の声が聞こえている。

 それなのに、二人の周りだけは時間が止まったように静まり返っていた。

 龍三は、繋いだ手に少しだけ力を込める。

 小雪がそれに応じるように、手を握り返す。

「小雪……俺は……」

 そこまで言って、龍三は言葉に詰まった。

 その先が、どうしても出てこない。

 小雪は頬を赤らめたまま、じっと龍三を見つめている。

 やがて、どちらからともなく、ほんの数センチだけ互いの顔の距離を近づける。

 ゆっくりと、ゆっくりと。

「龍三……」 

 小雪の吐息がかかる。

 二人の顔が、触れ合いそうなくらい近くなる。

 示し合せるように、互いに目を閉じた。

 そして――。

 龍三と小雪、二人の唇が重なろうとした、その時だった。


「カァーッ!」


「うわっ!」

「きゃっ!」

 突然、一羽の鴉が二人の間へ飛び込んできた。

 二人は同時に身体を跳ねさせ、反射的に離れる。

 繋いだ手も、ぱっと離した。

「か、からす?」

 急な来訪者に龍三が目を丸くする。

 当の鴉は何事もなかったかのように羽ばたき、夕暮れの空へ飛び去っていった。

「…………」

「…………」

 二人とも、しばらく動けなかった。

 つい先ほどの光景を思い出し、龍三は顔を赤くしたまま俯いている。

 小雪も頬を真っ赤に染め、膝の上で両手をぎゅっと握り締めていた。

「あーいたいた! おーい、二人とも~!」

 その時、聞き慣れた声が飛んできた。

 龍三が顔を上げる。

 小雪も声の方へ振り向いた。

 人混みの向こうから、桜華と凛がこちらへ歩いてくる。

「桜華……」

「ごめんごめん遅くなって~!」

 桜華が手を振りながら近づいてくる。

 その隣では、凛が二人の様子をじっと見ていた。

「あ~……もしかして、お取込み中でござりました?」

「ばっ……!? ち、ちげぇよ!?」

 龍三が慌てて否定する。

 その隣では、小雪も顔を真っ赤にしたまま、ぶんぶんと首を縦に振っていた。


 その後、四人は少しばかり屋台を見て回ったあと、帰路についた。

 桜華と凛が前を並んで歩き、祭りで見たものや食べたものについて楽しそうに話している。

 その少し後ろを、龍三と小雪が並んで歩いていた。

 二人も時折、前の二人の会話に加わりながら、他愛もない話しを続けている。


 そんな四人の姿を――。

 一羽の鴉が、遠くからじっと見つめていた。

 やがて鴉は翼を広げ、夕闇の空へと舞い上がる。

 ほとんど日は沈み、祭り会場も次第に夜の色へと染まり始めていた。

 

 その上空を――。


 数えきれないほどの鴉が、円を描くようにして飛び回っていた。

 不気味な群れを見上げる者は、誰もいない。

 祭りの明りに照らされた人々は、そんな異変に気づくことなく、今も続く祭りを楽しんでいる。

 そこから少し離れた場所。

 祭り会場を一望できる雑貨ビルの屋上に、一人の女が立っていた。

 

 白銀に近い銀髪が、夜風を受けてふわりと揺れている。

 右側へ流した髪はサイドテールにまとめられ、その髪の隙間から、海を思わせる澄んだ青い瞳が覗いていた。

 切れ長の目が、静かに眼下を見下ろしている。

 身に纏っているのは、和装と戦装束を組み合わせたような独特の衣装。

 白を基調とした上衣の右側には、袖口へ向かって大きく広がる長い袖が繋がっている。白い布地には、紫を基調とした霞の紋様が描かれていた。

 一方、左腕に袖はない。

 代わりに黒い籠手が装着されている。

 腰には紫色の帯。その上には注連縄が巻かれていた。

 その下を覆うのは、黒に近い濃紺の袴ともスカートともつかない装束だった。こちらにも袖と同じ霞の紋様が施され、右側には大きくスリットが入っている。

 そこから伸びる脚を包んでいるのは、黒いハイヒール。


 女は手にした濃紫の和傘をゆっくりと持ち上げた。

 その先に見えるのは、祭り会場から帰っている途中の四人の姿。

 女の視線が、その中の一人を捉える。

「……見つけた」

 その直後だった。

 一羽の鴉が女の元へと舞い降りる。

 その鴉は普通の鴉ではなかった。

 暗闇の中で、その両目だけが青(・)く(・)光(・)っ(・)て(・)い(・)る(・)。

 そして――。 

『狭霧(さぎり)、月詠様を見つけた。例のあの娘(むすめ)も一緒だ』

 鴉が、人の言葉を発した。

 ただし、その声の主はこの鴉ではない。

 月にいる猿田彦(さるたひこ)が、使役する鴉を通じてテレパシーのように意思を伝えているのだ。

 狭霧と呼ばれた女は、振り返ることなく答える。

「でかした。猿田彦。私もちょうど、この目で月詠様のお姿を捉えたところです」

『…………それにしても、本当にこの街にいるなんてね』

 猿田彦が、眼下の街を見下ろす。

「流石は八意様。まさか春風凛の提出した報告書から、月詠様の居場所まで割り当てるなんて。素晴らしい采配です」

『それで、どうするつもりだい?』

 猿田彦が狭霧へ視線を向ける。

『必要なら手を貸そうか? 手……というより、私の場合は”目”になるが』

「いえ、その必要はありません」

 狭霧は淡々と答える。

「我々は別に、争いにきたのではない。私たちの目的は、月詠様を見つけ出し、保護すること」

 そう言って、狭霧は眼下へ視線を落とす。

 遠ざかっていく小雪の姿を、今一度その目に捉える。

「お前の『先見の眼』を借りずとも、私一人で十分です」

 その瞬間――。

 狭霧の手から、濃紫の和傘がするりと抜け落ちた。

 傘は乾いた音を立てて屋上の床へ転がる。

 同時に、そこに立っていたはずの狭霧の姿も消えていた。

 残された猿田彦が空を見上げる。

「やれやれ」

 その頭上を、白い霧が尾を引きながら飛んでいった。


 祭囃子が、まだ微かに遠くから聞こえている。

 龍三たち四人は祭り会場をあとにし、家へ向かって歩いていた。

 桜華と凛が並んで先を歩き、その少し後ろを龍三と小雪が並んでついていく。

 しばらく歩いたところで、龍三は隣を歩く小雪へ目を向けた。

「……」

 そして、そっと手を伸ばす。

 小雪の小さな手を、龍三の手が包み込んだ。

「……ん?」

 小雪が驚いたように龍三を見る。

 けれど、龍三は気恥ずかしそうに顔を背けた。

 小雪もそんな龍三を見て、何となく察したようだった。

 そして俯きながら、握られた手をそっと握り返す。

 二人はそのまま、何も言わずに歩き続けた。

 前を歩く桜華と凛の話し声が、時折、夜道に響いてくる。

 祭り会場から離れるにつれて、辺りは少しずつ静かになっていった。

 更にしばらく歩いていると――。

「……?」

 不意に、小雪が足を止めた。

「どうした?」

 龍三が振り返る。

 小雪は答えず、前方を見つめていた。

 いつの間にか、白い霧が道の向こうから流れてきている。

 霧はゆっくりと広がりながら、辺り一帯を覆っていった。

「うわ、すげぇ霧だな……」

 龍三も思わず足を止める。

 街灯の明りさえ白く滲み、先程まで見えていた道が霧の向こうへと消えていく。


 そして――。


「桜華殿?」

 霧の向こうから、凛の声が聞こえてきた。

「桜華殿!?」

 次の瞬間、その声が急に切羽詰まったものに変わる。

「どうした?」

 小雪が前方へ呼びかけた。

「小雪様、それが……」

 霧の向こうにいた凛がこちらへ振り返る。

 その顔には、戸惑いが浮かんでいた。

「桜華殿が、急にいなくなってしまって……」

「なんじゃと!?」

 小雪が目を見開く。

 確かに、桜華の姿が見当たらない。

 つい先ほどまで、確かに凛の隣にいたはずなのに。

「桜華!」

 小雪が声を上げる。

「おーい! 桜華!」

「桜華殿ぉ!」

 三人で辺りを見回しながら、何度も名前を呼んだ。

 だが、返事は一向に返ってこない。

「ったく……何やってんだ、あいつは」

 龍三は苛立ちを隠せないまま、ポケットから携帯を取り出した。

 そのまま慣れた手つきで桜華の連絡先を探し、通話ボタンを押す。

 しかし――。

「……え?」

 龍三の指が止まった。

「圏外になってる?」

 画面の隅には、圏外の表示が出ている。

「どうなってんだ……?」

 龍三が携帯の画面を見つめていると、隣で凛が霧の向こうへ目を凝らした。

「さっきまで、桜華殿はすぐ近くにいたんです。だから、私たちの声も聞こえているはずなんです」

 凛の声が僅かに震える。

「小雪様……これ、なんか変ですよ!」

「うむ……」

 小雪も霧の向こうを見つめる。

 霧は晴れるどころか、周囲に留まり続けていた。

 小雪の表情が険しくなる。

「もしかすると、この霧は自然に発生したものではないかもしれぬ」

「え、それって……」

「何者かによって、意(・)図(・)的(・)に(・)作(・)り(・)出(・)さ(・)れ(・)た(・)も(・)の(・)かもしれぬ」

 凛が息を呑む。

 小雪はしばらく霧を見つめていた。

「妾の知る限り、霧を操る妖魔など聞いたことはない」

 そこで、ほんのわずかに間を置く。

「じゃが……ただ一人だけ、『霧を操る霊能力者』ならば心当たりがある……」

 その時だった。


「これはこれは――月詠様」


「!?」

 霧の向こうから、女の声が響いた。

 三人が一斉に振り向く。

「随分と、地上を楽しまれているようで」

 白い霧の向こうに、人影が浮かび上がった。

 それはゆっくりと、こちらへ近づいてくる。

 やがて霧の向こうから姿を現したのは、一人の女だった。

 銀色の髪。

 小雪と同じ、海を思わせる青い瞳。

 そして、その腕に抱かれているのは――。

「……桜華!」

 龍三が声を上げる。

 意識を失った桜華が、女の腕の中でぐったりと身を預けていた。

 まるで眠っているかのように、微動だにしない。

 女はそんな桜華を抱えたまま、静かに三人を見つめている。

「狭霧……」

 小雪が、その名を呟いた。

 龍三は、狭霧の姿をじっと見つめた。

(小雪と同じ青い瞳……)

 その澄んだ瞳に、思わず目を奪われる。

「小雪、この人は……」

 龍三が尋ねる。

 小雪は狭霧を見つめたまま、静かに答えた。

「天之狭霧(あめのさぎり)……境ノ守人(さかいのもりびと)」


 そして、僅かに目を細める。


「妾と同じ、月の民じゃ」



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