第十七話 夏祭りへ向けて
――時は少し遡る。
七月二日。
月の都。
地上では、まだ朝日が昇る前の時間だった。
しかし、月の都には朝も昼もない。
常夜の空が広がるこの世界では、今日もまた暗い夜空に無数の星々が瞬いている。
その遥か彼方には、地上から見上げる月の代わりに、青く輝く地球が浮かんでいた。
その地球を見上げるようにして、月の都の街並みが広がっている。
黒い瓦屋根の建物。
朱色の鳥居。
軒先につるされた赤い提灯。
それらは夜の闇を照らす青白い光に浮かび上がり、まるで現世とは隔絶された異界のような幻想的な景色を形作っていた。
そんな月の都の中心から遠く離れた場所。
深い森と渓谷に囲まれた山中に、一つの古びた神域がある。
そこへ続く石畳の参道にはいくつもの石燈籠が並び、その先には朱色の鳥居が静かに佇んでいた。
人の気配はほとんどない。
聞こえてくるのは木々のざわめきと、遠くから響く水のせせらぎだけ。
その神域の奥。
深い森に包まれるようにして、一つの巨大な岩窟が口を開けている。
――天岩戸。
神話の時代より伝えられてきた、月の都においても特別な場所である。
その奥深くには、月の姫巫女――月詠小雪が長きに渡り暮らしてきた社、天御社がひっそりと佇んでいた。
神聖なその場所は、今日も変わらず静寂に包まれている。
――その一方で。
月の都の中心にある月宮城では、ある異変が起きていた。
「何? 月詠様が天御社にいない?」
小雪の失踪を告げられた八意思兼が、僅かに表情を曇らせる。
月の都は、祭祀と政治が一体となった祭政一致の体制を取っている。
祭祀を司るのは、月の姫巫女である月詠小雪。
そして、政治を司るのが――八意思兼であった。
一見すると、二十代半ばほどの青年にしか見えない。
だが、その実年齢は百を有に超えている。
月の民は、人間よりも遥かに長い時を生きながらも老いることなく、若き姿を保ち続ける種族だった。
黒のメッシュの入った金色の髪を短く整え、左目には黒のモノクルを掛けている。身に纏うのは陰陽師を思わせる装束。その夜の海を映したような青い瞳は、報告に訪れた豊玉姫を静かに見据えていた。
豊玉姫。
月詠小雪の保護者兼監視役を務める、月の民の一人である。
外見は十代後半ほどの少女にも見える。しかし、彼女もまたその見た目からは想像もつかないほど長い年月を生きていた。
身に纏うのは、人魚姫と竜宮城の乙姫を思わせる要素が融合した幻想的な装束。
全体的に藍色で統一した和装を基調としており、濃紺から青紫へと変化する布地には、金糸による幾何学的な紋様が施されている。
上半身は着物を思わせる構造になっているが、肩は大きく露出していて、腰から裾へ向かうにつれて半透明の薄布が重なっており人魚姫のようなデザインになっている。
長くウェーブのかかった藍色の髪は、高い位置で左右二つの輪を描くように結われ、彼女の瞳もまた、澄み切った青色をしていた。
これは全ての月の民が持つ共通の特徴だ。
その瞳には静かな気品が宿り、海を思わせる装いと相まって、月の民らしい優雅さと神秘性を兼ね備えていた。
「はい。侍女たちから報告を受け、私自身も天御社へ赴いて確認いたしましたが、どこにも月詠様のお姿がなく……」
豊玉姫の声には、隠し切れない不安が滲んでいた。
「天岩戸から出た形跡は?」
「それも確認できておりません。ですが……」
豊玉姫はそこで一度言葉を切る。
「依姫の力を借りて、月詠様の霊力の気配を探ってみたところ――」
その表情が、僅かに強張った。
「月の都のどこにも、霊力の反応がありませんでした……」
「…………」
八意はしばし黙り込む。
天御社にもいない。
天岩戸から出た形跡もない。
それどころか、月の都の何処を探しても、月詠小雪の霊力は感じられない。
まるで――。
「神隠しにでも遭ったみたいだ」
八意がぽつりと呟いた。
だが、すぐに思考を切り替える。
月の都と地上の世界は、表裏一体の関係にある。
月の都もまた神域の一つではあるが、地上とは最も波長が近い。
ならば、考えられる場所は限られてくる。
八意はふと、窓の外へ視線を向けた。
常夜の空。
無数の星々が瞬く、その彼方。
ひときわ大きく青い光を放つ星が浮かんでいる。
「…………」
八意の青い瞳が、その星を――地球を捉えた。
「……地上か」
八意は、窓の外に映る地球を見つめたまま、振り返らずに二人の名を呼んだ。
「……天之狭霧。猿田彦」
名を呼ばれると、部屋の隅に控えていた二人の月の民が順に進み出る。
八意は二人を見据えた。
「聞いての通りだ。月詠様が、天岩戸よりお姿を消された。月の都にその痕跡が無い以上、地上におられる可能性が高い。二人には急ぎ地上へ向かい、月詠様の捜索をお願いしたい」
「承知しました」
「お任せください」
二人は揃って答える。
八意は小さく頷くと、今度は室内で跪いている豊玉姫に視線を向けた。
「豊姫」
「はい」
「君は依姫と共に、もう一度月の都を探してくれ。もしかすると、何らかの理由で依姫の術式に引っ掛からなかった可能性もある。念のため、見落としがないか確認してほしい」
「承知いたしました」
豊玉姫は深く頭を下げた。
「依姫と共に、改めて捜索いたします」
その後、天之狭霧と猿田彦、豊玉姫は月宮城を後にした。
皆を見送った八意は、再び窓の外に映る地球へ目を向ける。
「……」
本来なら、地上の退魔庁にも協力を求めたい。
しかし、月詠小雪の存在は最上級の秘事。地上側に知られているのも、ごく一部の人間だけだ。
大々的に捜索を行えば、素秘密が露見する危険性がある。
しかも今は、異世界遠征のため、月の都の主力の部隊の多くが都を離れている。
残された人員の中から、地上へ向かわせることができる者は多くなかった。
「月詠様の失踪。霊道を通った形跡もないなんて。一体、何が起こっているんだ」
一つ一つなら、偶然で片付けられるのかもしれない。
だが、今回の異変はあまりにも不可解な点が多すぎる。
小雪が姿を消したことも。霊道を通った痕跡すら残されていないことも。
まるで、自分達の知らないところで、何か恐ろしいことが起きているのではないか。
そんな考えが、頭から離れなかった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
月の都で小雪の失踪が発覚してから四日後。
七月六日。
夏祭りの初日を迎え、街は普段とは違う賑わいに包まれていた。
明日は七月七日。
夏祭りの二日目だ。
そして、皆既日食が起こる日でもある。
そんな特別な一日を控えた中、龍三は今日も変わらず短縮授業を終えて学校から帰路についていた。
「あっちぃ~」
七月の午後の日射しが、容赦なくアスファルトを照らしている。
結局、昨夜は小雪とぎこちない雰囲気のまま終わってしまった。
どうにも調子が狂う。
何を話せばいいのか。
どんな顔をすればいいのか。
意識すればするほど、普段通りに振る舞うことが難しくなっていた。
凛や桜華がにやにやしてこちらを見ていたのが妙に気になるが。
そんなことを考えながら、龍三は家へと帰ってきた。
玄関の扉を開けた、その瞬間。
「「キャー! 可愛い!!」」
リビングの方から、凛と桜華の声が響き渡った。
「……何だ?」
ただならぬ気配に、龍三は靴を脱ぐのもそこそこに家の中へ入っていく。
声のするリビングに近づくにつれ、何やら楽しげな会話が聞こえてきた。
「小雪様小雪様、今度はこれを着ていただけませんか!?」
「それは……肌の露出が多いではないか! ただでさえ、今着ておるこれも破廉恥な恰好じゃというのに」
「可愛い~! 小雪ちゃん絶対似合うよ!」
「妾は着せ替え人形ではないぞ!」
小雪の困惑した声が響く。
龍三は眉を顰めながら、恐る恐るリビングのドアを開けた。
「ただい――」
そこで、言葉が止まった。
部屋の中央に立っていたのは、小雪だった。
ただし、いつもの巫女装束ではない。
兎耳のついた仮装姿――所謂バニーガールの格好をした小雪がリビングの中央に立っていた。
よく知るバニー服とは少し異なり、小雪の着ているそれにはフリルのミニスカートのようなものが付いている。
その周りでは、凛と桜華が楽しそうに盛り上がっていた。
対して、小雪はというと――。
「……解せぬ」
心底納得のいかない顔で、立ち尽くしていた。
そんな小雪が、ふと顔を上げる。
そして、龍三の姿を捉えた瞬間――ぴたりと動きを止めた。
「…………」
「…………」
小雪と龍三の視線が交わる。
互いに見つめ合ったまま、まるで時が止まったかのように固まってしまう。
みるみる赤くなる小雪の頬。
龍三も、何と言えばいいのか分からない。
「あ、お兄ちゃんおかえりー」
「おかえりなさいませ、龍三殿!」
そんな二人をよそに、凛と桜華だけが何事もなかったかのように声を掛けてきた。
数秒の沈黙の後、先に落ち着きを取り戻した龍三が口を開いた。
「えっと、何やってんだ?」
「ああ、これ? いやぁ、夏祭りに着ていく服を選んでたらさー。いつの間にか着せ替え大会みたいになっちゃって」
「いや、そうはならんだろ」
龍三が即座に突っ込みを入れる。
「凛さん凄いんだよ。マジシャンみたいに色んな服を持っててさ」
「忍びとして、変装用の衣服を用意しておくのは当然です」
「…………半分くらい趣味が混じってるのは気のせいか?」
「気のせいです」
間髪入れずに凛が答える。
「ねねっ、これ可愛いでしょ?」
桜華がスマホを取り出し、画面を龍三へ向ける。
「小雪ちゃん、何でも似合うからさー」
そこには、チャイナ服、シスター服、婦警服、猫耳メイド服、ナース服など――。
小雪が着せ替えられていった記録が、ずらりと並んでいた。
「…………」
その様子を見た小雪の顔から、すっと血の気が引いた。
「……見るな」
「え?」
「見るなぁぁぁぁぁッ!!」
次の瞬間、小雪がクッションを持って龍三へ突進した。
「ぐふぉっ!」
不意を突かれた龍三は、そのまま床に倒れ込む。
小雪は龍三に馬乗りになると、クッションを龍三の顔へ押し当てた。
「見るな! 見るな、見るな、見るなぁぁぁ!」
「小雪、ちょっ――!」
抗議する龍三の声が、クッションに吸い込まれる。
「息が、苦し――」
このままでは窒息してしまう。
顔にクッションを押し付けられて窒息死なんて、笑い話にもならない。
かくなる上は。
「ぐぉおらぁああっ!」
クッションを持っていた小雪の両手首を掴み、龍三が勢いよく上半身を起こす。
「ひゃあっ!」
突然の動きに驚いた小雪が可愛い悲鳴を上げる。
能力は無敵の強さを誇る小雪でも、素の力はか弱い少女と変わらない。
対して龍三は年頃の少年とはいえ男だ。
体格や筋力には、どうしても男女の差がある。
純粋な力勝負では、小雪は龍三に敵わない。
「ぶはっ……!」
ようやくクッションから顔を離し、龍三が大きく息を吸い込む。
「はぁ……はぁ……」
そこで、自分の手が小雪の手首を掴んでいることに遅れて気づく。
「あ……わ、悪い!」
龍三が慌てて手を離す。
「う、うむ……」
解放された小雪は、両手を胸元へ寄せるように抱えた。
頬はまだ赤い。
目の前にある龍三の顔をまともに見ることもできず、視線を落とす。
この時、小雪の心臓はかつてないほどに高鳴っていた。
「……」
龍三との距離があまりにも近い。
そのせいか、小雪は無意識のうちに身体を僅かに後ろへ反らしていた。
反らした身体がバランスを崩し、そのまま後ろへ傾く。
「あっ」
「危な!」
龍三が咄嗟に手を伸ばした。
腰に腕を回し、小雪の身体を抱き寄せるようにして支える。
その結果――。
二人の顔が、さらに近づいた。
「…………」
「…………」
吐息が触れそうなほどの距離。
小雪は目を見開き、龍三もまた、困ったように動けなくなる。
「おー」
「龍三殿ったら、大胆!」
その光景を見ていた凛と桜華がそれぞれ好き勝手に感想を漏らす。
「ち、違っ……!」
龍三が慌てて弁明しようとした、その時だった。
ぽすっ、と顔にクッションが押し付けられた。
「むぐっ!?」
突然のことに、龍三は目を白黒させる。
クッションを押し付けているのは小雪だった。
けれど、先ほどとは明らかに様子が違う。
小雪は龍三から顔を背け、耳まで真っ赤にしている。
クッションを持つ手にも、ほとんど力が入っていない。
「こ、小雪さん?」
「…………」
返事はない。
ただ、暫くして――。
「…………すけべ」
消え入りそうな声が、クッションの向こうから聞こえた。
その後、凛が「忍法・衣替えの術」なるものを使い、あっという間に龍三たちの服装を夏祭りへ出掛けるのに相応しいものへと変えた。
ただ、小雪の分だけは丁度いいサイズが見つからなかったらしい。
仕方なく、一足先に着物に着替えた龍三は外で待つことになった。
その頃、家の中では――。
「まったく、酷い目に遭った」
先ほどの着せ替え騒ぎのことをまだ根に持っているのか、小雪は頬を少し膨らませてプンプンしていた。
「まあまあ、これも思い出でござりますよ」
「……解せぬ」
そんな小雪を宥めながら、凛が手際よく着付けを進めていく。
最後に帯を回し、きゅっと締める。
「小雪様、苦しくありませんか?」
「うむ。苦しゅうない」
小雪は何食わぬ顔で答えた。
やがて着替えを終えた小雪たちが、玄関から出てくる。
「……お待たせしました。ささっ、小雪様」
「う、うむ」
声に振り返った龍三は、思わず言葉を失った。
そこに立っていた小雪は、先程までとはまるで別人だった。
涼しげな薄桃色の着物に身を包み、普段の巫女装束とは違う装いが、どこか新鮮に映る。
龍三はしばらく、その姿に見入ってしまった。
「……ど、どうじゃ?」
小雪が少し不安そうに尋ねる。
「似合っておるか?」
「ああ、すげぇ可愛い」
龍三は素直に頷いた。
「……っ」
小雪の白い頬が、瞬く間に林檎のような赤に染まる。
「そうか……」
視線を泳がせながら、指先でそわそわと前髪を弄り始める。照れたり困ったりしたときに出る、彼女の愛らしい癖だった。小雪ははそのまま、ぷいと龍三から顔を逸らしてしまう。
そんな初心すぎる二人を特等席で眺めていた桜華が、半眼になって呆れたように口を開いた。
「もう、お見合いじゃないんだから、二人とも緊張しすぎ」
「べ、別に緊張なんかしてねーし!」
「……う、うむ」
真っ赤になって否定する二人を尻目に、凛がぱんと景気よく手を叩いた。
「まあまあ、これも一興でござりますよ。よいではないか、よいではないか~」
「まったく……」
桜華が今度は、呆れたように溜め息を吐く。
「それじゃあ、参りましょう!」
そして凛を筆頭に、一行は賑やかに歩き出す。
こうして四人は、夏祭りへ向かって歩き始めた。




