第十六話 恋の病
あの戦いの後、凛はすぐさま退魔庁へ一連の出来事を報告した。
もっとも、その内容がそのまま世に出ることはない。
高架下一帯で発生した大規模な損壊や地盤の陥没、ビルの破壊跡――それらは全て、退魔庁の手によって極秘裏に処理された。
公には「原因不明の地盤沈下」や「ガス爆発の可能性も視野に入れた事故」として発表され、妖魔の存在が明るみに出ることはなかった。
連日のニュースでも、高架下で発生した不可解な事故として報じられたものの、その真相に触れる報道は一つとして存在しない。
また、土鬼の妖術によって石化させられていた被害者たちも、土鬼の消滅と共に無事その呪縛から解放された。
大河も石化が解けた後しばらく意識を失っていたそうだが、幸い後遺症なども見られず、意識を取り戻してからは病院で簡単な検査を受けた後、その日の内に退院したという。
そして――。
今回の一件を退魔庁への報告するにあたり、小雪は凛へ一つだけ願い出ていた。
自分が地上へ降りてきたことは伏せて欲しい、と。
理由を尋ねられた小雪は、少しだけ寂しそうに微笑み、
「妾はこれまで、天御社の中で長い時を過ごしてきた……せっかく得たこの自由を、まだ手放したくないのじゃ。それに……龍三たちと、もう少しだけ思い出を作っておきたい」
そう静かに語った。
その言葉に偽りは感じられなかった。
凛もそれ以上深くは尋ねず、小さく頷く。
「承知しました」
こうして報告書には、小雪に関する記述は一切記されることなく提出され、土鬼との戦いは表向きには誰にも知られることなく幕を閉じた。
けれど、戦いが終わったからといって、全てが元通りになったわけではない。
退魔庁への報告を伏せてもらったおかげで、小雪はしばらくの間、朝日奈家で過ごすこととなった。
しかし、土鬼があの戦いの最中、自身の放つ『異様な霊力の気配』を辿り、自分達を追跡していたことを思い出した小雪は、己の身から漏れ出る霊力を拒絶能力によって遮断し、その反応を完全に断つことにした。
これならば、少なくとも今までのように、霊力を辿られて居場所を知られる心配はない。
その一方で、小雪は自らの存在をこれ以上悟られないためにも、外出を控える必要があった。
本当ならば、せっかく得た自由を満喫したい。もっと外へ出て、見たことのない景色を見て、龍三達と一緒に思い出を作りたい。
だが、その願いを叶えるには、もう少し時間が掛かりそうだ。
土鬼との戦いの余韻が残る中、霊力を遮断したまま、朝日奈家で静かに身を隠す。
それが、今の小雪にできる唯一の選択だった。
それから三日が経ち――。
七月五日。
世間では徐々に日常を取り戻しつつある中で、朝日奈家ではここ数日の間にとある小さな異変が起きていた。
「おはよう、小雪」
朝、廊下で対面した小雪へ、龍三はいつも通り声を掛ける。
「お、おはよう……」
小雪は一瞬だけ龍三と目が合うと、慌てて視線を逸らした。
そして、そのまま龍三の横を足早に通り過ぎ、逃げるようにリビングへ向かう。
「……?」
龍三が首を傾げていると、ちょうど洗面所にいた凛がひょこっと顔を覗かせた。
「あ、おはようございます、龍三殿」
「ああ、おはよう、凛」
軽く挨拶を返した龍三は、再びリビングの方へ視線を向けた。
そこにはもう、小雪の姿はいない。
(…………?)
土鬼との戦いを終えた翌日。
この時は、まだ今までと変わらず話が出来ていた。
だが、一日経ち、二日経ち――気づけば、小雪はどこかよそよそしくなっていた。
家の中ですれ違えば、どこか落ち着かない様子で距離を取られる。
目が合えば慌てて逸らされ、話しかければ小動物のように肩をびくりと震わせる。
以前なら隣に座って他愛もない話しをしていたというのに、今では二人きりになることさえ避けられているように感じた。
思い返してみても、心当たりは一つもない。
むしろ、土鬼との戦いまではお互いに命を預け合い、以前よりも距離は縮まったと思っていた。
だからこそ、この変化が龍三には理解できなかった。
そんな悩みを抱えつつ、今日も今日とて龍三は普段通り学校へ通う。
もっとも、授業の内容など頭に入るはずもない。
休み時間も、昼休みも、気付くと考えるのは小雪のことばかりだった。
(俺、嫌われてんのかな……でもなんでだ? 俺何かしたか?)
答えの出ない問いだけが、頭の中をぐるぐると巡る。
「……う~ん、わからん」
結局、その日は最後まで答えを見つけられなかった。
石化事件の影響で、現在も学校は短縮授業が続いている。
授業を終えた生徒たちは、まだ陽の高い午後二時頃には校門を後にしていた。
龍三も大河と別れた後、重い足取りで帰路につく。
しかし、その足はいつもの帰り道ではなく、自然と近所の公園へと向いていた。
公園の中にある木陰のベンチへ腰を下ろす。
「はぁ……」
思わず大きなため息が漏れる。
背もたれに身体を預け、ぼんやりと青空を見上げる龍三。
夏を目前に控えた空は何処までも蒼く、蝉の鳴き声だけが公園に響いていた。
そんな穏やかな景色とは裏腹に、龍三の胸の内は晴れない。
(俺、何か気に障ることしちまったのかな……)
思い返してみても、やっぱり答えは出ない。
なぜ避けられているのか、理由が全くわからないのだ。
「はぁ……」
今日何度目か分からない溜め息が漏れる。
龍三は両肘を膝に乗せ、ぐったりと項垂れた。
――その時だった。
ふと、右側から何者かの視線を感じる。
「……?」
龍三はゆっくりと顔を上げ、右を向いた。
だが、そこには誰もいない。
「……気のせいか」
自分が神経質になっているだけだろう。
そう思い直し、再び深く首を垂れる。
すると今度は、左側から同じような気配がした。
「……?」
反射的に振り向く。
しかし、やはり誰もいない。
「なんだってんだよ……」
首を傾げながらも、龍三は今日一番の深い溜め息を吐いた。
「はぁぁ……」
「ふふっ。青春してますねぇ」
「!?」
今度は、頭上から聞き覚えのある声が降ってきた。
龍三が弾かれたように顔を上げる。
「ばぁ!」
次の瞬間、逆さまになった凛の顔が、目と鼻の先に現れた。
木の枝に両足を器用に引っかけ、ぶらんと身体をぶら下げている。
手裏剣型の髪留めで一房に結った黒いポニーテールが、重力に従ってさらりと垂れ、にんまりと笑う顔が龍三を覗き込んでいた。
「うわぁぁっ!?」
あまりの近さに龍三は思わずベンチから飛び退いた。
「うわぁっ!」
凛も負けじと龍三の驚きを真似して声を上げる。
「って……凛かよ、ビビらせやがって」
「えへへ。だーいせーいこーう!」
凛は猫のように軽やかに地面へ降り立つと、そのまま龍三に向かって両手で指鉄砲を構えた。
「ばん、ばん♪ 龍三殿、隙だらけでござりますよ?」
指鉄砲を撃つ仕草をしながら、片目をぱちりと閉じてウインクする凛。
さらにその手をちょき、ちょきとピースサインへ変えながら得意げに笑う。
悪戯っぽく笑う凛の姿は、普段とはどこか雰囲気が違っていた。
身に纏っているのは見慣れた忍び装束ではなく、水色のオーバーサイズシャツをラフに羽織り、白いキャミソールに紺色のプリーツスカートという、街にも自然に溶け込むカジュアルな私服姿。首元には相変わらず暑そうなトレードマークの赤いマフラーが巻かれているが、足元は動きやすそうな白いスニーカーを履いている。
忍者らしい面影を残すのは、手裏剣型の髪留めと、その身のこなしくらいだった。
「……そういえば、お前が忍者だってことをすっかり忘れてたわ」
「ヒドイ!?」
「つか、お前なんでここにいるんだよ? 小雪の護衛はどうした?」
「いやぁ、それがですね。実は桜華殿にお使いを頼まれまして」
そう言いながら、凛はどこからともなく取り出した買い物袋をひょいと持ち上げる。
「桜華に?」
「はい。夕飯の材料が足りないそうで。小雪様も、『妾は家で大人しくしておるから心配はいらぬ』と送り出して下さいましたので」
「なるほど…」
龍三は納得したように頷く。
だから服装も忍者の格好じゃないのか。
すると凛が、何かを思いついたようにぱんと両手を叩いた。
「あ、そうだ! せっかくですし、龍三殿も帰るついでにお買い物付き合ってくださいよ!」
「えー……」
龍三は露骨に顔をしかめる。
「うわ嫌そうな顔……」
「買い物に付き合ってって、どうせ荷物持ちだろ?」
「えへへ、バレました?」
凛は悪びれる様子もなく笑うと、龍三の制服の裾を掴んで、ぐいぐいと引っ張った。
「荷物持ち、大募集中です!」
凛の無邪気であどけない行動に、龍三も観念したように溜め息を吐く。
なんというか、歳の近い妹がもう一人増えたような気分だった。
「……はぁ、わかったよ。行けばいいんだろ、行けば?」
「やったー! それじゃあ、さっそく参りましょう!」
「元気なやつだなぁ……」
呆れながらも、龍三は凛の後を追って歩き出した。
公園を出て、二人並んで歩く。
目的の店へ向かう道すがら、凛は他愛もない話しをしながら、いつもと変わらない様子で歩いていた。
龍三も適当に相槌を打ちながら、その隣を歩く。
暫くして――。
凛が何かを思い出したように龍三の顔を見る。
「それにしても、龍三殿」
「ん?」
凛は歩みを止めることなく、何気ない調子で問いかけた。
「どうしてあんなところで、人生に疲れ切ったような顔をしていたんです?」
「誰が人生に疲れ切った顔じゃ!」
龍三が即座に食って掛かる。
凛はきょとんと目を瞬かせた。
「え、違いました?」
「違います」
「えー?」
凛はどこか納得していない様子で首を傾げる。
「私には、何やら思い悩んでいるように見えましたけど」
「……」
「だって、何かを思い出しては『はぁぁ……』って、溜め息をついてたじゃないですか?」
「お前、いつから見てたんだよ?」
「?」
凛は何でもない事のように答える。
「龍三殿が公園に入ってきた辺りからですけど?」
「ほぼ最初からじゃねぇか!?」
龍三が思わず声を張り上げる。
だが、そこでまた大きなため息が漏れた。
「はぁ……」
「あ、ほらまた~」
「うっ……」
凛が呆れたように龍三を見る。
「龍三殿、溜め息ばかり吐いてると、幸せが逃げちゃいますよ?」
「勝手に出ちまうんだから仕方ねぇだろ?」
「…………何か悩み事でしたら、私で良ければ相談に乗りますよ?」
「……」
龍三の足が、ほんの少しだけ緩む。
凛は急かすことなく、隣を歩きながら返事を待った。
しばらくの沈黙の後、龍三は意を決したように口を開いた。
「実は、小雪に避けられてる、気がするんだ……」
「小雪様に?」
凛の眉がぴくりと動く。
「ああ。なんか……最近、話しかけても前よりぎこちなくてさ。家の中ですれ違った時も、妙に距離を取られるっつーか……」
「ほう」
「別に、普通に返事はしてくれるんだ。でも……」
龍三はそこで言葉を止める。
「……なんか、俺を避けてるように見えるっつーか……」
「……ふむふむ」
「俺、何かしたのかなと思ってさ……」
「なるほどなるほどぉ」
凛は何度も頷きながら、妙に楽しそうに龍三の話を聞いている。
「……なんでそんなに楽しそうなんだよお前?」
「え? いやぁ、まさか龍三殿から恋愛相談を受ける日が来るとは思わなかったもので」
「れ、恋愛相談じゃねぇよ!」
龍三が慌てて否定する。
「ただ、小雪に避けられてる理由がわからねぇから聞いてるだけだ!」
「はいはい」
凛はにやにやと笑いながら頷く。
「まあ、そういうことにしておきましょう」
「だから違ぇって!」
「でも、そうでござりますねぇ……」
凛は顎に指を添え、少し考えるような仕草を見せた。
「あ、でしたら、私がそれとなく小雪様に聞いてみましょうか?」
「え?」
「どうして龍三殿を避けてるのか。何か心当たりが無いか、それとなく聞いてみるんです」
「……いいのか?」
「もちろんですとも」
凛はにっこりと笑った。
「女同士であれば、龍三殿には話しにくいことも、案外すんなり話してくれるかもしれませんし」
「なるほど……」
「お任せください。こう見えて私、聞き上手でござりますから!」
「不安だ……」
龍三の呟きに、凛は楽しそうに笑った。
それから龍三は凛の買い物に付き合い、スーパーでの買い物を終えて帰路についていた。
もっとも、買ったものは夕飯の材料が中心だったため、それほど大荷物というわけではない。
時刻は午後四時前。
夏の太陽はまだ高く、住宅街の道路を照らしている。
龍三は買い物袋を片手に提げ、凛と並んで家に向かって歩いていた。
「平和だなー」
「……?」
突然の呟きに、凛が首を傾げる。
「土鬼との戦いが本当に嘘みたいだ……」
「そうでござりますねぇ」
凛も穏やかな街並みを見渡す。
少し前まで、この街が土鬼の脅威に晒されていたとは、とても思えない。
勿論、石化事件が解決したからといって、全てが元通りになったわけじゃない。
事件の影響は、まだ街のあちこちに残っている。
それでも――。
以前に比べれば、ずっと平和になったような気がする。
「でも、龍三殿が石に変えられてしまった時は流石に終わったと思いましたよ」
「は、ははは……」
龍三は引きつった笑みを浮かべる。
あの時のことを思い出したのか、少しだけ気まずそうに顔を背けた。
凛もそんな龍三を見て苦笑する。
そして、ふと何かを思い出したように龍三の手へ視線を向けた。
「あ、そういえば……」
「ん?」
「龍三殿の手から出ていたあの青い焔……あれは一体、何なんでござりますか?」
凛にとって、あの青い焔は決して忘れられるものではなかった。
龍三の石化を解き、自分の身体を拘束していた土鬼の妖術すら焼き尽くし、最後には土鬼自身を焼き払って、その討伐に大きく貢献した。
あの戦いを振り返れば、龍三の焔がなければ、今頃どうなっていたか分からない。
「……」
凛に尋ねられ、龍三は少し考えるように瞬きをする。
そして、何気ない様子で空いている方の手を持ち上げた。
次の瞬間、その掌を覆うように青い焔がふっと灯る。
「っ……!」
凛が思わず足を止めた。
歩みを止めたまま、目の前で揺らめくそれをじっと見据える。
龍三もまた、凛につられるように足を止めた。
「正直、これの正体については俺もよくわかってねぇんだ」
龍三は掌で揺らめく青い焔を見つめながら、そう口にした。
「前に小雪にも聞いてみたんだけどさ。霊能力じゃないって、きっぱり否定された」
「……」
「それどころか、俺からは霊力の気配を微塵も感じない上に、この焔そのものにも霊力が存在しないらしくて、はっきり言って異様って言われちまってさ」
龍三が掌をギュッと握り締める。
すると、掌で揺らめいていた破魔の焔が、空気に溶けるように消滅した。
「確かに、霊能力や霊術の類なら、霊力の気配を感じ取れるはずですが……龍三殿のそれからは、全くその気配がありませんね」
凛が顎に指を添えて腕を組み、考え込むような仕草をする。
「ということは、龍三殿の焔は火属性の霊力によって生じたものではない?」
「火属性?」
聞き慣れない言葉に、龍三が首を傾げる。
「はい。霊力には、それぞれ属性があるんですよ。例えば、火の属性なら、炎を生み出したり、熱を操ったりすることができます」
凛は説明しながらその場で右手の人差し指をすっと立てる。
次の瞬間、その指先に小さな炎が灯った。
「おお……」
突然現れた炎に、龍三が目を丸くする。
凛は得意げに笑いながら、指先の炎をふっと消した。
「他にも、風の属性なら――」
今度は地面に落ちている葉っぱを一枚手に取り、掌に乗せる。
すると、手に乗せた木の葉がゆっくりと回転しながら掌の上で舞った。
「このように、風や空気を操ることが出来ます」
「もしかして、凛が空を自由に飛び回っていたのも?」
「はい。浮世離れとは別に風の流れを操作していたからです」
「すげぇ」
二人はそのまま、並んで歩き始めた。
「属性は全部で火、水、風、地、空……これに陰と陽を合わせた七つが存在します。私たちのいる霊能界では、これを陰陽五大元素と呼んでいるんです」
「陰陽五大元素……」
龍三が呟く。
「でも、龍三殿のその焔は、一見すると火の属性にも見えるのですが……霊力が存在しない以上、どの元素にも当てはまらないんですよねぇ」
「……」
龍三は自分の手を見つめる。
「じゃあ、やっぱり俺のこれって……普通じゃないのか」
「普通……というとあれですが、霊能力者である私から見ても、やっぱり異様な力に思えます」
小雪に続いて凛にまで異様と言われてしまった。
龍三は何とも言えない顔で、もう一度自分の手に視線を落とす。
そこで、ふと以前の小雪との会話を思い出した。
――霊力とは別の理で、現象として成立しておるように見える。
「……そういや」
龍三が自分の手を見つめながらぽつりと呟く。
「前にこれを小雪に見せた時、俺のこの焔を見て、霊力とは別の理で現象として成立しているように見えるって言ってたっけな」
「別の理……?」
凛が、その言葉に反応する。
「ああ。凛は何か知ってるか?」
「そうでござりますねぇ……」
凛はすぐには答えず、少し考え込むように顎に指を添える。
「確証はありませんが、一つだけ、可能性として思い当たるものがあります」
「それって……?」
「『権能』と呼ばれている力です」
「権能?」
「はい。権能というのは、神仏のような高次元の存在が有する力のことです」
凛はそう言うと、先ほど青い焔が灯っていた龍三の手に視線を落とした。
「本来は人間が扱える代物ではないのですが……龍三殿のその焔が、霊力を必要とせずに発現しているところを見ると、もしかしたらと思いまして……」
「……権能か」
「でも、あくまで可能性の話ですからね?」
凛はすぐさま釘をさすように言う。
「生身の人間が、真明解放もせずに権能を行使するなんて……私もそんな事例、聞いたことがありませんし」
「そうなのか?」
「そうでござりますよ。私たち霊能力者でさえ、権能を行使するには神域にいる神仏の力を借り受けるための手順を踏む必要がありますから」
「神域?」
「ええ。この現世には、私達が普段暮らしている世界とは異なる波長を持った世界が、幾重にも重なるように存在しています。そして、その異なる波長で存在する異界の総称を、私達は『神域』と呼んでいるのです」
「???」
龍三が首を傾げる。
凛は少し考えてから、わかりやすい例を口にした。
「例えば、一つのテレビで複数のチャンネルを同時に見ることはできませんよね?」
「ああ」
「それと似たようなもので、同じ場所に複数の世界が重なって存在していても、それぞれの波長が異なるため、普通は一つの世界しか認識できません」
「じゃあ、俺たちがこの世界をこうして見れているのは……」
「この世界の波長を受信しているから……ということになります」
「なるほど……」
龍三は何となく分かったような、分からないような顔をする。
どうやら、今一つ理解しきれていないらしい。
凛はそんな龍三の様子を見て、少しだけ苦笑した。
「龍三殿も『神隠し』という言葉は聞いたことありますよね?」
「ああ。人が突然いなくなって、どこへ行ったのかわからなくなるっていう、あれだろ?」
「はい」
凛は頷く。
「神隠しが起こりやすいとされている場所は、現世と異界の境界が曖昧になっていることが多いんです。普段は異なる波長で重なり合っている世界でも、何らかの原因で波長がズレると、現世にいる人間が異界側へ迷い込んでしまうことがあります」
「それが、神隠しってわけか」
「昔から、突然人がいなくなったり、行方不明になった人が何日も経ってから戻ってきたりすることがありますよね? そういった出来事の中には、異界へ迷い込んでしまったことが原因のものもあると言われています」
「へぇ……」
「逆に、その波長のズレを意図的に操作して、特定の神域に自分の波長を合わせる技術を『チャネリング』といいます」
「チャネリング?」
「はい。超メガメガわかりやすく言いますと、ラジオの周波数を合わせるようなものですね。周波数を合わせなければ、聞きたい放送は聞こえませんよね? それと同じように、自分の波長を特定の神域に合わせることで、その神域を知覚したり、そこに存在する神仏の力を借り受けたりすることができるんです」
「へぇ……なんか、意外だな。神域って聞いた時は、もっとこう……訳の分からないもんだと思ってたけど」
龍三が少しだけ苦笑する。
「ちゃんと、そういう理屈みたいなのがあるんだな」
「ふふん。これも先人の知恵でござります」
凛が何故か誇らしげに胸を張る。
「ただし、今の説明ほど簡単なものでもないんですけどね」
「……え?」
「神域を知覚するだけならともかく、そこに存在する神仏の力を借り受けるとなると、実際にはもっと複雑な手順が必要になります。神域と自分の波長を合わせるだけでは、神仏の力を自由に扱えるわけではありませんから」
「そうなんだ」
「それに、意図的に神域へ波長を合わせる場合、長時間その状態を維持するのも危険なんです」
「なんか、身体に悪い影響でも出るの?」
龍三が眉を顰める。
「はい。現世と神域は、本来なら異なる波長で重なり合っている世界です。そこへ無理に自分の波長を合わせ続けると、精神のほうが持たなくなってしまうんです。人間の精神は、基本的に現世の波長に適応していますから」
「強大な力を一時的に借りれるけど、その分リスクもあるってことか」
「そういうことになりますね。なので、我々退魔師の奥の手である真名開放も、一日にそう何度も使えるわけではないんです」
「……なるほどな」
龍三は何となく納得したように頷く。
正直、全部わかったわけではない。
それでも、凛の話を聞いているうちに、少しずつではあるが理解できた。
どうやら神域というものは、ただ漠然と存在している不思議な世界というわけではないらしい。
そこにはそれなりの仕組みがあり、”波長”という明確な理屈によって、この現世と重なり合っている。
「……神域か」
そこで、龍三がふと思い出したように呟いた。
その言葉を口にした瞬間、龍三の脳裏に土鬼の言葉が蘇る。
土鬼はあの時、確かに『幻想神域』と、そう口にしていた。
「そういえば、土鬼の奴も『幻想神域』って言ってたな」
「言っておりましたね」
凛も頷く。
「『神域』と入っているからには、何らかの異界を指しているのでしょうけど……」
凛は少し考え込むように首を傾げる。
「結局、『幻想神域』が何を意味しているのかまでは、わかりませんね」
――幻想神域。
どんな願いでも叶える世界。それが、小雪の内に眠っていると土鬼は言っていた。
「……」
龍三は暫く黙り込む。
あの時は戦いの最中だったこともあり、深く考える余裕などなかった。
だが、こうして改めて思い返してみると、やはり気になる。
幻想神域とは、一体何なのか。
そして、小雪の中にそんな世界があるなんてどこで聞いたのか。
「…………」
土鬼が何を知っていたのかも、結局わからないままだ。
そんな事を考えるうちに、気づくと龍三はまた自分の手を見つめていた。
もちろん、そこから答えが返ってくるはずもない。
それでも龍三は、まるで問いかけるように呟いた。
「……お前は一体、何なんだ?」
当然、返事はない。
龍三は小さく息を吐くと、その手をゆっくりと握り締めた。
そして、隣を歩く凛と共に家路を歩いて行った。
家に帰ると、いつもとは少し違った日常が待っていた。
普段なら、この時間にいるのは桜華だけだが、今は凛と小雪もいる。
「おかえりー!」
リビングから、桜華の明るい声が飛んでくる。
「ただいまー」
「ただいま帰りました!」
龍三と凛がそれぞれ順番に返事をしながら家の中へ入ると、桜華は早速夕食の支度に取り掛かっていた。
凛は買ってきた食材の入った袋を台所へ運び、一つひとつ冷蔵庫や棚へと片付けていく。
龍三もその手伝いをしながら、何気なくリビングへ目を向けると。
そこには、ソファにちょこんと腰掛け、丸眼鏡をかけて静かに読書をしている小雪の姿があった。
手にしているのは、桜華に薦められた恋愛小説だ。
いつもの巫女服姿とは違う、どこか知的で大人びた雰囲気に、龍三は思わず目を奪われる。
小雪は本に夢中で、龍三達が帰ってきたことにも気づいていないらしい。
――その時。
ふと、小雪が顔を上げた。
「……!」
視線が重なる。
龍三はその場で立ち尽くし、小雪も本をめくる手を止める。
「…………」
「…………」
見つめ合ったまま、どちらも動けない。
ほんの一瞬のはずなのに、二人にとってはその時間が妙に長く感じられた。
時間の経過と共に、小雪の頬がみるみる朱に染まっていく。
その変化に気づいた龍三が、思わず目を瞬かせた。
そして。
「……っ」
とうとう耐えられなくなったのか、小雪は慌てて本を顔の前まで持ち上げた。
その陰へ隠れるように俯く。
けれど、赤く染まった耳までは隠しきれていなかった。
「た、龍三……その……」
本の向こうから、か細い声が漏れる。
そして、本の上から顔の上半分だけ覗かせて。
「お、おかえりなさい……」
まだ赤みの残る顔で、そっと龍三へ視線を向けた。
「……あ」
龍三も、思わず間の抜けた声を漏らしてしまう。
「お、おう。ただいま……」
返事まで、どこかぎこちない。
いつもなら、何気なく交わしている挨拶のはずなのに。
「…………」
「…………」
たった二言のやり取りを終えただけで、会話は途切れた。
互いに次の言葉が見つからず、気まずい静けさだけが二人の間を漂う。
そんな二人の胸の奥で。
どくん。
どくん。
それぞれの心臓が、いつもより少しだけ早く鼓動を刻んでいた。
夕食の間も、龍三は何度か小雪に話しかけようとしたが、小雪は相変わらず目が合いそうになるたび、そっと視線を逸らしてしまう。
まだ避けられているのだろうか。
理由もわからないまま、胸のつかえだけが残る。
一方の小雪は、龍三のことを意識すればするほど、胸が騒ぎ、まともに顔を見ることさえできなくなっていた。
これまで感じたことのない感情に、小雪自身もどう向き合えばいいのか分からず、戸惑っていたのだ。
そんな小雪の心情など知る由もない龍三は、今日もまた避けられてると思い込み、釈然としない気持ちを抱えたまま夜を迎える。
そして、その夜。
龍三が風呂に入っている間のことだった。
凛の元に小雪がやってくる。
お風呂上がりの小雪は、淡い薄桃色の寝巻きに着替えていた。
普段は月の姫巫女として凛とした佇まいを崩さない彼女だが、湯上りの今だけは、その表情にもどこか年相応の柔らかさが滲んでいる。
その傍らでは、凛が夕方取り込んだ服を畳んでいた。
小雪はその場で立ち止まり、しばらく黙ったまま凛の手元を見つめていたが、中々声を掛けることができない。
そんな小雪の様子に気づいた凛が、ふと顔を上げる。
「……小雪様?」
「凛……」
名前を呼ばれた小雪は、一瞬だけ視線を逸らした。
言葉にするのが、少しだけ恥ずかしかった。
しかし、この胸の内にある変化を、自分だけで抱えていることもできない。
小雪は覚悟を決めるように、その場へ正座した。
「凛、少し良いか? 相談したいことがあるのじゃが……」
「はい。なんでござりましょう?」
凛はすぐに手を止めた。
そして、畳んでいた衣服を脇へ寄せ、小雪にならうように正座する。
「それで……どうなされたのでござりますか?」
「……うむ。実はな……」
小雪はそこで口を開きかけるも、言葉を探すようにまた閉じた。
しばらく迷った後、両手を胸元で重ねる。
「最近……身体の様子がおかしいのじゃ」
「身体の様子が?」
「うむ……龍三と目を合わせたり、龍三の気配を近くに感じたりすると、心の臓が高鳴って、どうにも落ち着かなくなるのじゃ」
重ねた手に、キュッと力がこもる。
「…………」
凛が意味ありげに小雪を見ると、その顔はほんのりと赤く染まっていた。
「ここのところ、ずっとじゃ。胸が苦しくて敵わん。これは一体、何なのであろうか?」
小雪は不安そうに、上目遣いで凛を見る。
凛はそんな小雪をしばし見つめると、静かに目を閉じた。
そして、何かを確信したような、妙に落ち着き払った様子で口を開く。
「小雪様。それは……病です」
「病?」
「はい。しかも、ただの病ではござりません」
凛はゆっくりと目を見開く。
「感情を持つ生き物ならば、誰もが一度は罹りうる病にござります」
「じ、じゃが……凛も知っての通り、妾は不変の身ぞ? そんな妾が病になど罹るはずなかろう?」
「ええ、普通の病であれば、罹ることはないでしょう」
「では、これは一体……?」
小雪が不安そうに眉を寄せる。
「小雪様、それはですね…………恋の病にござります」
「恋の……病?」
「はい。ズバリ、小雪様は今――龍三殿に恋をしているのでござります!」
「わ、妾が……? こ、恋???」
小雪は目を見開いたまま、呆然と凛を見つめる。
「はい」
「妾が、龍三に……恋を?」
「そうでござります」
「…………」
小雪は暫く言葉を失った。
恋。
その言葉自体は知っている。
誰かを特別に想い、傍にいたいと願う気持ち。
しかし、それが自分の身に起こるなど、考えたこともなかった。
――それを意識した瞬間。
胸の奥で、心の臓が一層激しく高鳴った。
「っ……!」
小雪は思わず胸元を押さえる。
先ほどまでとは比べものにならないほど、鼓動が早くなっていく。
どくん、どくん、と。
その音はあまりにも大きく、目の前にいる凛にまで聞こえてしまうのではないかと思うほどだった。
それなのに――苦しいはずなのに、不思議と嫌ではない。
「これが……恋……」
小雪は胸元を押さえたまま、呆然と呟く。
これまで、誰かをこのような気持ちで想ったことなどなかった。
誰かの姿を目で追い、声を聞くだけで胸が高鳴る。
近くにいるだけで落ち着かなくなり、少し離れてしまえば寂しくなる。
そんな感情が、まさか自分の中に芽生えるなど――。
「これは、どうしたらよいのじゃ?」
「どうしたら、と申しますと?」
「このままでは、収まりがつかん」
「そう言われましても……」
凛が困ったように眉を下げた。
その時。
「――詳しい話は聞かせてもらいました」
「「え?」」
二人が揃って声のした方へ振り向く。
そこには、腕を組んで仁王立ちする桜華の姿があった。
「お、桜華……いつからそこに?」
「え? 初めから」
「…………」
小雪が目を瞬かせる。
桜華はそんな小雪を気にする様子もなく、得意げに胸を張った。
「ちょうど明日から二日間、河川敷で夏祭りが開催されるみたいだから、みんなで一緒に行こうよ!」
「夏祭り……?」
「そう。そこで小雪ちゃんも、お兄ちゃんと二人きりで色々お話ししちゃいなよ」
「ふ、二人きりで……!?」
小雪の顔が一瞬で真っ赤になる。
「だって、小雪ちゃんはお兄ちゃんのことを考えるだけで胸が苦しくなっちゃうんだよね?」
「う、うむ……」
「だったら、やっぱり本人と直接話すのが一番じゃないかな」
「……龍三と……」
小雪はその名を口にしたところで、言葉を詰まらせた。
「じゃが……」
何かを言いかけた小雪に、凛が穏やかな声で口を挟む。
「いいんじゃないですか?」
「凛……」
小雪が顔を上げる。
凛はそんな小雪に優しく微笑んだ。
「小雪様、ここのところずっと家の中で過ごされていたじゃないですか。せっかくの夏祭りです。たまには気分転換に、外へ出てみるのも悪くないと思いますよ?」
「そうだよ~せっかく月からやってきたんだから、もっと沢山、思い出作ろ!」
「……思い出……」
小雪が、ぽつりと呟く。
――そうだ。
自分は、そう願ったのだ。
いつか、この自由な時間が終わってしまうとしても。その時までに、少しでも多くの思い出を残しておきたいと。
「それに、龍三殿とゆっくりお話しをする、良い機会になるかもしれません」
「……うむ」
小雪はもう一度胸元に手を当てる。
龍三と二人きり。
その状況を思い浮かべただけで、心臓がまた大きく高鳴っていた。
この胸の高鳴りは、まだ収まりそうにない。
小雪が新たな思いに胸を躍らせていた、その頃――。
月の都では、彼女の失踪を巡り、事態は大きく動き始めていた。




