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幻想神域の零能力者(イレギュラー)  作者: 蒼春-Aoharu
第一章 バタフライ・エフェクト/Butterfly Effect
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第十四話 起死回生



「……?」

 不意に、小雪が顔を上げた。

「……音が、止んだ?」

 先程まで土壁の外から絶え間なく聞こえていた轟音が、急に静かになったことに小雪は眉を顰める。

 黄泉塚(よみづか)に閉じ込められている今の小雪には、外の様子を窺う術がない。それでも、壁越しに伝わってくる地鳴りや外の気配から、戦いが続いていることだけは理解できていた。

 だからこそ、その全てが突然途絶えたことに小雪は言いようのない不安を覚えた。

 まるで嵐が過ぎった後のように、あれほど騒がしかった外界が一瞬にして静まり返ったのだ。

 そっと耳を澄ませてみるも、やはり何も聞こえない。

 不気味なほどの静寂だけが辺りを支配していた。

 酷い胸騒ぎと共に、嫌な予感がじわりと心を浸食していく。

「龍三……」

 不安に駆られ、小雪は暗闇の中で思わず龍三の名を呟いた。

「外は今、どうなっておるのじゃ?」

 小雪はこの黄泉塚に閉じ込められてから、ただ助けを待っていたわけではない。

 空気を極限まで圧縮した弾丸を何度も放ち、壁を砕こうとした。

 不可神域による拒絶も試した。

 だが、その試(こころ)みは悉く阻まれた。

 土蜘蛛(つちぐも)達が何重にも絡み合って形成された黄泉塚は、想像以上に分厚い。

 表面を吹き飛ばしても、そこへ周囲の土蜘蛛が雪崩れ込むように集まり、瞬く間に傷口を塞いでしまう。

 仮に普通の土壁であれば、小雪が掌を触れた瞬間、その拒絶の力が壁全体へ伝わり、内側から粉砕できただろう。

 だが、これは違う。

 無数の土蜘蛛が互いに絡み合い、幾重にも積み重なることで形作られた集合体なのだ。

 一体一体が独立した個体であるため、小雪が拒絶によって破壊できるのは掌が触れた周囲の土蜘蛛だけ。

 生じた衝撃も、その場で無数の土蜘蛛へ分散され、外壁まで届くことなく霧散してしまう。

 例えるなら、流れ続ける川に穴を開けようとしているようなものだった。

 押し退けても、次の瞬間には新たな土蜘蛛が流れ込み、その隙間を埋めてしまう。

 まるで終わりのない土の牢獄。

 何度攻撃しても状況は変わらず、時間だけが無常に過ぎていく。

「くっ……!」

 小雪は拳を握り締めた。

 あと少し。

 あと少しで龍三の元へ辿り着けるかもしれないのに、その僅かな距離があまりにも遠い。

 胸の奥を焦燥が焼く。

 龍三は戦い慣れた退魔師とは違う。

 つい昨日まで妖魔の存在すら知らなかった、ただの一般人だ。

 そんな少年が、今はたった一人で土鬼(どき)と戦っている。

 無事でいて欲しい。

 そう思う一方で、胸の奥では別の感情が膨らみ続けていた。

 もし、間に合わなかったら。

 外が静かになったのも、もしかしたら――。

「…………」

 小雪は小さく首を振った。

 弱気な考えを振り払うように。

 龍三はまだ戦っている。きっと大丈夫だ。

 そう自分に言い聞かせた、その時だった。

「……!?」

 突如として足元から重々しい振動が伝わってきた。

 黄泉塚全体が軋む。

 まるで巨大な何かが地中で身じろぎしたような地鳴りだった。

「なっ……!」

 次の瞬間。

 ぐらり、と世界が傾いた。

 小雪の身体が大きく揺れる。

 思わず壁へ手を付き、どうにか体勢を立て直す。

「……!? 何事じゃ!?」

 再び激しい振動が伝わってくる。

 だが、それは先ほどまでの戦闘による揺れとは明らかに違っていた。

 地面が震えているのではない。

 土壁そのものが動いている。

 否――。

 持ち上げられているのだ。

「これは……!」

 小雪の顔色が変わる。

 閉ざされた土の牢獄の外で、一体何が起きているのか。

 外を見ることは叶わないが、確かな事が一つだけあった。

 状況は、更に悪化している。

 不吉な予感が、小雪の胸を締め付けた。


 一方、その頃。

 黄泉塚の外では、巨大な土の腕が地面から生え出ていた。

 それはまるで大樹の幹を思わせるほど太く、黒く濁った土で形成された異形の腕だった。

 五本の指は黄泉塚を丸ごと掴み上げ、その小さな牢獄を玩具のように持ち上げている。

 その真下に立ち、土鬼はそれを静かに見上げていた。

「さて……」

 低い声が漏れる。

 そこには、戦いの熱も高揚もない。

 あるのは獲物を確保した猟師のような冷静さだけだった。

「これを、どう連れ帰ろうか」

 夜風が吹き抜ける。

 その言葉を聞く者は、誰もいない。

 ただ、宙高く掲げられた黄泉塚だけが、不気味な静寂の中でその存在感を見せつけていた。

「…………」

 幻想神域。

 真偽は定かではないが、どんな願いも叶えるという理想郷。

 本当にそんなものが存在するのか甚だ疑問だが、存在する可能性が僅かでもあるのならば、これを手放すわけにはいかない。

 視線の先にあるのは、常夜の巫女を閉じ込めた土の棺桶。

 追い求めてきた宝が、今まさに己の手中へ収まろうとしていた。

 その時。

「――光牙手裏剣(こうがしゅりけん)!」

 凛とした声と共に、十字の光輪が夜空を駆ける。

「……っ!?」

 高速回転しながら飛来したそれは、巨大な土の腕を真っ二つに横断した。

 切断された巨大な腕は、まるで大木が倒れるような轟音を響かせながら地面へ崩れ落ちた。

 支えを失った黄泉塚もまた、土塊ごと地面へ叩きつけられる。

「……忌々しい。おのれ、くノ一……」

 舞い上がる土煙の奥で、土鬼が苛立たし気に呟いた。

 黄泉塚を形作っていた半球状の土壁が崩れ、中から小雪が転がり出る。

「こ、小雪様!?」

 それを目にした凛が、驚きの声を上げた。

「え……えぇっ!? どうして小雪様があの土塊の中に!?」

「凛か……」

 小雪はゆっくりと身を起こす。

「あわわわ、私ったら小雪様になんて粗相を!! わ、私知らなかったんですぅう!! どうか、どうかお慈悲を……!!」

 半泣きになって平伏しかける凛へ、小雪は苦笑しながら首を横に振った。

「よい。結果として助けられたのじゃ。でかした」

「ほ、本当ですか……?」

「うむ。凛も無事で良かった。よくぞ戻ってきてくれたな」

「小雪様……」

 土鬼の妖術によって作られた土偶――荒覇吐鬼(アラハバキ)と交戦していた凛は、突然その巨体が黒い泥となって崩れ落ちたことで異変を察知し、急ぎ駆けつけてきたのだ。

 そして目にしたのが、巨大な土の腕が土塊を運び去ろうとしている異様な光景だった。

(事情はわかりませんが……とりあえず壊しておきましょう)

 その一心で放ったのが、先ほどの手裏剣である。

 結果として、小雪を救い出すことには成功した。

 だが――。

「それよりも、龍三は――」

 小雪が周囲をきょろきょろと見回す。

「……え?」

 そこで、不意に言葉が止まった。

 視線の先、道路の上に大きな土の山が出来上がっている。

 その頂点に鎮座するように、全身を石へ変えられた龍三の姿があった。

「…………」

 小雪の瞳が大きく見開かれる。

 心臓が嫌な音を立て、呼吸が浅くなった。

「龍三!!」

 叫ぶより早く、小雪は駆け出していた。

 足袋しか履いていない足で、ボロボロになった道路の上を力強く蹴る。

 土鬼との戦闘によって抉られた道路は至る所が隆起し、大小様々な瓦礫が散乱していた。

 小雪は緋袴の裾を両手で摘まみ上げ、躓くことも、転ぶことも恐れず、ただ龍三だけを見据えて走った。

(龍三……!)

 しかし、真っ直ぐ龍三目掛けて走っていた小雪の足が、不意に止まった。

 黄泉塚を形成していた土蜘蛛達。

 その残党が、小雪と凛を取り囲み、行く手を阻むように立ち塞がったのだ。

「っ……!」

「小雪様、下がってください!」

 凛が小雪の前へ一歩踏み出した。

 腰に差していた刀の鯉口を静かに切る。

 御神刀(ごしんとう)が夜気を裂いて抜き放たれた。

 月明かりを反射する銀色の刀身――その刃の部分が淡い翡翠色の輝きを帯びる。

 まるで翠玉を溶かして流し込んだかのような神秘的な光が、闇の中で揺らめいた。

 直後、凛の足元から風が巻き起こる。

 吹き荒れる風は刀身へ吸い寄せられるように収束し、翡翠色の刃を何層もの風の膜が包み込む。

 そして凛が御神刀を構え、一切の迷いなく踏み込んだ。

「風遁(ふうとん)・殲剣科戸風(せんけんしなとかぜ)!」

 刹那。

 凛が横一文字に刀を振るう。

 残像を置き去りにする速度で、土蜘蛛の群れの間を駆け抜けた。

 翡翠色の斬閃と共に、圧縮された烈風が一気に解き放たれる。

 それは、もはや風ではない。

 幾千もの刃を内包した暴風だった。

 唸りを上げながら荒れ狂う風刃は、立ちはだかる土蜘蛛の群れを容赦なく飲み込み、一瞬のうちに斬り刻んでいく。

 凛が通り過ぎた後には、風だけが遅れて吹き抜けた。

 首に巻いていた赤いマフラーが靡き、柄頭に吊るされていた風鈴が揺れる。

 舞い上がった土煙が左右へ薙ぎ払われ、龍三の下へ続く一本道が静かに姿を現した。

「小雪様!」

「うむ!」

 その声に、小雪は迷うことなく駆け出した。

 転ぶように土の山を登り、石と化した龍三の元へ辿り着いた小雪はその場で膝をつく。

「龍三……!」

 震える声で呼びかけながら、その身体をぎゅっと抱き締める。

「龍三、龍三……!」

 何度呼びかけても、返事は返って来ない。

 抱き寄せた身体からは、もう人の温もりは失われていた。

 代わりに、石のように冷たい感触だけが小雪の掌に伝わってくる。

「そんな……」

 小雪の喉から掠れた声が漏れる。

 震える手で龍三の頬へ触れた。

 その冷たさが、あまりにも残酷な現実を突きつけてくる。

「……」

 ぽたり。

 頬を伝った涙が、石になった龍三の顔に落ちた。

「妾が、守ると言ったのに……」

 小雪は肩を震わせる。

「すまぬ……龍三……」

 嗚咽を抑えきれず、小雪は変わり果てた姿の龍三を一層強く抱き締めた。

 あとから駆け寄ってきた凛も、その姿を目にして言葉を失う。

「……龍三殿」

 普段は明るい凛の声にも、隠し切れない動揺が滲む。

 そんな二人の様子を見据えながら、土鬼が静かに口を開いた。

「案ずるな。小僧はまだ死んでおらん」

「……なんじゃと?」

 小雪が弾かれたように顔を上げる。

 涙に塗れた瞳が土鬼を射抜いた。

「今際の際ではあるがな。どのみち長くは持たんだろう」

 淡々と告げられたその一言は、希望と絶望を同時に突きつける宣告だった。

 くつくつと土鬼が嗤う。

「そんな……」

 小雪の顔から血の気が引く。

 その傍らで、凛は油断なく御神刀を構えた。

「さて――常夜の巫女よ」

 地を這うような低い声。

 土鬼の視線が、龍三を抱き締めたままの小雪へ向けられる。

「石化した小僧を殺されたくなければ、大人しくしてもらおうか」

「……っ!」

 小雪の身体がぴくりと震えた。

「な、何を言って――」

「聞こえなかったか?」

 土鬼の掌からどす黒い穢れがじわりと滲み出る。

「小僧の生殺与奪(せいさつよだつ)の権利は、我が手中にあり」

「……!」

「俺の気分次第で、小僧をどうとでもできると言っているのだ」

「貴様……!」

 凛が怒気を滲ませる。

 しかし、土鬼は意に介した様子もない。

「さあ、どうする?」

 そう言って、小雪へ問いかける。

 土鬼が瀕死の龍三にとどめを刺さず、敢えて石化した状態で生かしたのは、このためだった。

 全ては、この先の物事を有意義に進めるため。

 人質として利用するための、万が一に備えた保険だった。

「いけません、小雪様!」

 その時、凛の鋭い声が響いた。

「妖魔の言葉に耳を貸してはなりません!」

 小雪を守るように一歩前へ出て、御神刀を構え直す。

(龍三殿を人質に取るということは、それだけ奴も追い詰められているということ。ならば、今が好機……っ!)

 刃を走る翡翠色の光。

 その切っ先を、凛は迷いなく土鬼へ向ける。

 

 ――だが。


 それ以上、その足は踏み込めなかった。

 脳裏に浮かんだのは、石化した龍三の姿。

 土鬼の挑発がはったりではなく、真実だったら。

 もし下手に動けば、もし土鬼を刺激すれば……。

 あの少年は、本当に殺されてしまうかもしれない。

「っ……」

 ほんの一瞬の逡巡。

 しかし、その隙を見逃す程、土鬼は甘くなかった。

「人間というのは、本当に愚かな生き物だ」

 深編笠の奥から、嘲るような声が漏れる。

 

 ――ちりん。

 

 柄頭に吊るされていた風見鈴が澄んだ音を響かせた。

「――っ!?」

 直後、凛の足元の地面がぐにゃりと蠢いた。

 泥のように柔らかく変質した黒い土が生き物のように盛り上がり、瞬く間に凛の両脚へ絡みつく。

 考えることに意識を向けすぎた。

「しまっ――」

 気づいた時には、もう遅かった。

 どろりとした穢土は凛の身体を這い上がり、腰へ、胴へ、両腕へとまとわりついていく。

「くっ……!」

 まるで底なし沼に沈められるような感覚。

 柔らかい泥であるにもかかわらず、その拘束力は鋼鉄の鎖にも劣らない。

「情という枷に囚われ、自ら勝機を手放そうとは」

 身体を捻って逃れようとする凛だったが、穢土は意思を持つかのようにさらに締め付けを強めていく。

「ぐうっ……!」

 強烈な圧迫に、思わず顔を歪める。

 その拍子に、手にしていた御神刀が指先から滑り落ちた。

 甲高い音を立てて、翡翠色の輝きを宿した刀身が地面の上へ転がる。

「凛!」

「あぐっ……!」

「さて、これで全て片付いた。残すはお前だけだ、常夜の巫女よ」

「小雪様……」

 全身を黒い泥に締め上げられながら、凛が苦し気に声を漏らす。

「……っ」

 小雪の身体が震える。

(妾は、どうしたら良いのじゃ?)

 龍三は石化し、今にも命の灯し火が消えようとしている。

 凛もまた、妖術によって身動き一つ取れない。

 もし土鬼の言葉に従えば、二人とも助かるかもしれない。

 だが――。

 もし、それが嘘だったら?

 どうすれば……。

「…………」

 答えが出ない。

 龍三を見捨てることもできない。

 凛を見殺しにすることもできない。

 けれど、土鬼に従うことも怖い。

「妾は……」

 唇が震える。

「妾は…………」

 小雪が顔を俯ける。

 ぽろりと、大粒の涙が頬を伝った。

(何も、決められぬ……)

 自分の情けなさに嫌気が差す。

 どちらも選べない。

 誰かを守ると口にしておきながら、いざという時には何一つ決断できない自分が、本当に嫌になる。

「…………っ」

「小雪様……」

 凛が静かに呼びかける。

「それで、いいんでござります」

「……!」

「小雪様は何も悪くありません。悪いのは――」

 凛の視線が土鬼へ向く。

「悪いのは全部、この妖魔なんですから」

「ごちゃごちゃと五月蠅いぞくノ一」

 土鬼が不快そうに鼻を鳴らす。

 握るように手へ力を込めると、それに呼応して穢れた土がさらに凛の身体を締め上げた。

「ぐああ……!」

「……凛っ!? やめよ!」

「……ふんっ。もうよい」

 土鬼が深く溜め息を吐く。

 空を仰げば、東の空は僅かに白み始めていた。

 長かった夜は、終わろうとしている。

 夜明けが近い。

「これ以上、貴様の決断を待っている暇はない」

 土鬼が静かに告げる。

 深編笠の奥から注がれる視線は、獲物を見据える獣のように冷え切っていた。

「そんなに小僧が大事なら、貴様等共々連れて行くまでだ」

「……っ!?」

 土鬼がゆっくりと片腕を掲げる。

 その瞬間、石化した龍三と小雪を囲むように、道路が鈍い地鳴りを響かせながら盛り上がる。

 黒く濁った土は生き物のように蠢き、瞬く間に巨大な土壁へと姿を変えていく。

「なっ……!」

 小雪は咄嗟に周囲を見回した。

 左右前後。

 逃げ道という逃げ道が、みるみる黒い土壁によって塞がれていく。

 まるで巨大な棺が閉じられていくようだった。

 重苦しい圧迫感が空気を満たす。

 逃れる術は、もうどこにもない。

「…………っ」

 小雪は小さく息を呑み、静かに視線を落とした。

 そこには、全身を石に変えられた龍三の姿がある。

「龍三……!」

 小雪はゆっくりと瞼を閉じた。

 そして、迫り来る土壁から庇うように、石となった龍三の身体をぎゅっと抱き締める。

 冷たい。まるで長い年月、雨風に晒され続けた岩のように。

 どれだけ嘆いても、今さら悔やんでも、時間は戻らない。

 ならば、せめて最後の瞬間だけは――。

 龍三を、独りにはしない。

「小雪様ーっ!」

 身体を拘束されたままの凛が、悲鳴にも似た声で叫んだ。


 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 意識が、ゆっくりと沈んでいく。

 水面から差し込んでいた微かな光は次第に遠ざかり、代わりに暗く、冷たい底なしの闇が龍三を深淵へと引きずり込んでいく。

 まるで全身に鉛でも括りつけられたかのように、身体は何処までも沈み続ける。

「……」

 龍三は、この感覚を知っている。

 そう。 

 あれは、龍三がまだ幼い頃。

 川で溺れ、生死の境を彷徨ったあの日。

 意識を失った先で垣間見た、光も音も届かぬ静寂の世界。

 あの時と同じように、龍三の意識は抗うこともできぬまま、深い眠りへ身を委ねるように沈んでいく。 

 その時だった。

 途切れ行く意識の中で、不意に、見覚えのない情景が浮かび上がった。

 知らないはずなのに。

 どこか懐かしい。

 ――それは、今と同じ夜だった。

 ……。

 …………。

 夏祭りだろうか。

 暗闇を照らす赤い提灯の下で、屋台の間を楽しそうに行き交う人々の姿が見える。

 まるで夢ように曖昧な景色の中、自分は誰かと並んで古びた木のベンチへ腰かけていた。

 視線を横へ向ける。

 そこには、一人の少女が座っていた。

 純銀を溶かし流したかのような綺麗な銀色の髪。

 海のように透き通った紺碧の瞳。

 淡い薄桃色の着物。

 小さく揃えられた白い手が、行儀よく膝の上へ置かれている。

 少女は静かに祭りの風景を眺めていた。

 やがて、ふとこちらに振り向く。

 目が合うと、恥ずかしそうに視線を背け、落ち着かない様子で髪を耳にかける仕草をしていた。

 その瞬間、胸の奥がどうしようもなく熱くなった。


 沈み続ける意識の奥底で、不意に波紋が広がる。

 静まり返っていた闇へ、一筋の声が落ちた。

『龍三……』

「……?」

 優しい声だった。

『龍三……』

 けれどそれは、今にも泣き出しそうなほど切実で。

『龍三!』

 その声は、何度も何度も龍三の名を呼び続ける。

 死へ沈みゆく意識を、必死に繋ぎ止めようとするように。

 その声の主を、龍三は知っている。

「小雪……」

 そこで、沈みかけていた意識が僅かに揺らいだ。

『龍三! 死んではならん! 死んでは嫌じゃ!』

 今度は、大粒の涙を零しながら、必死に自分の名を呼ぶ小雪の姿が浮び上がる。

 またしても、知らない光景だ。

 自分は一体、何を見ているのだろう?

 何を、思(・)い(・)出(・)し(・)て(・)い(・)る(・)のだろう?


 これは――

「これは、俺の記憶か……?」

 その時。

 奈落の底で、鈍く揺らめく青い光を龍三は見た。

「あれは……」

 青い輝き。

 それは、この漆黒の世界を照らす太陽のように眩しかった。

 自然と、龍三はその光へ手を伸ばしていた。

 距離もわからない世界で、それでも青い光を掴み取ろうと必死に腕を伸ばす。

 それに呼応するように――。

 突然、青い焔が脈打った。

 まるで長い眠りから覚めた心臓が、再び鼓動を刻み始めたかのように。

 

 次の瞬間。

 

 蒼炎が、龍の咆哮のように天を目指して駆け上がる。

 闇を、静寂を、死を、全て焼き尽くすかのように。

 そして――。

 その奔流は、龍三を飲み込んだ。


 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 二人へ、黒い壁が迫る。

 四方から押し寄せる穢れた土は、濁流と化した津波のように地を這い、あらゆる逃げ道を容赦なく飲み込んでいく。

「龍三……」

 小雪は静かに瞼を閉じる。

 細い腕で、石と化した龍三の身体を胸へと強く抱き寄せた。

 冷たくて、硬い。

 命の温もりを失った感触だけが指先を通じて伝わってくる。

 それでも、小雪は腕を緩めなかった。

「……すまぬ」

 掠れた声が、龍三の肩へ零れ落ちる。

 そして――。

 穢れた大地が津波の如くうねり、全てを飲み込まんと押し寄せる。 

 黒き濁流が二人へ覆い被さろうとした、その瞬間だった。

 石と化していた龍三の手に、ぽつり、と一輪の蒼い焔が灯る。

 次の刹那。


 轟――ッ!!


 天地を震わせる轟音と共に、龍三の全身を包み込むようにして青い焔が燃え上がった。

 その余波は二人を飲み込もうとしていた土壁をも巻き込み、凛の身体を拘束していた穢土までも焼き祓っていく。

「なっ……!?」

 龍三を覆う石肌の上を、蒼炎が舐めるように燃え広がる。

 まるで身体を蝕む石化の呪いを解いていくように、灰色に染まっていた石肌が、焔が触れたところから少しずつ本来の色を取り戻していく。

「これは、一体?」

 目の前で起きている光景を、小雪はただ茫然と見つめることしかできなかった。

 その時。

 不意に優しく頭を抱き寄せられ、小雪は息を呑んだ。

「……っ」

「悪い。心配かけた」

「……!」

 耳元で聞こえた声に、小雪の瞳が大きく揺れる。

「小雪が俺を呼ぶ声、ちゃんと聞こえたよ」

「龍……三……?」

 恐る恐る見上げた先には、青い焔をその身に纏った龍三が立っていた。

 破魔の焔はなお龍三の全身を巡り、身体に残る灰色の石肌を一片ずつ焼き払っている。

「……馬鹿者」

 震える声が漏れる。

「馬鹿者ぉ……!」

 堪えていたものが決壊したように涙が溢れた。

 小雪は龍三の胸へ勢いよく飛び込む。

 龍三は困ったように苦笑しながらも、その小さな身体を優しく抱き締め返した。

「妾が……どれほど心配したと思っておる……」

「ごめん」

「本当に、無事で良かった……」


「馬鹿な……あり得ぬ!?」

 その光景を間近で見た土鬼が震えた声で呟いた。

 深編笠の奥から覗く双眸には、もはや隠し切れない動揺が宿っていた。

(石化が……解かれただと?)

 あり得ない。

 堕羅尼魔羅(だらにまーら)――。

 それは、土鬼が操る妖術の中でも、ひときわ強大な力を誇る呪法である。

 その効力は大妖怪ですら抗うことは叶わない。

 一度その身を石へ変えられれば、もはや自力で解呪する術はない。

 術を解く方法は二つ。

 術者である土鬼を祓うか、あるいは土鬼自らが術を解くか。

 それ以外に、この石化から逃れる術は存在しない――はずだった。


「龍三殿!」

 拘束から解放された凛が駆け寄ってくる。

「凛……」

「心配しましたよ。ご無事で良かったです。本当に……」

「すまねぇ」

「それにしても。一体、何をなさったのでござりますか?」

「え?」

 龍三は頭を搔きながら苦笑する。

「いや……実は俺も、よくわかってないっつーか、なんつーか」


「おのれ……」

 土鬼が低く唸る。

 焦燥と憤怒が入り混じった声が響く。

 周囲を満たしていた穢れの大半は、先ほど龍三から噴き上がった破魔の焔によって焼き祓われている。

 夜明けも目前。

 土鬼は、己の肉体が刻一刻と限界へ近づいていることを理解していた。

 仮にこの場を退いたとしても、その命が長くは保たないことも。

 加えて、石化していた龍三が解放されたことで人質という切り札も失った。

 これで、あのくノ一も手を緩める理由がなくなった。

 護るべき者を気にかける必要がなくなった以上、全力で追撃してくるだろう。

 あれを相手に逃走戦を演じるなど、夜明けが迫るこの状況ではあまりに分が悪い。

「……致し方なし」

 土鬼は静かに懐へ手を差し入れた。

 取り出したのは、鈍く赤黒い光を放つ拳大の結晶。 

 それは己の黒結晶より分けた、もう一つの核だった。

「我が宿願のためならば、この力も惜しむまい」

 その核を握り潰さんばかりに力を込める。

 刹那。

 結晶から濃密な穢れが噴き出し、土鬼の全身へと絡みついた。


「――穢土練成(えどれんせい)・黄泉土狼(よもつおおかみ)!」


 大気を震わせる轟音と共に、どす黒い穢土が渦を巻き、土鬼の全身を覆い隠していく。

 穢れた土は鎧のように何重にも重なり、獣の骨格を形作り始めていた。

 

 その様子を見据えながら、龍三は静かに口を開く。

「凛、頼みがある」

「……?」

「どうにかしてあいつの所まで行きたい。突破口を作ってくれないか?」

「突破口……でござりますか?」

「ああ」

 龍三は右手に揺れる破魔の焔へ視線を落とす。

「土鬼は、この焔に触れられることを恐れてる」

 石化を解き、土鬼の妖術を悉く焼き祓ってみせた青い焔。

 実際、龍三が焔を宿した手で触れようとした時、土鬼はあらゆる手段を講じて距離を取り、これとの接触を避けていた。

「だから、こいつで触れさえすれば……土鬼を祓えるはずなんだ」

 凛は一瞬だけ目を見開き、すぐに力強く頷いた。

「承知しました。お任せください。突破口は、必ず私が切り開きます!」


 穢土の奔流が爆ぜる。

 地面を踏み砕く轟音と共に、巨大な前脚が大地へ叩きつけられた。

 砕けたアスファルトが宙を舞う。

 脚から順に、瘴気を纏う巨躯がゆっくりと姿を現していく。

 やがて穢れが晴れ、その中心に立っていたのは、一頭の巨大な狼。

 否――狼の形を借りた穢れ、そのものだった。

 牙の隙間から漏れ出す瘴気が大地を侵し、低く唸るたびに空気そのものが震える。

「小僧……蘇ったことを、後悔するがいい!!」

 朝焼けが、ゆっくりと夜を侵し始めていた。

 残された時間は、もう少ない。

 土鬼も最後の抵抗を見せる。

 黄泉土狼が天を仰いだ。

「――――――――――――――――――ッ!!!!」

 天地を揺るがす遠吠えが轟く。

 空気が震える。

 次の瞬間、龍三達の足元の地面が激しく脈動し、アスファルトの残骸を巻き込みながら天へ噴き上がった。

 凄まじい地嵐(じあらし)が土鬼を中心に荒れ狂う。

 そのまま周囲一帯を飲み込み、龍三と凛の身体を容赦なく空へ吹き飛ばす。

 大量の土が螺旋を描きながら宙を舞い、そのうねりによって猛烈な突風を生み出した。

「龍三!」

 小雪の悲鳴が地上から響く。

「ぐっ!」

 景色が激しく反転し、地面と夜空が目まぐるしく入れ替わる。

 それでも、龍三の視線だけは一瞬たりとも土鬼を見失わなかった。

「凛!」

 轟轟と吹き荒れる風の中、龍三が叫ぶ。

「頼む!」

 凛は一瞬だけ龍三を見た。

 こんな状況だというのに、龍三の声には迷いがない。

 それを信じて、凛も強く頷いた。

「承知!」

 龍三は続けて、眼下の小雪へ声を張る。

「小雪! さっきみたいに俺を飛ばしてくれ! 今度は、土鬼のところまで!」

「……っ!」

 小雪はすぐに意図を悟った。

 空気の塊を拒絶し、その反動で落下する龍三の軌道を変える。

 以前、龍三を助けた時に放ったそれを、今度は攻撃へ転用するのだ。

「うむ!」

 小雪は力強く頷いた。

「任された!」


 一方、空では。

 地平線の彼方から、朝日がゆっくりと昇り始めていた。

 夜の闇を押し退けるように、淡い光が空の端を染めていく。

 その曙光(しょこう)を背に、凛は空中で静かに印を結んだ。


「――真名(しんめい)を解放する!」


 凛とした声が、夜明け前の空へ澄み渡る。

「オン マリシエイ ソワカ」

 真言が紡がれた刹那、陽炎がその身を包み始めた。

「隠形(おんぎょう)・無相神威(むそうかむい)――」

 輪郭が揺らぎ、その肉体は蜃気楼のように霞み始める。

「南無(なむ)日輪(にちりん)摩利支天(まりしてん)!!」

 その瞬間。

 神域より降りた摩利支天の加護が、凛の霊能力を極限まで昇華させる。

 凛が有する霊能力「浮世離れ」は本来、浮力を自在に操る力。

 だが真名開放によって、その力は本来の枠組みを超越する。

 ありとあらゆる干渉から、その存在を遊離させる。

 あらゆる物事から”浮く”という概念そのものへ。

 もはやこの瞬間の凛は、この世のいかなる干渉にも縛られない。

 この世界の理から半歩外れた存在となっていた。

 陽炎を纏った凛が右腕を大きく振りかぶる。


「春風流忍術、奥義――」


 その掌へ、眩い光が収束する。

 太陽を思わせる輝きは瞬く間に膨れ上がり、一枚、また一枚と光の刃を重ねていく。

 やがてそれは、人の背丈をも超える巨大な十字の光輪を形作った。

 凛がそれを頭上に掲げると、光の手裏剣は静かに回転を始める。

 その輝きは夜明けの陽光を凝縮したかのように眩しく、眺める者の目を灼(や)いた。

 それを見た土鬼が、咆哮を上げる。


「――堕羅尼(だらに)魔羅(まーら)・千呪手岩(せんじゅしゅがん)!」


 次の瞬間、その巨躯を覆う穢土から、周囲の足元の地面から――。

 その数、千にも及ぶ漆黒の腕が湯水の如く溢れ出し、一気に夜空を埋め尽くした。

 束になった千の呪腕が、凛へ向かって殺到する。

 だが、それよりも早く――。


「――究星(きゅうせい)十字手裏剣(じゅうじしゅりけん)!!」


 凛が腕を振り抜いた。

 放たれた光輪が、朝焼けを切り裂きながら一直線に土鬼へと飛翔する。

 更に、十字の光輪は千の腕をすり抜けるようにして、その勢いを一切失うことなく土鬼へ迫った。

「……ナニ?」

 呪腕の群れは、確かにそれを捉えていた。

 それなのに、光輪は陽炎の如く、その身を掴ませない。

 目の前にあるはずなのに、そこには存在していないかのように。

 無数の腕は、ただ虚しくその中を通り過ぎていき――。

「……っ!!」 

 やがて、巨大な手裏剣は、黄泉土狼の胸部へ深々と突き刺さった。

 手裏剣が貫いたのは、土鬼自身の黒結晶ではない。

 土鬼が己の黒結晶から分けた、もう一つの核。

 穢土練成は本来、土に穢れを染み込ませて操る妖術だ。

 しかしこれは、結晶そのものが濃密な穢れを帯びており、周囲の土や瓦礫を巻き込んで穢土に変えてしまう。

 故に、穢れが周りに無くても穢土を作ることができた。

 穢れのない場所から荒覇吐鬼を作り出せたのも、龍三の破魔の焔によって周囲の穢れを焼き祓われながら、黄泉土狼を維持できたのも、全てはこの核があったからに他ならない。

 その力の源である核が今、甲高い破砕音と共に真っ二つに砕け散る。

「……っ……」

 動力源を失った黄泉土狼は、その巨躯を維持できない。

 全身を覆っていた穢土は形を保てなくなり、鎧が剝がれ落ちるように崩れ始める。

 巨狼の輪郭は瞬く間に失われ、その中心から土鬼本体の姿が露わになった。

 それを見た瞬間、龍三が叫ぶ。

「小雪!」

「――うむ!」

 言葉は、それだけで十分だった。

 小雪は両掌を前へ突き出す。

 周囲の空気が唸りを上げながら一点へ収束し、圧縮された空気の塊が生み出される。

 それを、落下する龍三に向かって放った。

 放たれた空気の塊は一直線に龍三の背中へ命中し――。

 凄まじい衝撃が龍三の身体を前へと押し出した。

 風を切り裂き、その軌道が一気に土鬼へ向く。

「――っ!?」

 変身を解かれたばかりの土鬼は、体勢を立て直す暇すらない。

 土鬼の眼前へ、龍三が迫る。

 龍三は破魔の焔を拳へ纏い、右腕を大きく振りかぶった。

(負けるのか、俺が?)

 拳を包む破魔の焔が轟轟と燃え盛り、朝焼けすら蒼く染め上げる。

(退魔師でもない、ただの人の子に?)

 龍三は拳を握り締める。

「土に還るのは――お前だ、土鬼!」

 渾身の一撃が、土鬼の顔面を真正面から捉えた。

 鈍い衝突音が響く。

 土鬼の身体は大きく仰け反り、蒼炎に焼かれながら弾丸のように吹き飛んだ。

「が、ぁぁ……っ!」

 破魔の焔が、全身を駆け巡る。

「熱い……! 熱いィィィッ!!」

 穢れを焼き尽くす業火は、妖魔である土鬼の存在そのものを灼いていく。

「……はぁ……はぁ……」

 龍三は荒く息を吐きながら、その光景をしばらく見つめていた。

 やがて、龍三の膝からふっと力が抜ける。

 全身を支えていた緊張の糸が、ぷつりと切れたのだ。

「……っ」

 そのまま前のめりに倒れ込む。

「龍三!」

 それを見た小雪が慌てて駆け出す。

 当然だ。もうとっくに龍三の身体は限界を超えている。

 一方、空では。

 真名解放によって霊力の大半を使い果たした凛が、赤いマフラーを大きく広げ、浮力を操ってゆっくりと降下していた。

 もう凛も、追撃に使える力は残っていない。

 あとは龍三の無事を確かめるだけだった。

「っ……!」

 焦るあまり、小雪の足が瓦礫へ引っかかる。

「きゃっ……!」

 咄嗟に踏み留まり、視線を落とした。

 そこに転がっていたのは、一振りの刀。

 柄頭に風鈴が付いているのを見て、小雪はすぐに誰のものか悟る。

「これは……凛の御神刀」

 先ほど凛が手放してしまったものだった。

 小雪はそれを拾い上げ、小さく呟く。

「あとで、凛に返してやらねばな」

 そして再び龍三へ顔を向ける。

「――っ!」

 その瞬間、小雪は息を呑んだ。

 目の前に広がる光景を見て、一気に緊張が張り詰める。

「龍三!!」

「……?」

 倒れ伏したまま、龍三がゆっくりと顔を動かす。

 その視界に映ったのは――。

 青い焔に包まれた、一本の足。

「……!?」

 視線を辿ると、その先にはなおも蒼炎に焼かれながら立ち続ける土鬼の姿があった。

 その身体は、皮膚が焼け、黒く炭化し、ぼろぼろと崩れ落ちている。

 それでも。

 一歩。

 また一歩。

 執念だけで龍三へ歩み寄ってくる。

「まだ……終わってねぇのかよ」

 龍三が呆れたように呟く。

「……しぶとすぎんぞ、お前」

 土鬼もまた、限界だった。

 破魔の焔は今なおその身を焼き続け、身体は崩壊を止められない。

 もはや、立っていることさえ奇跡に近い。

 焼け爛れた肉は灰となって剥がれ落ち、その足跡には黒い塵だけが残っていく。

 それでも土鬼は歩みを止めなかった。

「……ただ、では……死なぬ」

 深編笠の奥から、掠れた声が漏れる。

「死なば……諸共だ」

 ゆっくりと、焔に燃える腕が龍三へ伸びる。

「いかん、龍三!」

 小雪は駆け出そうとした。しかし、遠い。この距離では間に合わない。

 それは空から降下してくる凛も同じだ。真名解放によって霊力を使い果たした今、間に合わせるだけの余力が凛にもなかった。

「くっ!」

 どうすればいい。

 どうすれば、龍三を守れる。

 焦燥に震える瞳が、土鬼の姿を捉える。

「……?」

 その時だった。

 龍三へ歩み寄る土鬼の姿を見て、小雪はある違和感を覚えた。

 肉体が焼け落ちているのに、身体が再生していない。

(身体の再生が止まっておる)

 その原因は、一つしか考えられなかった。

(龍三の焔に焼かれておるからか?)

 これまでなら、いくら傷つこうと瞬く間に修復されていた。

 だが今は違う。

 あの焔が、土鬼の身体の再生を封じているのだ。

 小雪の視線が自らの手元へ落ちる。

 握られていたのは、先ほど拾い上げた凛の御神刀。

「これなら――」


 土鬼の腕が迫る。

 青い焔に包まれた指先が、あと僅かで龍三へ届きそうになる。

 その瞬間。

「――土鬼!!」

 小雪の声が夜明けの街に響き渡った。

「……?」

 名を呼ばれ、土鬼が声のする方へゆっくりと振り向く。

 刹那、銀閃が走った。

 小雪の投じた御神刀が、一筋の光となって飛翔する。

 それは土鬼の左胸へと、深々と突き刺さった。

 衝撃に土鬼の身体が大きく仰け反る。

「……ナ、ニ……?」

 一瞬遅れて視線を落とした土鬼は、己の胸を貫く一振りの刀を目にした。その柄頭に、見覚えのある風鈴がぶら下がっている。


 ――ちりん。


 風も吹いていないのに、凛の風見鈴が澄んだ音を一度だけ響かせる。

「これは、あの……くノ一の……刀……」

 土鬼が正面を見据える。その瞳が、両の掌を前に突き出している小雪の姿を捉えた。

 そこでようやく土鬼は、彼女が拒絶能力で御神刀を弾き飛ばしたのだと理解する。

「……ッ!」

 刃は、黒結晶を正確に貫いていた。

 ぴしり、と小さな亀裂が走る。それを皮切りに、無数のひび割れが蜘蛛の巣のように広がっていく。

 次の瞬間、黒結晶は音を立てて砕け散った。

「……おのれ、常夜の巫女ォ……」

 膝が地を打つ。

 核を失った身体は、破魔の焔に包まれながら、今度こそ静かに崩壊を始めた。

 それはまるで、砂山が風に削られていくように、ボロボロと。

 灰と土が風に舞い、夜明け前の空へと溶けていく。

 やがて、その身体は塵となって崩れ落ち、長き時を生きた妖魔は、昇り始めた朝日の中で静かに消滅した。




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