第十二話 破魔の焔
穢土練成の詠唱と共に、血を吸った大地が鼓動する心臓のように震えた。
赤黒い血がアスファルトを這うように広がる。
鼻腔を刺す鉄錆の匂い。
湿り気を帯びた土の臭気。
そして全身に纏わりつくような、濃密な穢れの気配。
地面そのものが、まるで意志を持つ生物のように蠢いていた。
それは、いつでも術を発動できる状態に入ったということだ。
「……っ!」
凛の表情が険しくなる。
直後、凛は素早く印を結び、両腕を大きく広げた。
「風遁・風陣結界!」
轟ッ――!!
爆発的な風圧が四方へ解き放たれる。
たちまち凛を中心に烈風が渦を巻き、高架下の空間を激しくかき乱した。
巻き上がった砂塵や瓦礫は螺旋を描きながら舞い上がり、唸りを上げる暴風が円環状に収束していく。
やがて巨大な風の半球が出現し、凛と土鬼をその内側へ閉じ込めた。
透明に近い暴風の障壁。
幾重にも重なった風の層が高速で巡り、外界との接触を拒むように回転している。
龍三と小雪は、その衝撃で結界の外へ押しやられていた。
「なっ……!?」
「凛っ……!」
龍三が目を見開き、小雪が思わず凛の名を叫ぶ。
風のドームの向こう側では、凛の赤いマフラーが激しく翻っていた。
土鬼がゆっくりと頭上を見上げる。
渦巻く風の壁を眺めながら、感心したような声音で低く呟いた。
「……これは、風の防壁か」
落ち着き払った声だった。
まるで、敵の技を品定めでもするように。
だが、凛は視線を逸らさない。
土鬼を正面から見据えたまま、鋭く声を張り上げる。
「龍三殿、小雪様を連れて今すぐ安全な場所まで逃げて下さい! 土鬼の相手は、この私が!」
「え、でも――」
「行ってください!」
即座に返ってきた怒声。
その声音には、いつもの軽さが一切なかった。
「…………行こう、小雪!」
「う、うむ……」
凛に促され、龍三もようやく覚悟を決める。
小雪の手を掴み、そのまま高架下の遊歩道を駆け出した。
小雪もつられるように走り出し、凛の後ろ姿を気に掛けるように見つめながら、龍三と共に戦場を後にする。
「……まあよかろう」
小雪に逃げられたというのに、土鬼の声音は不気味なほど落ち着いていた。
「どのみち、貴様は始末しておかなければならぬ存在」
深編笠の奥から、じっと凛を値踏みするような気配が滲む。
対する凛は一歩も退かない。
「お前の相手は、この私です」
風圧に赤いマフラーを激しくはためかせながら、静かに腰を落とした。
そして土鬼は、ふんっと一つ鼻を鳴らすと、ゆっくりと左手を掲げる。
先ほどまで深々と裂けていたはずの掌には、既に傷一つ残っていない。
「誘いに乗ってやろう、霊能力者」
凛は光牙手裏剣を構え直し、鋭く息を吐く。
「春風凛、参る!」
その宣言と同時に、土鬼の指先がこちらへ来いと招くように、くい、と内側へと曲がる。
「――来ませい」
その声が響いた瞬間、凛の腕が鋭く走る。
放たれた光牙手裏剣が唸りを上げ、白い軌跡を描きながら一直線に土鬼へ迫る。
高速回転する十字の光輪は、風陣結界の荒れ狂う風すら切り裂き、一気に土鬼との距離を詰める。
しかし、土鬼は微動だにしない。
悠然と立ち尽くしたまま、見えない天蓋の下で静かに口元を歪めた。
すると足元の大地が轟音と共に隆起する。
黒土が噴き上がり、分厚い壁となって光牙手裏剣の前に立ち塞がった。
激しい衝撃音が高架下に響き渡る。
分厚い層で固められた土塁に手裏剣が突き刺さったまま停止する。
その隙をつき、凛の姿が掻き消える。
風と一体化したかのような速度で回り込み、土鬼の死角へ潜り込んでいた。
身を屈め、凛は静かに腰へ手を伸ばす。
一見すると、そこには何もない。
だが、次の瞬間。
空気が淡く揺らぎ、白い粒子が収束するように集まり始める。
やがて凛の腰には、まるで初めからそこにあったかのように、一振りの刀が収まっていた。
退魔庁の霊能力者が持つ、霊力によって実体化した退魔の剣――御神刀。
凛が左手で鞘を抑え、静かに鯉口を切る。
「――っ!」
次の刹那、凛は一息に刀を引き抜いた。
白銀の刃が月光を弾く。
同時に、刀身の刃の部分が淡い緑色の光を帯びた。
御神刀は所有者の魂から生み出される特別な刀。
魂の色は、そのまま刃の輝きとなって現れる。
翡翠にも似た緑色の光を纏った刀身が、夜闇の中を一筋の閃光となって奔った。
横薙ぎの一閃。
光を纏った刃が土鬼の背を断たんと駆け抜ける。
だが――
土鬼もまた、即座に反応していた。
振り返る動作と同時に巨大な菜切り包丁を振るい、凛の一撃を迎え撃つ。
二つの刃が真正面から噛み合い、激しい火花が飛び散った。
「……早いな」
凛の刃を受け止めたまま、土鬼が低く呟く。
「まるで韋駄天、あるいは颯の如し。忍びの名は伊達ではないということか」
「それは……どうもっ!」
妖魔に褒められても嬉しくない。そんな声音で凛が答える。
凛が応じた瞬間、その身体が再び視界から消える。
「――っ」
土鬼が背後に気配を感じ、振り向きざまに菜切り包丁を振るう。
甲高い金属音が炸裂し、再び刃同士がぶつかり合った。
土鬼は辛うじて凛の攻撃を受け止めるも、刃を合わせた瞬間にはもう次の気配が横へ走っている。
「ちぃっ……ちょこまかと……」
苛立たしげな声を漏らす土鬼。
風の軌跡を残しながら、凛の姿が夜闇の中を駆け抜ける。
右、左、背後。
目にも止まらぬ速度で位置を変え、絶え間なく斬撃を浴びせていく。
しかし土鬼もまた、地面を操り、その全てへ対処していた。
凛が地面へ足を着いた瞬間、その足元の地面が不気味に震える。
「なっ――!?」
そして、地面を突き破り、鋭利な土槍が飛び出した。
まるで行動を予測されていたかのような迎撃。
凛は咄嗟に上体を逸らし、その一撃を紙一重で回避する。
しかし、攻撃は終わらない。
「ッ――!?」
轟音と共に、今度は横合いから土蜘蛛が襲い掛かってくる。
五本の指を蜘蛛の脚のように開きながら、その魔手が獲物を握り潰さんと迫る。
「っ……!」
凛は風を纏って宙を舞い、間一髪で異形の手を躱し、そのまま反転。
着地と同時に再び肉薄するが、今度は進路上に土壁が隆起し、行く手を塞がれる。
凛の刃も土塁に阻まれ、土鬼に届かない。
攻めても攻めても、その度に地面が姿を変えて道を塞ぐ。
文字通り、地の利を生かした戦い方に、凛も苦戦を強いられる。
(地面が生き物みたいに……動きも読みづらいですし。本当に、厄介な力でござりますね……)
鍔迫り合いの最中。
凛の攻撃を受け止めながら、土鬼が低く呟いた。
「しかし、わからんな」
深編笠の奥から向けられる視線。
「以前、石に変えた貴様の同胞然り……何故人は、己が身を犠牲にしてまで他者を庇おうとするのか?」
「……っ!」
「そんなことをしても無駄だというのに」
凛が距離を取ろうと後ろへ下がる。
しかし、土鬼はそれを許さない。
巨大な体躯に似合わぬ速度で間合いを詰めると、菜切り包丁を振り下ろした。
凛はそれを、咄嗟に御神刀で受け流す。
二つの刃が再び激突し、火花が爆ぜる。
「人間という生き物は、何故そう死に急ぐのか、理解に苦しむ」
土鬼が力を込める。更に圧力が増す。
菜切り包丁越しに伝わる凄まじい膂力に、凛の身体が押し込まれる。
「ぐっ……ぅう!」
「お前もそう思わんか、風使い?」
直後。
土鬼の腕が爆発的な勢いで振り抜かれた。
「――っ!?」
凛の身体が大きく仰け反る。
手から離れた御神刀が夜空を舞い、回転しながら後方の地面へ深々と突き刺さった。
その瞬間、凛の胴が無防備に晒される。
手にはもう、武器がない。
防ぐ術もない。
土鬼がその好機を見逃すはずもなく。
巨大な菜切り包丁が、再び頭上高く掲げられる。
月明かりを浴びてギラリと怪しく光る刃。
次の瞬間、それは凛の身体を両断せんと轟音を伴って振り下ろされた。
空気が裂け、死が走る。
だが――。
それが迫るより早く、凛の右手に一振りの光の苦無が形成された。
さらに霊力を流し込み、苦無の刀身が伸長する。
そして、迫る凶刃を真正面から受け止めた。
「ぐっ……!」
「ほう……?」
土鬼が感心したように呟く。
「光で作られた苦無か、面白い……」
「……お前の言っていることは、全く理解できません」
凛の瞳が真っ直ぐ土鬼を射抜く。
「死に急ぐ? 馬鹿なことを」
凛の声に、僅かな怒気が滲んだ。
「みんな、明日を生きるために今を必死になって生きているんです」
ギリギリと刃が軋む。
「誰が好き好んで、死にたがるもんですか……!」
その言葉と共に、凛は一歩踏み込む。
そして、その瞳に揺るぎない意志を宿しながら、凛は力強く言い放つ。
「生き急ぐ人はいても――死に急ぐ人間なんて、この世には一人もいませんよ!」
その瞬間、凛は更に力強く踏み込み、土鬼の身体を勢いよく押し返した。
刹那。
残像すら置き去りにする速度で凛がその場から姿を消す。
土鬼は咄嗟に菜切り包丁を振るうが、既にそこにはもうない。
「――上か」
土鬼が僅かに顔を上げる。
その頭上。
凛が急降下しながら斬り込んでいた。
「はぁぁっ!」
一直線の急襲。
風の勢いを乗せた一撃が、土鬼の脳天へ迫る。
だが――
「穢土練成・地嵐!」
土鬼が地面へ手を叩きつけた。
直後。
轟音と共に地面が爆ぜ、アスファルトの下に眠る黒く濁った土が竜巻のように噴き上がる。
渦を巻く土砂は、まるで荒れ狂う濁流さながらだった。
「なっ!?」
凛が目を見開く。
このまま飛び込めば、土の奔流へ飲み込まれてしまうのは避けられない。
咄嗟に身を捻り、空中で強引に軌道を変える。
しかし、完全には避けきれない。
巻き上がった土塊が肩や脚を掠め、衝撃で体勢が崩された。
「くっ――!」
足場のない空中では立て直しも難しい。
その一瞬の綻びを、土鬼は見逃さなかった。
「いくら俊敏に動けても、それでは逃れられまい」
土が――形を成す。
「土蜂!」
次の瞬間、渦巻く土砂の中から無数の土塊が射出された。
それはただの礫ではない。
先端を鋭く尖らせ、高速回転しながら飛来する土の針群。
まるで蜂の群れのように、唸りを上げながら凛へ殺到する。
凛は即座に右手を振るう。
握っていた光の苦無が粒子状に分解され、そのまま空中で高速回転を始めた。
無数の光が収束し、円を描くように組み上がっていく。
「――陽遁・光牙手裏剣!」
次の刹那、直径一メートル近い巨大な光の手裏剣が形成され、凛の前方へ滑り込むように展開された。
それを盾のように構える。
直後――土塊から打ち出された無数の土針が手裏剣の表面へ激突した。
鋭い針状の先端が火花を散らしながらぶつかり、乾いた衝突音が連続して響き渡る。
「っ……!」
手裏剣の形成がぎりぎり間に合い、なんとか攻撃を防いだ凛。
しかし、土鬼の追撃は終わらない。
今度は土鬼の足元の地面が不気味に蠢いた。
土は意思を持つ生物のように伸び上がり、幾本もの触手へと姿を変える。
「穢土練成・土石龍」
蛇の如くうねりながら、その内の数本が凛へ牙を剥いた。
衝撃が手裏剣の表面を震わせ、触手状の土塊に押し込まれるように、凛の身体が後方へ弾き飛ばされる。
「――まず!?」
そして、その背後には轟々と唸る暴風の壁。
凛自身が展開した風陣結界が迫っていた。
「くっ――解!」
凛が咄嗟に術を切る。
直後、結界を構成していた暴風が霧散するように掻き消えた。
押し返されていた身体が一気に後方へ抜ける。
凛は空中で身を捻り、ビルの側面へ着地。
だが、休む暇など与えられない。
顔を上げた刹那。
「――っ!?」
無数に伸びる土の触手の一本が凛へ迫った。
反射的に浮世離れを発動。
浮力操作で身体を軽くし、壁面を蹴る。
直後、先程までいた場所へ触手が勢いよく突き刺さった。
けたたましい轟音と共に、コンクリートが砕け、窓ガラスが四散する。
さらに凛は風力操作も加え、重力を振り切るようにビルの側面を駆け上がった。
その背後を、次々と触手が追いすがる。
上昇気流を纏いながら、風の噴射で軌道を強引に変え、それらを紙一重で躱していく凛。
やがて、ビルの側面を滑空するように上昇し、そのまま屋上の縁を飛び越えた。
夜空へ躍り出る。
眼下に広がるのは無数のビル群。
その遥か下――高架下の遊歩道に土鬼の姿が見えた。
周囲の景色は既に変わり果てている。
穢土練成によって遊歩道や道路のアスファルトは幾重にも捲れ上がり、まるで巨大な獣が地面を掻き毟ったかのような酷い有様となっている。
(酷い。塗装が捲れ上がって下の地面が剥き出しに……)
凛は眉根を寄せる。
(土鬼はまだ術を発動して間もないというのに、これ程とは。早く……穢れがそこまで広がってない内に、ここで仕留めなければ!)
凛の両手に霊光が迸った。
両手指の間に、八本の光の苦無が形成される。
赤熱した刃が、夜闇の中で鋭く輝いた。
「陽遁・火稲妻!」
次の瞬間、光の苦無が赤い閃光となって一斉に射出される。
それらは複雑な軌道を描きながら、四方八方から土鬼へ殺到した。
「小癪な真似を……」
土鬼が咄嗟に地面へ手をかざす。
土壁が隆起しかけるも、間に合わない。
八本の内の一本が、隆起する土壁の間を縫って右腕を貫いた。
「ちぃっ……!」
衝撃で、土鬼の身体が僅かによろめく。
土鬼が失った右肩を抑えながら舌打ちする。
更に、地面に突き刺さった残りの苦無が、一斉に赤く発光し始めた。
「っ……!」
「火遁・滅却――」
その瞬間、地面を張っていた土蜘蛛が突然、土鬼へ飛び掛かる。
そのまま巨大な土の手首が土鬼の全身に絡みつくと、土塊が幾重にも重なり、土鬼を包み込むように覆い尽くしていく。
直後――
「――鳳仙花!」
術が発動し、突き刺さっていた苦無が一斉に大爆発を引き起こした。
紅蓮の火柱が高架下を埋め尽くし、爆炎が暴風と共に荒れ狂う。
衝撃波で周囲のコンクリ―トが砕け、遊歩道へ無数の亀裂が走る。
吹き荒れる熱風に、凛の赤いマフラーが激しく翻った。
「……っ」
灼熱の業火が夜空を焦がす。
その光を瞳に映しながら、凛は爆心地を静かに見据えた。
焼け焦げた土の天蓋が、ぼろぼろと崩れ落ちていく。
そこには、何食わぬ顔で佇む土鬼の姿があった
「流石に、一筋縄では行きませんか」
凛が小さく息を吐く。
土鬼は何も答えない。
ただ、ゆっくりと右腕を持ち上げた。
土塊の中から現れたその腕は、先ほど破壊されたはずにもかかわらず、既に完全な状態へと再生している。
指を握り、開く。
動作を確かめるように何度か繰り返した後、ゆっくりと凛へ視線を向けた。
「今のは肝が冷えたぞ」
深編笠の奥から、低く濁った声が響く。
だが、その声に恐れの色はない。
むしろ、強敵を前にした歓喜が滲んでいた。
「さて――」
言うと同時に、土鬼の足元の土が蠢く。
黒く濁った土塊が両手へ集まり、その中から二振りの刀が形を成した。
土鬼は腰に差した刀を抜くような動作でそれらを構える。
「次はどう出る?」
(今度は刀まで……ここまでくると、最早、なんでもありでござりますね)
対する凛もまた、両手へ光の苦無を形成する。
「驚いたか? これも我が妖術の成せる業よ。貴様も見かけによらず、多彩な技を持ち合わせているようだが――それも何処まで通用するか」
「……何が言いたいんです?」
凛は光の苦無を逆手に持ち直す。
「なに。その程度では、我が穢れた魂を祓うことなど、夢のまた夢と言っているのだ」
言葉を言い終えるや否や、二人が同時に駆けた。
地面が弾ける。
風を纏った凛が一直線に加速する。
対する土鬼もまた、地を滑るような低い姿勢で突進した。
ギィンッ!!
光の苦無と土の双刀が真正面からぶつかり合う。
夜の遊歩道に無数の銀閃が煌めいた。
凛が土鬼の刃を受け流しながら、疾風の如き速度で間合いへ潜り込む。
右から斬り払い、返す刃で左から鋭い突きを放つ。
さらに身体を捻りながら回し蹴りを繰り出し、その勢いのまま苦無を薙いだ。
常人なら目で追うことすらできない連撃。
だが土鬼もまた、双刀と隆起する土塁を用いてそれを捌く。
幾度目かの激突。
ギギギ……!!
互いの刃が噛み合い、鍔迫り合いとなる。
(……小雪様達は、ちゃんとこの場から離れられたでしょうか……)
凛の意識が束の間だけ戦場の外へ向く。
その僅かな揺らぎを土鬼は見逃さなかった。
「戦の最中に余所見とは、余裕だな?」
ギリギリと刃を押し込みながら、土鬼が嗤う。
「……っ!」
「そんなにあの巫女と小僧が気になるか?」
その反応を見て、土鬼の口元が愉悦そうに歪む。
「案ずるな」
ぼそりと、嫌に落ち着いた声音で土鬼が告げる。
「既に布石は打ってある」
「っ……!? なんですって!?」
「はぁっ……はぁっ……ここまでくれば、大丈夫だろ……!」
龍三は肩で息をしながら、ようやく足を止めた。
高架下から離れた河川沿いの遊歩道。
人気はない。
遠くを走る車の走行音と、河川敷を吹き抜ける夜風だけが辺りを満たしていた。
「う、うむ……はぁ、はぁ……」
小雪もまた息を乱しながら、胸元を押さえる。
さすがに全力で走り続けた疲労は隠せない。
「凛は……無事であろうか……」
不安げに、小雪が背後を振り返る。
遠く離れた夜の街。
その一角からは、今もなお戦いの余波が届いていた。
腹の底へ響く地鳴り。
まるで地面そのものが悲鳴を上げているかのような振動が、足元を微かに揺らす。
やや遅れて、乾いた破砕音が夜気を切り裂いた。
コンクリートか、あるいは建物の壁でも砕け散ったのだろうか。
粉塵交じりの風が河川敷まで吹き抜けてくる。
凛と土鬼。
二人の戦いが、今なお続いている。
「……とりあえず、今は凛のことを信じるしかねぇよ」
龍三が息を整えながら言う。
「あいつ、土鬼の黒結晶を一度壊してるんだろ? なら、簡単には負けたりしねぇって」
「……うむ」
小雪が小さく頷く。
だが、その表情から不安は消えない。
その時だった。
「――っ!?」
突如、二人の足元で大地が爆ぜた。
アスファルトがひび割れ、河川敷の遊歩道が大きく隆起する。
地面の下から突き上げるような衝撃に、龍三と小雪は反射的に身を引いた。
「なっ――!?」
直後、割れた地面の裂け目から、巨大な黒い影がせり上がる。
土砂とアスファルトを撒き散らしながら現れたそれは、巨大な遮光器土偶――荒覇吐鬼だった。
まるで地中から生まれ出たかのように、その巨躯が龍三と小雪の間へ割り込む。
「龍三!」
「小雪!」
二人は咄嗟に互いへ手を伸ばす。
だが、遅い。
荒覇吐鬼の巨体が、二人を強引に引き裂くように立ち塞がった。
龍三は慌てて後方へ飛び退こうとするも、砕けた地面に足を取られ、バランスを崩してしまう。
受け身も間に合わず、そのまま背中から地面へ叩きつけられた。
「っ、が……!」
肺の空気が一気に外へ吐き出される。
荒覇吐鬼は無機質な顔を龍三へ向けると、そのまま巨腕を振り上げた。
「っ――!」
逃げる暇などなかった。
三つに裂けた巨大な鉤爪が、一瞬で龍三の身体を掴み上げる。
「ぐっ……ぁああっ!!」
全身が軋む。
肋骨が悲鳴を上げる。
鉤爪が容赦なく身体に食い込み、握力がじわじわと強まっていく。
「龍三!」
土偶の向こう側から、小雪の悲鳴が響いた。
だが、荒覇吐鬼は止まらない。
ぎち、ぎち、と。
まるで獲物を潰す万力のように、ゆっくりと龍三を締め上げていく。
「がっ……ぁ……!」
呼吸が塞がれる。
肺が圧迫され、息が吸えない。
(こいつ……さっき、水路に落ちて消えたはず、じゃ……っ!?)
龍三の顔から血の気が引いた。
荒覇吐鬼の向こうで小雪が何か叫んでいるが、もう上手く聞き取れない。
(……やばい……っ)
力が入らない。
指先も痺れてきた。
このままでは、本当に握り潰される。
必死に思考を巡らせるも、浮かぶのは焦りばかりだ。
逃げる方法もない。ましてや、振りほどける力もない。
視界が明滅する。意識も遠のき始める。
「――っ」
朧げな意識の中、不意に大河の顔がフラッシュバックする。
土鬼の魔の手にかかり、石に変えられてしまった龍三のたった一人の親友。
『じゃ、また明日な、生きて会おう友よ!』
そんな冗談めいた言葉を、大河は笑いながら口にしていた。
あの時は、自分も軽く笑い返していたはずなのに。
いよいよ、冗談では済まなくなりそうだった。
大河にすぐ戻ると約束したのに。その約束すら、果たせるか怪しくなっていた。
「まっ……ずい……」
視界が霞む。
全身の感覚が、少しずつ遠のいていく。
そんな極限状態の中で、今度は小雪の顔がふと脳裏をよぎった。
(小雪……)
今も土偶の向こうで、必死に自分の名を呼んでいる少女。
月から来たという、不思議な女の子。
どこか不器用で。
危なっかしくて。
でも、放っておけない――
――”大切な人”。
途切れかける意識の中で、小雪がこちらに優しく笑いかけてくる顔がふと浮かび上がる。
その瞬間。
龍三の胸の奥で、どくん、と何かが脈打った。
「…………!」
龍三が目を見開く。
まだ、辛うじて動く右手。
そこに宿る、得体の知れない焔。
水をかけても消えず、他人には見えず、紙切れ一枚燃やせない正体不明の力。
何故こんなものが自分に宿ったのか、その理由すら未だにわからない。
だが、それを思い出したところで、何ができるというのか。
熱を持たず、紙切れ一枚燃やせないような火が、妖魔という人知を超えた存在に通用するのか?
そんな疑問を胸に抱いたその時、荒覇吐鬼の鍵爪がさらに龍三の身体を締め上げた。
「ぐっ……ぁあ……!」
全身に激痛が走る。
骨が軋み、肺が潰れそうになる。
それによって、焔に向いていた意識が強引に断ち切られてしまう。
呼吸ができない。
頭の中が真っ白になっていく。
(……くそ……)
それでも、心臓の奥から、何かが溢れ出すような感覚だけは消えなかった。
「ざっ……けん、な……」
凛は今も土鬼と戦っている。
このまま土鬼を倒してくれたらいいが、それが後どれくらいかかるのかわからない。
その間に自分が荒覇吐鬼に握り潰されてしまっては元も子もない。
もし万が一、凛が負けるなんてことがあれば――それこそ最悪だ。
小雪を、一人ぼっちにしてしまう。
――それだけは、絶対に駄目だ。
「俺にはまだ、やり残したことがあんだよ……!」
血が回らなくなり、感覚がほとんど無い右手を強引に握る。
青白い光が、龍三の両手を淡く照らす。
「ここで俺が死んだら……誰が小雪を守るんだ。なぁ、そうだろ? 朝日奈龍三――っ!」
己を鼓舞するように、絞り出すように龍三が声を上げた。
刹那、両手から青い焔が噴き上がった。
ぼう、という音と共に、龍三を掴んでいた荒覇吐鬼の腕が青く燃え上がる。
次第にそれは、腕から身体全体へ伝播するように広がり、やがて土偶の全身を包み込んだ。
荒覇吐鬼の巨体が、初めて苦悶するように震えた。
同時に、龍三を締め上げていた力が、一気に緩む。
「――ごほっ!!」
解放された龍三が、激しく咳き込みながら地面へ落下した。
「龍三!」
それを見た小雪がすぐさま駆け寄る。
膝をつき、倒れ込んだ龍三の身体を支えるように抱き起こした。
「大事はないか!?」
「げほっ……! はぁっ……はぁっ……ああ」
潰れかけた肺が悲鳴を上げる。
荒い呼吸を繰り返しながら、龍三はゆっくりと顔を上げた。
そして、目を見開く。
そこには――
青い焔に包まれながら、ボロボロと崩れ落ちていく荒覇吐鬼の姿があった。
「これは一体……何が起こっておるのじゃ?」
そこで龍三は、ふと自分の両手へ視線を落とした。
そこには今も尚、蒼い焔が静かに揺らめている。
「……」
その焔を見つめたまま、龍三が息を呑む。
すると、目の前で青い焔に包まれ、燃え尽きていく荒覇吐鬼を見ていた小雪が、不意に。
「――破魔の焔……」
独り言のように呟いた。
時を同じくして。
ギィンッ!!
夜の高架下近くの遊歩道で、刃と刃が激突する。
凛の光の苦無と、土鬼の双刀。
互いの斬撃が火花を散らし、衝撃が周囲の空気を震わせた。
だが、その最中。
「――?」
凛と対峙していた土鬼も、すぐさま異変を感じ取る。
(――何?)
深編笠の奥で、土鬼の目が細められる。
(荒覇吐鬼の気配が消えた?)
正確には――繋がりが断たれたと言うべきか。
「……馬鹿な」
まるで、妖術そのものを焼き切られたかのように、突如として反応が途絶えたのだ。
「ありえん……」
低く濁った声が漏れる。
土鬼の動きが一瞬だけ鈍くなる。
その隙を凛は見逃さない。
「……っ! 火遁・火燕弾!」
凛は人差し指と中指を揃えた、指鉄砲の構えを取ると、次の瞬間――凛の指先から火花のような霊光が迸り、灼熱を纏った火の燕が放たれた。
紅蓮の鳥は尾を引くように宙を駆け、一直線に土鬼へ襲い掛かる。
だが。
土鬼は地面を隆起させ、半球状の天蓋を作り自身を覆う。
そのままドーム状の土壁に火の鳥がぶつかり、激しい爆発を起こした。
ぱらぱらと土壁が崩れていく中、土鬼は荒覇吐鬼の身に何が起きたのかを冷静に分析する。
(あの場には、常夜の巫女と小僧しかいなかったはず……)
考えられる可能性としては――
「……新手か?」
退魔師は凛一人ではない。
他にも大勢いる。
もし別働隊が動いていたのだとすれば、荒覇吐鬼が祓われたことにも説明がつく。
だが、それでもやはり違和感があった。
土鬼の探知術式に捉えられていた反応は、小雪と龍三の二人だけ。
第三者の気配など、一度たりとも確認されていないのである。
(何が起こっている?)
その時。
突然、土鬼の足元で、地面が不気味に脈動する。
黒く濁った土塊が盛り上がり、ゆっくりと形を変えていった。
やがて形成されたのは、人の手。
巨大な五指が地面を掴むように起き上がり、そのまま手の甲に乗っていた土鬼の身体を持ち上げる。
「待て! 何処へ行くつもりでござりますか!」
凛が叫ぶ。
同時に風を纏い、一気に踏み込んだ。
それよりも僅かに早く、土鬼が動く。
「穢土練成・地縛り」
直後、凛が踏み込もうとした足元で、地面がどろりと崩れた。
「っ――!?」
まるで底なし沼のように、踏み出した右足が深く沈み込む。
凛は咄嗟に飛び退こうとするも、遅い。
穢土は生き物のように蠢きながら両脚へ絡みつき、全く離れようとしない。
むしろ、地面そのものが凛を捉えようとしているかのようだった。
「くっ……!」
凛が顔を歪める。
とはいえ、その程度。
今の凛なら風圧だけで強引に脱出できる。
しかし、土鬼にはその一瞬だけで十分だった。
「貴様との決着は、後に持ち越す事としよう」
次の瞬間、土の手が地面を叩く。
反動を利用するように、土蜘蛛と共に土鬼が前方へ飛んでいった。
「破魔の焔?」
小雪がふと口にした言葉を、龍三が思わず聞き返す。
視線の先では、荒覇吐鬼の巨体が青い焔に包まれながら、ゆっくりと崩れ落ちていた。
小雪はその光景を見つめたまま、静かに口を開く。
「あの土偶から、穢れの気配が跡形もなく消えておる。もしやすると、その焔は妖魔の穢れを焼き祓うことができるのかもしれぬ」
「穢れを……?」
龍三が茫然と呟く。
思わず、自分の両手へ視線を落とした。
手を覆うように揺れ続ける青い焔。
水につけても消えず、熱くもなく、紙切れ一枚燃やせない――子供の頃からずっと、自分にだけ見えていた奇妙な焔。
誰にも理解されず、自分でも意味が分からなかった力。
「魔を打ち破る力に、破魔矢というのがあってな」
小雪が静かに続ける。
「龍三の焔が、あの土偶に宿っていた穢れを焼き祓った様が、それに少し似ておった故……つい、破魔の焔などと口にしてしもうた」
「破魔の、焔か……」
龍三は呆けたように、再び自らの手のひらを見つめる。
長年付き添ってきたこの力。未だに謎は多く残っているが、それでも――あの荒覇吐鬼に通用したという事実は、龍三の中で大きな意味を持っていた。
その時――
突如、龍三達の前へ巨大な影が降ってくる。
重々しい衝撃音が遊歩道へ響き渡る。
着地と同時に地面が砕け、周囲へ粉塵が巻き上がった。
「――っ!?」
龍三と小雪が反射的に顔を上げる。
もうもうと立ち込める土煙の奥から現れたのは、五本の指を脚のように蠢かせる異形の怪物――土蜘蛛。
そして、その手の甲へ乗るようにして立っていたのは。
「……土鬼!」
深編笠を被った妖魔が、静かにこちらを見下ろしていた。
小雪が息を呑む。
同時に、嫌な予感が小雪の脳裏をよぎる。
土鬼がここに現れたということは――
「凛は……凛はどうしたのじゃ!?」
思わず声が荒くなる。
しかし、問いかける小雪に、土鬼は答える気配を見せない。
土蜘蛛から降り立つと、そのまま残骸と化した荒覇吐鬼の下へ歩み寄っていく。
「答えよ!」
小雪が催促するも、土鬼はそれを無視し、崩れ落ちた荒覇吐鬼の残骸を見下ろした。
その表面には、青い火が未だ燻っていた。
「穢れの気配が完全に消えている……」
妖術による接続も、核を覆っていた穢れも、まるで根こそぎ焼き払われたかのように、跡形もなく消失していた。
やがて、土鬼の視線がゆっくりと龍三へ向く。
正確には、龍三の両手を覆う青い焔へ。
「……」
状況を照らし合わせれば、答えは一つだった。
荒覇吐鬼を倒したのは、この少年――龍三だ。
しかし、土鬼は未だに信じられないでいた。
なぜなら、龍三には霊力がないからだ。
凛のように霊能力を扱えるわけでもなく、術式を発動した痕跡もない。
稀に、後天的に霊能力が覚醒する人間もいるらしいが、今の龍三からは、依然として霊力の気配を感じない。
それでも土鬼の目には、確かに映っていた。
龍三の両手で、今なおメラメラと揺らめき続ける青い焔の存在が。
「……小僧」
土鬼が低く呟く。
「これは、貴様がやったのか……?」
「……っ」
龍三の喉が僅かに鳴る。
だが、返答を待つことなく、土鬼は再び荒覇吐鬼の残骸へ目を落とした。
「……どうやら、核はまだ生きているようだな」
崩れた土塊の奥で、脈打つ赤い核が僅かに残っていた。
それを確認した土鬼は、次いで自らの掌を刀で切り裂いた。
穢土練成を発動させた時と同様に、手から滴る赤い血を荒覇吐鬼の残骸へ――核へと流し込む。
「目覚めよ、荒覇吐鬼!」
ドクンッ――!!
核が大きく脈動する。
すると、崩れていた土塊が突如として蠢き始めた。
砕け散っていた土が集まり、再び巨大な肉体を形成していく。
やがて、龍三達の前に、荒覇吐鬼が完全な姿で顕現した。
「そんな……!?」
龍三の顔が強張る。
だが、その瞬間だった。
龍三の横合いから、土蜘蛛が一気に飛び掛かってくる。
虚を突かれ、龍三も反応が遅れる。
五本の指がそのまま龍三の身体を握り潰さんと迫った。
「龍三!!」
龍三の身体が、土蜘蛛の巨大な掌に飲み込まれる。
「――っ!」
小雪が目を見開き、息を呑んだ――その直後だった。
青い焔が爆ぜる。
土蜘蛛の腕が龍三に触れた瞬間、青い焔に包まれた。
まるで穢れそのものを浄化するように、焔は一瞬で土蜘蛛の全身へ燃え広がった。
そして、ボロボロと焼かれた土塊が崩れ落ちていく。
その奥に立っていたのは――
右腕を前に突き出している龍三だった。
「……ほう」
土鬼が低く声を漏らす。
深編笠の奥の視線が、興味深そうに細められた。
その時。
「小雪様、龍三殿!」
突風が地を撫でるように突き抜けた。
夜気を切り裂くように、空から一筋の影が降りてくる。
それは他でもない。凛だった。
風を纏ったまま凛が滑り落ちるように着地する。
「凛……! 無事であったか!」
凛の姿を見て、小雪の声が僅かに弾む。
「はい、お二人こそ大事はありませんか?」
「うむ」
小雪は短く頷く。
「ああ……」
龍三も遅れて返事をする。
まだ緊張が完全に抜けたわけではないが、味方が増えた安心感はかなり大きい。
「よかった……って、龍三殿!? それ、どうしたんでござりますか!?」
「え……?」
龍三は間の抜けた声を漏らした。
そして、戸惑ったように自分の手と凛の顔を順に見比べる。
「もしかして凛も、これが見えてるのか?」
「ええ、そりゃあもう、がっつりと……青い焔がこう、メラメラと燃え滾っているのが見えますよ?」
「まじかよ……」
「なんと、凛も見えておるのか」
凛が龍三の焔をしっかりと認識している事実に、小雪も目を丸くする。
そのやり取りを遮るように、土鬼が低く口を開いた。
「荒覇吐鬼、あの風使いを抑えろ」
次の瞬間――
地面を砕きながら、荒覇吐鬼が跳躍した。
巨躯からは想像もできない速度。
巨大な影が一瞬で凛の頭上へ迫る。
「なっ!?」
凛は咄嗟に光牙手裏剣を構築。
直後、振り下ろされた巨腕と真正面から激突した。
轟音と共に、凄まじい衝撃が凛の全身を貫く。
「くっ――!!」
踏み留まれない。
凛の身体はそのまま後方へ吹き飛ばされてしまう。
空中で身を捻って体勢を立て直すと、近くの建物の壁面へ着地した。
龍三達と完全に分断されてしまった。
土鬼の意図を察した凛は顔を上げ、鋭く言い放つ。
「どういうつもりですか? まだ私との決着はついていないでござりましょう!」
対する土鬼は、深編笠の奥で口元を歪めた。
「興が変わった」
その視線は凛ではなく、真っ直ぐ龍三へ向けられている。
「なに、選手交代というやつだ」
そう言うと、土鬼は片手に持っていた土の刀を地面へと突き立てた。
次の瞬間――
刀の形状が歪み、硬質な刃が泥のように崩れ、細長く伸びていく。
それはやがて、一本の黒い鎖へと姿を変えた。
「――?」
龍三が眉根を寄せる。
土鬼はその鎖を無造作に掴むと、強く引いた。
ジャララララッ!!
凄まじい音を立てながら、地面の下から鎖が引きずり出される。
まるで、地中へ埋め込まれていた長大な鎖を無理矢理引き抜いているかのようだった。
「なっ――!?」
次の瞬間。
飛び出した鎖が蛇のように、一瞬で龍三の足首へ絡みつく。
直後、今度は凄まじい力と勢いで龍三の身体が後方へ引きずられた。
「うわっ!?」
視界が一気に流れる。
あまりに一瞬の出来事に、龍三は自分の身に何が起こったのか理解できないでいた。
それを理解したのは、背中から建物の壁面へ叩きつけられた瞬間だった。
「がはっ……!!」
肺の空気が強制的に吐き出される。
衝撃で全身が軋み、視界が激しく揺れた。
だが、休む暇など与えられない。
巻きついた鎖が再び獲物を嬲る蛇のように、龍三の身体を引きずろうとしていた。
「くっ……!」
龍三は咄嗟に足首へ視線を落とす。
そこには、穢れで編まれた黒い鎖が巻き付いている。
これも土鬼の妖術で作られたものなら、龍三の焔が通用するはずだ。
破魔の焔。
「っ……!」
龍三は足首に巻き付いている黒い鎖へ破魔の焔を押し当てた。
すると、青い焔が爆ぜ、鎖が一瞬にして塵に変わる。
だが、既に龍三の身体は鎖に引っ張られている最中だった。
勢いは殺し切れない。
「うわっ――!?」
解放された反動で、龍三の身体が宙へ投げ出される。
視界が回転し、やがて地面へ激しく身体を打ち付けた。
「っ、ぁ……!」
鋭い痛みが全身を駆け抜ける。
龍三の身体は、遊歩道脇の護岸を超え、そのまま市街地側の道路へ叩き出されていた。
つい先程まで居た河川敷は、既に数十メートル後方だ。
「龍三!」
小雪が顔色を変え、慌てて駆け寄ってくる。
「大事はないか!?」
「ッ……ああ。これぐらい、大したことねぇよ……痛てて」
強がっているのがすぐに見抜かれる程度には、声が震えていた
視線の先では、土鬼が掌の上で塵になった鎖の残滓を見つめている。
その奥では、荒覇吐鬼が凛を抑え込むように猛攻を続けていた。
「……小雪」
龍三が低く呟く。
「お前は逃げろ……」
「……!?」
小雪の目が大きく見開かれる。
「馬鹿者! そのようなこと、できるはずなかろう! お主を置いて逃げるなど、そんな……」
小雪の声が震える。
「あいつの矛先は、多分……今は俺に向いてる」
龍三は両手に揺れる青い焔――破魔の焔を見つめる。
「だから、今なら小雪だけでも逃げられるはずだ」
そして、今度はゆっくりと土鬼の方を見る。
土鬼はゆっくりとこちらへ歩み寄っていた。
「……じゃが龍三。お主、妖魔と戦った経験などないではないか。喧嘩とは訳が違うのじゃぞ? いくら焔が通用するとわかっておっても、一人で立ち向かうなど、無茶がすぎる!」
「……ああ」
龍三は小さく頷いた。
「そんなこと、俺が一番わかってる。正直、あいつを倒せるなんて微塵も思っちゃいねぇよ」
「ならば……」
「だからこそだ。せめて、小雪だけでも逃げろ。時間くらいは稼げるかもしれない」
そう言い切ったものの、内心はやはり不安しかなかった。
実際、土鬼の妖術を焼き祓うことはできたし、荒覇吐鬼にも通用した。
だが、だからといって、自分があの妖魔に勝てる保証などどこにもない。
そもそも、龍三は妖魔退治を専門にしている退魔師とは違う。
喧嘩のやり方くらいしか知らない、ただの一般人だ。
そして目の前にいるのは、喧嘩でどうにかなるような相手ではない。
人の理など意に介さぬ化け物だ。
怖くないわけがなかった。
今だって足が震えている。
それでも。ここで自分が残らなければ、小雪は逃げられない。
「……どうして、龍三はそこまでしてくれるのじゃ?」
小雪が震える声で問いかける。
龍三は少しだけ黙り込んだ。
自分でも、上手く説明できなかったからだ。
本当はすぐにでも逃げ出したい。
なのに――
小雪を置いて逃げるという選択肢だけは、どうしても浮かばなかった。
「正直、俺にもよくわかんねぇ」
自分の右手を見つめながら自嘲気味に笑う。
「でも、放っておけないんだ」
やがて、ゆっくりと顔を上げると、真っ直ぐ小雪を見た。
「……」
小雪が息を呑む。
不安そうに揺れる青い瞳。
泣くのを堪えるような表情。
それを見た瞬間、胸の奥が強くざわついた。
小雪とは今日初めて会ったはずなのに、彼女の泣きそうな顔を見るだけで胸が痛む。
傷ついてほしくない。
そんな思いが当たり前のように湧き上がる。
なぜなのか。
その理由だけが、どうしてもわからなかった。
小雪は深く息を吸うと、そっと胸に手を当てた。
そして、静かに顔を上げる。
「……馬鹿者」
その声は、どこか泣きそうで、それでいて優しかった。
「何故、お主ばかりが危険に身を晒す必要がある? 妾だけ逃げろなど……そのようなこと、できるはずなかろう」
小雪は唇を噛み締める。
「龍三を置いて、一人だけ助かるなど御免じゃ」
「でも、それじゃあ――」
言いかけた龍三の言葉を、小雪は遮るように一歩前へ出た。
「龍三が妾のことを案じてくれるように、妾もまた龍三のことを案じておる」
「……」
「お主が妾を守ろうとしてくれるように、妾もまた、お主のことを守りたい」
小雪の青い瞳が、揺らぐことなく龍三を見つめる。
そして、ふっと力を抜くように小さく笑う。
「案ずるでない。あやつの攻撃は妾には通じぬ。それは龍三も知っているであろう?」
「それは、まあ……」
「龍三が傷つくと分かっておるのに、見ておるだけなど耐えられぬ。じゃから、妾も共に戦う」
「……小雪」
その瞬間、二人の間に流れていた空気が断ち切られる。
「……愚かな」
低く乾いた声が、夜の闇に溶けるように響いた。
龍三と小雪は、ほぼ同時に声のする方へ視線を向ける。
「守る守らぬと、情を語るか。戦場で最も命を落とす者の言葉だ」
そこには、土鬼が静かにこちらを見据えて立っていた。
「だが、それもよかろう。貴様等のその決断を、俺は尊重しよう」
その上で――と告げると、静かに片腕を持ち上げる。
握られていた刀が、ぐにゃりと形を歪めた。
鉄が溶けるように幅広く変形し、やがて現れたのは、人を解体するためのような巨大な菜切り包丁。
鈍く濁った刃が、月光を受けて怪しく光る。
「あえて問おう。若き愚者よ。貴様はどのように殺されたい?」
「……」
「よもや、ここより生きて帰れるとは思うまい? 覚悟はできているのだろうな?」
深編笠の奥から注がれる視線は、まるで獲物を見定める猛獣のようだった。
その問いに、龍三は一瞬だけ言葉を探し――そして、吐き出した。
「覚悟なら――大河を探しに外へ出た時から、とっくにできてる」
「……なるほど」
その言葉に、土鬼が低く呟く。
そして、巨大な菜切り包丁がゆっくりと龍三へ向けられる。
「なればこそ、貴様も友と同じ末路を辿るがいい」
「――っ!」
龍三の表情が強張る。
「穢れた大地に、溺れて死ね!」
その瞬間。
土鬼の周囲に漂う濁った穢れが爆発的に膨れ上がる。
圧が、形を持って押し寄せてくるようだった。
対する龍三もまた、両手に宿る青い焔を強く燃え上がらせる。
――今ここに、新たな戦いの火蓋が切って落とされた。




