第十話 影より忍ぶ者
小雪に腕を引かれるまま、龍三は商店街へと飛び出した。
アーケードの下。
外灯に照らされた通りは、薄暗く静まり返っている。
「……くそっ、どっちに行けば……!?」
足を止めかけて、龍三は思わず周囲を見回す。
左右に伸びる通路。
どちらへ逃げるべきか、一瞬、判断が遅れる。
小雪が作ってくれた貴重な時間。
無駄にはできない。
とにかく、今はこの場を離れることが先決だ。
龍三は歯を食いしばり、自分たちが来た方向へと振り返る。
そして、迷いを振り切るように、再び駆け出した。
――一方、その頃。
路地裏の奥。
小雪によって上半身を吹き飛ばされた土鬼は、既に再生を終えて、何事もなかったかのようにそこに立っていた。
「何処へ逃げようと無駄なこと……」
低く、嗤う声。
「何故ならここは……もう既に、俺の縄張りだからなァ」
その言葉が、夜の空気にじっとりと染み込む。
商店街を走っていた龍三の足が、ぴたりと止まる。
「……?」
その理由は他でもない、ゴゴゴ……と、低い振動が足元から伝わってきたからだった。
「これは……地鳴りか?」
隣にいた小雪も異変に気づいたらしい。
「地震? 嘘だろ、このタイミングで!?」
思わず声を上げる。
「小雪!」
「……うむ」
龍三は反射的に小雪の名前を呼び、静かに腕を引いた。
さっきとは逆で、今度は自分が小雪を引き寄せる形で。
その、直後だった。
ドンッ!!
地面の内側から、突き上げるような衝撃が走る。
「うわっ!?」
バランスを崩し、龍三はその場に尻餅をつく。
「龍三! 大事はないか?」
「あ、ああ。俺は大丈夫……」
咄嗟に地面に手を付いた、その時だった。
「……?」
指先に伝わる異様な感触に、龍三の顔が強張る。
「なんだ……?」
さらに確かめるように、掌に意識を集中させると――
固いはずの地面の下で、何かが動いている感触を捉えた。
「地面の下に、なにかいる……?」
次の瞬間。
龍三の目の前にある地面が、メキメキと音を立てて内側から押し上げられ、ひび割れが蜂の巣のように広がる。
そして――盛り上がった地面が、限界を迎えたように勢いよく爆ぜた。
「……え?」
土煙が一気に舞い上がり、視界を覆い尽くす。
その裂け目の奥から。
砕けた石片を押しのけながら、”何か”がゆっくりと這い上がってくる。
最初に現れたのは――腕。
しかし、腕といっても、それは人の形を成していなかった。
指は三本。全てが鉤のように鋭く湾曲している。
その異形の手が、地面を掴むように突き出され――
ゴン、と叩きつけるようにタイル床を掴み、更にひびを広げた。
そして、全体像が露わになる。
「……っ!」
土煙の奥から現れたそれを見て、龍三の目が見開かれる。
丸みを帯びた頭部に、不釣り合いなほど大きく張り出した目のような造形。
無機質でありながら、妙に印象に残る輪郭。
恐らく、博物館に行ったことがない人でも、教科書やテレビで一度は目にしたことのある姿。
それは――
「ど、土偶……?」
遮光器土偶。
縄文時代の日本で造られた遺物が、あの独特な顔と身体付きのまま、商店街のど真ん中に立っていた。
(なんで土偶が……? まさかこいつも、さっきの奴とは別の個体なのか?)
もしくは、あの妖魔が関わっているとか?
龍三が呆気に取られていると、土偶が動いた。
「っ……!?」
鈍重そうな見た目とは裏腹に、巨体が一瞬で距離を詰めてくる。
振り上げられた腕。
そのまま三つに裂けた鉤爪が、迷いなく龍三へと迫る。
「やば――」
尻餅をついたままだったこともあり、反応が僅かに遅れる。
逃げきれない。
そう思った、その刹那。
「龍三!」
龍三の視界に、小さな背中が割り込んだ。
小雪が、龍三と土偶の間に割って入るようにして立ち塞がる。
既に腕を振り下ろしている土偶の勢いは止まらない。
土で出来た魔手がそのまま小雪に向かって襲い掛かる。
しかし――
彼女に触れる寸前。
土偶の手は、見えない何かに激突したかのように、大きく仰け反った。
次の瞬間、衝撃が逆流するように走り――
バキンッ!!
腕の先から崩壊が始まった。
指が砕け、手のひらが裂け、前腕が粉砕される。
土偶の巨体もそのまま勢いよく吹き飛び、倒れた衝撃で砕けた土片が四方に飛び散った。
破片がアーケードの天井に叩きつけられ、鈍い音を響かせる。
壁やシャッターにぶつかった土が砕け、細かな粒となって降り注いだ。
巻き上がる砂塵。
一瞬で、商店街が白く濁った。
その光景を――
商店街から二百メートルほど離れた雑貨ビルの屋上。
明りの届かないその場所から、一つの人影が静かに見つめていた。
――場面は戻り。
「……っ、すげぇ……」
龍三は目の前で起きた光景を見て、感嘆の声を漏らしていた。
巨大な土偶が、一瞬で吹き飛ばされたあの衝撃。
小雪の不可神域が改めてでたらめな力であることを再認識させられる。
だが、すぐにはっと我に返る。
「――って、感心してる場合じゃねぇ!」
立ち上がりながら、小雪の方へ振り返る。
「小雪、こっちだ!」
迷う余地はない。
とにかく、今はこの場を離れなければ。
龍三は小雪の手を掴み、そのまま商店街の出口へ向かって駆け出した。
「う、うむ……!」
小雪も頷き、足並みを揃えて走り出す――だが。
「……あっ!」
不意に、背後で小雪の声が上がった。
「危なっ――」
龍三が振り返り、咄嗟に腕を引き寄せる。
バランスを崩した小雪の身体が、そのままこちらへ倒れ込んできた。
「……っとと、」
小雪を優しく受け止める。
勢いのまま数歩よろけるが、何とか踏み留まった。
「大丈夫か? どうした?」
「いや、草履が……脱げてしもうた」
「草履?」
龍三が視線を落とすと、そこには片方だけ脱げたスリッパが転がっていた。
「いや、あれ家用のスリッパだから!」
思わずツッコミが飛ぶ。
そもそも外で走ることを想定した履き物じゃない。
こんな状況でまともに動けるはずがなかった。
小雪はきょとんとした顔でそれを見ている。
「草履ではないのか?」
「ちげぇよ!」
だが、そんなやり取りをしている余裕はない。
小雪はくるりと踵を返し、慌ててスリッパを拾いに戻ろうとする。
――しかし。
「……っ!?」
通りの奥。
先ほど小雪の拒絶能力で弾き飛ばされた土偶が既に起き上がっていた。
やはり、あれも妖魔なのか。
損傷した腕に周囲の瓦礫が集まり、みるみるうちに再生していく。
その時、土偶の前の地面が、ぐにり、と不自然に盛り上がった。
かと思えば、今度はまるで何かが地中を這うように、一直線にこちらへ向かってくる。
「なんだありゃあッ!?」
本能が、全力で警報を鳴らす。
何かが、来る。
「小雪!」
叫ぶと同時に、龍三は地面を蹴った。
迷いはない。小雪の細い身体を横抱きに抱え上げる。
「た、龍三……!? 何を、ひゃあ!」
いわゆる、お姫様抱っこというやつだ。
小雪が可愛らしい悲鳴を上げるが、そんなものは無視してそのまま全力で駆け出す。
「小雪、しっかり捕まってろよ!」
次の瞬間、ついさっきまで小雪が立っていた地面が、内側から叩き上げられたように爆ぜる。
土が弾け飛び、その中心から――
巨大な土の手が、空を掴むように突き出された。
背後で、再び地面が蠢く気配。
「……っ」
龍三の喉がひくりとなる。
だが、足は止めない。
結局小雪もスリッパを取り損ねて片方だけになってしまったが、それも仕方ないだろう。
腕の中の小雪を抱えたまま、龍三はただひたすらに商店街の出口を目指して走り続ける。
商店街のアーケードを抜け、外の通りへ飛び出す。
夜風が一気に流れ込み、視界が開けた。
龍三は小雪を横抱きにしたまま、懸命に足を動かす。
「なぁ、小雪……!」
走りながら、龍三が声を上げる。
「さっきの土偶や、今の土の手って……あれ全部、あの土鬼って奴の仕業なのか?」
小雪は一瞬だけ視線を背後へ向け、すぐに頷いた。
「うむ。恐らくな……」
短く、しかし確信のある声だった。
「どちらからも、同じ穢れの気配を感じた。あれらは全て、あの妖魔の妖術で生み出されたものと見て間違いないじゃろう」
「妖術?」
龍三が眉を潜める。
「霊能力者が霊力を源として術を行使するように、妖魔は”穢れ”を源にして力を振るう。それが妖術じゃ」
龍三は思わず舌打ちした。
「ってことは……あいつが本体で、土偶も土の手も、全部あいつの能力ってわけかよ……!」
「然り」
小雪は即答する。
「それに、この一帯の穢れ……ここに初めて足を運んだ時より、目に見えて濃くなっておる」
龍三の腕に抱かれながら、小雪が周囲を見回し冷静に分析する。
「確証はまだ持てぬが……あの妖魔の妖術と、何らかの形で結びついておる可能性が高い。下手をすれば地面も壁も、全てが奴の手足と思って動いた方がよいじゃろうな」
「はぁ!? それ逃げ場なくないか!?」
思わず声が裏返る。
冗談じゃない。地面そのものが敵とか、どうしろというんだ。
「落ちつくのじゃ。何も無限に操れるわけではない。何か条件があるはず……。でなければ、とうにこの街ごと奴の妖術に飲まれておる」
「……確かに」
少しだけ、現実味のある話になる。
だが、それでも十分すぎるほど脅威だ。
そんな会話を交わしているうちに――
視界の端に、交差点が見えてきた。
「……交差点! あそこに行こう!」
龍三が足に力を込めた、その時。
――ヒュッ。
頭上から一瞬、風を切る音がする。
「……?」
違和感を覚え、龍三が見上げようとした――次の瞬間。
龍三たちの目の前。その進路を塞ぐように、空から何かが降ってきた。
着地と同時。足元から突き上げるような衝撃が走り、骨の奥まで鈍く震える。
アスファルトが砕け、土煙が巻き上がる。
「……っ、今度はなんだ!?」
思わず足を止める。
視界が遮られる中……その向こうで、何かが動いた。
ざり……ざり……と複数の細長いものが、土煙の中でゆっくりと地面を掻くように動いている。
それを見て。
「ひっ、蜘蛛!」
抱きかかえていた小雪が悲鳴に近い声を上げた。
次の瞬間、ぎゅっと龍三の首にしがみつく。
「ちょっ、おい!」
突然の不安定な重みに、思わず体制がぐらつく。
「お、落ち着けって!」
必死にバランスを取りながら、龍三は前方へ目を凝らした。
確かに、脚のように見える。
細く長く、複数に分かれ、地面を這う影。
巨大な蜘蛛――そう言われれば、そう見えなくもない。
だが。
よく見れば見るほど、脚の動きが妙に不自然であることに気づく。
関節の位置もおかしい。
「あれは、蜘蛛っていうか……」
龍三は目を細め、土煙の向こうを睨みつけた。
やがて、風に流されるように煙が晴れ――その全貌が露わになる。
そこにいたのは、巨大な”手首だけ”の腕。
肘から先が切り取られたかのような異形。
その掌を地面に付き、五本の指で身体を支えるようにして立っている。
さっきまで蜘蛛に見えていたものの正体。
それは、地面についた巨大な手の”指”だったのだ。
そして、その”上”に。人影の姿があった。
「……追いついたぞ、常夜の巫女よ……」
低く、濁った声。
見下ろすように、天蓋の奥からこちらへ向けられる視線の気配。
「お前は……っ」
間違いない。
そこに居たのは、つい先ほど路地裏で相対したあの妖魔――土鬼だった。
「まだるっこしい。貴様らの居場所など、俺には手に取るようにわかるのだからな。逃げるだけ無駄だ……」
右手に握る巨大な菜切り包丁の刃が、月明かりに照らされてぎらりと光る。
「さぁ」
ゆらりと、土鬼が僅かに体重を移す。
そして左手を前に突き出し、低く告げる。
「大人しく、その腕に抱えている巫女をこちらへ引き渡せ」
「……っ」
「俺にはもう、時間がないのだ。あまり手間を取らせるな……」
その時、ピシッと、乾いた音が静寂に響いた。
「?」
龍三の視線が妖魔の胸元へと吸い寄せられる。
左胸。そこに大きなひびが入っていた。
表面が崩れ、その奥から――
黒く、鈍く光る何かが覗く。
「黒結晶……」
「黒結晶? なんだそれ?」
小雪を地面に降ろしながら、龍三が問う。
「黒結晶というのは、人の身体で言うところの心の臓に当たる部分。その名の通り、魂が穢れを浴びて、黒い結晶と化したものじゃ。本来ならば、あれを壊されると妖魔は消滅してしまうはずなんじゃが……」
どうなっておる? と小雪があり得ないものでも見るように土鬼を睨みつける。
妖魔はそれを聞いてくつくつと喉を鳴らした。
「如何にも」
自らの胸に走る亀裂を指でなぞる。
「見ての通り、俺の黒結晶は三日前――貴様の同類にやられてな。半ば壊された……」
「……どういうことじゃ? そこまで損傷しているなら、既に身体が崩壊していても不思議ではない。なのになぜ、その身を保っていられる?」
僅かな逡巡。
やがて、小雪の脳裏に一つの可能性が思い浮かぶ。
「……まさか。あの石化している者達は……」
「流石は常夜の巫女。鋭い洞察力、見事なり」
愉悦を滲ませた声。
「だがわかったところで、最早手遅れ……」
その言葉が放たれた直後。
背後から、ずしん、と重い振動が伝わってくる。
「……っ!」
小雪が弾かれたように振り向く。
その反応に、嫌な予感が背筋を走り、龍三もまた反射的に振り返った。
「……嘘だろ」
そこには――
すぐ後ろにまで迫る、巨大な土偶の姿があった。
「袋の鼠とは、まさにこのことだな……」
「くそっ!」
龍三が舌打ちする。
前には妖魔。
後ろには土偶。
逃げ道は、完全に断たれてしまっていた。
じり、と緊迫した空気が張り詰める。
認識が甘かった。
まさかこの妖魔が、ここまで多彩な攻撃手段を持っているとは思わなかった。
龍三をすぐに石化してこないあたり、石化させるのにも何か条件があるのだろうが、それでも、ただの一般人がまともに相対して勝てる相手ではないことは明確だった。
次の一手を誤れば、終わる。
絶体絶命という言葉が、脳裏をよぎる。
その時だった。
「――大手裏剣!」
凛とした声が、どこからともなく聞こえてくる。
次の瞬間――
二つの巨大な影が、空を裂いた。
一つは、龍三達と妖魔の間へ。
もう一つは、背後から迫る土偶の進路を断つように、その眼前へと。
唸りを上げながら、一直線に落下する。
「……っ!」
土の手首に乗っていた土鬼の視線が、鋭く走った。
二つ放たれた手裏剣、そのうちの一つが自らへ向かって飛来しているのを捉えた瞬間――
土鬼の身体が、土の手首ごと反射的に後方へ跳んだ。
直後、先程まで土鬼が居た場所を、巨大な手裏剣が容赦なく抉る。
砕けた破片が宙を舞い、土煙が一気に噴き上がった。
「なっ――」
龍三が顔を見上げる。
地面を抉りながら聖剣のように突き刺さっているのは、三メートルはあろうかという巨大な手裏剣。
その、十字の手裏剣の頂点に、三日月を背にして人影が一つ、立っていた。
「ちぃっ」
それを見て、土鬼が舌打ちする。
「もう追いついてきたか……」
その言葉に、龍三は息を呑んだ。
三日月を背に、浮かび上がるシルエット。
「誰だ、あれ……?」
次の瞬間。
その人影が、手裏剣の上から軽やかに跳んだ。
空中でくるりと身を捻り、音もなく着地する。
土煙が晴れる中、姿を現したのは、一人の少女だった。
腰まで届く長い黒髪を、手裏剣の形をした髪留めで高く結い上げたポニーテール。
その髪が、着地の余韻でふわりと揺れる。
首には鮮烈な赤いマフラー。夜風を受けて翻り、暗がりの中でも強い存在感を放っていた。
身に纏うのは、動きやすさを重視した忍び装束。
ノースリーブで丈の短い上衣は身体に沿って張り付き、無駄のないラインを際立たせている。
腰から下は両脚の側面に深いスリットの入った黒布が巻かれていた。
その腰を締めるのは、鮮やかな赤い帯。さらにその上から、細くしなやかな緑の紐が幾重にも絡まるように重ねられ――正面で蝶々結びに結ばれている。
結び目から伸びる余りの紐は長く垂れ、風に煽られて軽やかに揺らめいていた。
腕には網状の籠手が巻かれ、脚には黒のタイツを履いている。
引き締まった身体付きと、無駄のない立ち姿。
その佇まいだけで、只者ではないと分かる。
「……!」
その人物を見て、小雪が目を丸くする。
「お主、もしや……凛か?」
「はい! お久しうござります、小雪様!」
凛と問われた少女は、ゆっくりと顔を上げたかと思えば、今度はぴしりと背筋を伸ばし、どこか芝居がかった仕草で名乗りを上げた。
「春風凛、只今参上仕りました!」
その名に違わぬ凛とした声が、夜の交差点に響き渡る。




