第8話 交錯する諜報戦
1942年1月8日。
戦艦「長門」艦内。
連合艦隊旗艦・会議室。
数名の高級将校が長机を囲み、室内には重苦しい空気が漂っていた。
机上には、昨夜届けられた一通の電報が置かれている。
その内容は、伊号第176潜水艦が消息を絶つ直前、最後に送信した報告であった。
通信士官が立ち上がり、報告を始める。
「報告します、司令長官。」
「伊号第176潜水艦の最後の発信時刻は、一九時一七分です。」
山本五十六は静かにうなずいた。
「つまり、夜間か。」
一人の参謀が続ける。
「仮に米軍駆逐艦に発見されたのであれば、通常であれば潜水艦は『水上艦艇に追跡されている』と打電してくるはずです。」
別の将校も補足した。
「しかし、最後の電報には米軍艦艇に関する記述は一切ありませんでした。」
山本は無言のまま、手にした電報へ視線を落とす。
そこに記されていた最後の一文は、わずか数文字だけだった。
『黒鴉ニ発見。直チニ潜航ス。』
しばしの沈黙。
やがて山本は、低くつぶやくように口を開いた。
「黒鴉……。」
「つまり。」
「彼らを発見した敵は、その航空機だけだったということだ。」
山本はゆっくりと顔を上げる。
「潜水艦が夜間に浮上航行するのは、最も安全な航法だ。」
「闇は最大の隠れ蓑となる。」
「通常であれば、航空機が夜間に浮上中の潜水艦を発見することは、ほぼ不可能と言っていい。」
そこで一度言葉を切る。
「だが――。」
「もし可能だとすれば……。」
「その航空機は、あらかじめ伊号潜水艦の位置を把握していた可能性が高い。」
その一言が会議室に落ちた瞬間。
その場にいた将校たちは、誰一人として言葉を発することができなかった。
山本は静かに続ける。
「黒鴉は偶然、伊号第176潜水艦を発見したのではない。」
「最初から目標へ向かって飛んでいた。」
「つまり、伊号潜水艦の位置を知っていたのだ。」
一人の参謀が慎重に異論を口にする。
「司令長官。」
「単に米軍機から爆雷攻撃を受けただけではないでしょうか。」
別の将校も同意するようにうなずいた。
「夜間であっても、運が良ければ浮上中の潜水艦を発見できる可能性はあります。」
山本はすぐには答えなかった。
視線は依然として電報に注がれたままだ。
しばらくして、静かに口を開く。
「もし通常の空襲であったなら。」
「伊号第176潜水艦には、敵機の攻撃を受けたと報告する時間くらいはあったはずだ。」
「たとえ爆雷攻撃を受けたとしても、敵機の機種や攻撃方向、あるいは戦況の一端くらいは打電できたはずだ。」
山本は電報を静かに机の上へ戻した。
「しかし――。」
「最後に残された報告は、たった一文だけだった。」
『黒鴉ニ発見。直チニ潜航ス。』
山本は落ち着いた口調で分析を続ける。
「伊号第176潜水艦は、黒鴉を目撃した直後、ほとんど躊躇することなく潜航を開始している。」
「その一連の経過は、おそらく数分にも満たなかったはずだ。」
そう言うと、彼は顔を上げ、会議室にいる将校たちを見渡した。
「つまり――。」
「黒鴉を発見してから消息を絶つまで、その間隔は極めて短かったということだ。」
会議室は再び静寂に包まれた。
やがて、一人の将校が耐えきれず口を開く。
「ですが……。」
「夜間に航空機が潜水艦を発見するなど、本当に可能なのでしょうか。」
山本は低い声で答えた。
「そこが最大の疑問だ。」
「あれは偶然、その海域を飛行していたのではない。」
「最初から伊号潜水艦を目指して飛んでいた。」
そう言って、山本はゆっくりと立ち上がり、壁に掲げられた太平洋の海図の前へ歩み寄る。
「諸君。」
「現在までに判明している情報を、改めて見てほしい。」
彼の指が海図の上を静かになぞる。
「真珠湾。」
「伊号第176潜水艦の消息喪失海域。」
「そして、黒鴉が目撃されたその他の地点。」
最後に、その指先はハワイ周辺で止まった。
「すべての情報は、ハワイ周辺に集中している。」
一人の参謀が眉をひそめる。
「司令長官……それはつまり。」
山本は静かにうなずいた。
「仮に黒鴉が米海軍の最新鋭艦載機であるならば。」
「これほどの速度と戦闘能力を持つ以上、帝国本土への侵攻も十分可能なはずだ。」
「東京への直接攻撃すら、不可能ではあるまい。」
彼は一拍置いて続けた。
「しかし、奴はそうしなかった。」
「真珠湾攻撃以来、一度たりともハワイ周辺を離れた形跡がない。」
「つまり、離れないのではない。」
「離れられないのだ。」
別の将校が考え込むように呟く。
「……行動に何らかの制約がある、ということでしょうか。」
山本は海図を見つめたまま答えた。
「燃料かもしれん。」
「母艦の位置かもしれん。」
「あるいは、我々のまだ知り得ない別の要因かもしれない。」
「だが、一つだけ確かなことがある。」
「奴の活動範囲は、太平洋全域ではない。」
そう言って、山本はハワイ近海を指でゆっくりと円を描いた。
「この海域に限定されている。」
山本は振り返り、鋭い視線で将校たちを見渡す。
「ならば。」
「太平洋中を探し回る必要はない。」
「この海域に餌を撒けば、奴は必ず姿を現す。」
一人の参謀が息を呑みながら問いかけた。
「連合艦隊司令長官……それはつまり。」
山本は力強く言い放つ。
「こちらから仕掛ける。」
「主導権はこちらが握る。」
会議室は、一瞬にして静まり返った。
やがて、一人の将校が疑問を口にする。
「ですが……。」
「我々は、黒鴉が今どこにいるのかすら把握しておりません。」
山本はわずかに口元を緩めた。
「分からないのなら。」
「こちらから誘い出せばいい。」
彼の視線は再びハワイ周辺の海域へ向けられる。
「奴は自ら帝国潜水艦を狩りに来る。」
「ならば、その性質を利用する。」
「奴自身に姿を現させればいい。」
その時だった。
コンコン――。
会議室の扉がノックされる。
「失礼します。」
情報将校が室内へ入り、つい先ほど傍受したばかりの米軍無線通信記録を山本の前へ差し出した。
「報告します、司令長官。」
「米軍の通信を傍受することに成功しました。」
山本は資料を手に取り、そこに記された幾つかの単語へ視線を止める。
『ホーネット』
『オアフ島』
『対潜戦成功』
『ウィルソン少尉』
数秒の沈黙。
山本は静かに資料を机へ置いた。
「諸君。」
「消息を絶った伊号第176潜水艦だが……。」
「どうやら答えが出たようだ。」
情報将校は力強くうなずく。
「現時点では、『対潜戦成功』と報告されている『ホーネット』こそ、我々が追跡している『黒鴉』である可能性が極めて高いと判断しております。」
別の将校も続ける。
「さらに通信には、『ウィルソン少尉』という人物の名も記されていました。」
「我々は、この人物が黒鴉の搭乗員の一人である可能性が高いと見ています。」
山本は壁に掛けられたハワイの地図へ目を向ける。
「オアフ島……。」
「真珠湾か……。」
静かにつぶやく。
「そう考えると、黒鴉は偶然あの海域へ現れたわけではない。」
「その根拠地は、真珠湾にある可能性が極めて高い。」
数秒考え込んだ後、山本は力強く命じた。
「作戦を変更する。」
「ハワイの情報網に命じろ。」
「本日をもって、フォード島および周辺航空基地の監視を全面的に強化せよ。」
「『ウィルソン少尉』を中心に調査を開始する。」
「身元、所属部隊、そして接触した人物をすべて洗い出せ。」
「特に、最近配属された人員には細心の注意を払え。」
情報将校は直立不動の姿勢を取り、大きく返答した。
「はっ!」
山本はしばらく考え込むと、再び口を開いた。
「先月、我々は現在判明している黒鴉に関する情報を、ドイツ帝国へ提供した。」
「米国が新たな兵器を保有している以上。」
「帝国も立ち止まるわけにはいかん。」
彼は隣に控える参謀へ視線を向ける。
「海軍技術本部へ通達せよ。」
「大和型戦艦の対空兵装について、全面的な再検討を命じる。」
その場にいた将校たちは、一様に息をのんだ。
「司令長官……それは。」
山本は静かにうなずく。
「黒鴉の存在は、将来の海戦において、航空戦力が我々の想像以上の脅威となることを示している。」
「たとえ大和が世界最強の装甲と四十六センチ主砲を備えていようとも。」
「敵機を撃墜できなければ。」
「その巨艦も、海上に浮かぶ的に過ぎん。」
会議室は再び静寂に包まれた。
山本は最後の指示を下す。
「対空機銃および高角砲の配備を増強せよ。」
「さらに、電探と対空射撃指揮装置についても、抜本的な研究を進めるのだ。」
「必要であれば、副兵装や艦載設備の一部を犠牲にしてでも、防空能力の強化を優先せよ。」
参謀は直ちに立ち上がり、敬礼した。
「はっ!」
山本は窓の外へ視線を向け、静かに言った。
「もしアメリカが航空機によって海戦の在り方を変えようというのなら。」
「帝国もまた、新たな時代を迎える覚悟を決めねばならん。」
参謀たちは一斉に立ち上がり、山本へ敬礼した。
やがて、次々と命令が戦艦「長門」から各海軍部隊へ発せられていく。
その場にいた誰一人として知らなかった。
この日下された数々の命令が、帝国海軍の発展を、本来の歴史とは異なる方向へ導いていくことを。
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数千キロ離れた地。
ドイツ帝国・ベルリン。
「極秘」と記された一冊の報告書が、一人の将校の机へ静かに置かれた。
表紙には、ただ一行だけ記されている。
『日本海軍機密報告書――コードネーム「黒鴉」』
将校は無言のまま、報告書をめくり始めた。
真珠湾。
正体不明の航空機。
ページをめくるたび、その表情は次第に険しくなっていく。
そして最後のページには、現在判明している特徴が整理されていた。
一、飛行速度および旋回性能は、現用各国戦闘機を大きく上回る。
二、目視圏外から敵機を撃墜可能。
三、発射されたロケット弾は自律的に目標を追尾し、回避は極めて困難。
四、単機で一個航空隊に匹敵する火力を有する。
五、未知の探知装置を搭載し、敵部隊を先に発見できる可能性が高い。
六、新型ジェット推進機関を採用している疑いあり。
将校は静かに報告書を閉じた。
「もし、この報告が事実だとすれば……。」
「我が国のジェット戦闘機計画は、まだ試験段階に過ぎない。」
「まさか……アメリカは、すでにジェット戦闘機の実戦運用に成功したというのか。」
彼はゆっくりと息を吐く。
「もし日本海軍の報告に誇張がないのなら。」
「この機体が採用している兵器技術は、推進方式の優劣という次元ではない。」
「航空技術そのものが……我々より数十年先を行っている。」
「もはや、これは単なる新型戦闘機ではない。」
「戦争そのもののルールを書き換える兵器だ。」
将校は机上のインターホンのスイッチを押した。
「ハワイ情報支局へ繋げ。」
受話器の向こうから、すぐに返答が返ってくる。
「ご命令を。」
将校は落ち着いた口調で命じた。
「本日より、真珠湾周辺の米軍航空基地を厳重に監視せよ。」
「とりわけ、『黒鴉』に関係するあらゆる不審な動向を見逃すな。」
一拍置き、さらに付け加える。
「日本側との情報共有体制を構築せよ。」
「新たな目撃情報、写真、飛行経路、ならびに関係者の情報を入手次第、最優先でベルリンへ送れ。」
「了解しました。」
将校はさらに命じる。
「必要であれば、日本海軍情報部と共同で分析・行動して構わない。」
「承知しました。」
通信が切れる。
将校は再び報告書を手に取り、その表紙に記された『黒鴉』の二文字を見つめた。
長い沈黙の後、誰にも聞こえないほど小さく呟く。
「いつの日か……。」
「この目で、その航空機を見てみたいものだ。」




