第八章 大丈夫じゃない人
十月三日。
土曜日。
朝八時十六分。
蓮は駅前の時計を見上げた。
「……早すぎたかな」
今日は学校が休みだった。
それなのに。
蓮はいつもより早く、家――ではなく、支援施設を出ていた。
理由は一つ。
美雪と会う約束をしていたからだ。
昨日の夜。
『明日、暇?』
美雪からメッセージが届いた。
『暇だけど』
『じゃあ、付き合って』
『どこに?』
『秘密』
『怪しい』
『失礼』
そして最後に。
『午前九時、駅前』
そう書かれていた。
蓮はもう一度時計を見た。
まだ八時二十分。
「……来るの早すぎた」
苦笑しながらベンチに腰を下ろす。
スマートフォンを確認する。
メッセージはない。
蓮はスマートフォンをポケットにしまい、空を見上げた。
秋の空。
雲は少なく、風も涼しい。
何となく。
今日は、良い日になりそうな気がした。
「綾小路くん!」
聞き慣れた声がした。
振り返る。
美雪がこちらへ走ってくる。
「ごめん!」
「……また?」
「今日は寝坊してないよ」
「じゃあ、何で遅いの?」
「服、選んでた」
「……」
蓮は美雪を見つめた。
制服ではない。
白いブラウスに、淡い色のスカート。
髪も、いつもより少しだけ整っている。
「……何?」
「いや」
「何か言いたそうだけど」
「私服、初めて見たなって」
「そう?」
「うん」
「変?」
「いや」
蓮は少しだけ考えた。
そして。
「……似合ってる」
美雪が黙った。
「……」
「……何?」
「今の、もう一回言って」
「言わない」
「なんで?」
「恥ずかしいから」
美雪は少し頬を赤くしながら笑った。
「綾小路くんって、たまに素直だね」
「たまにって何だよ」
「たまに」
「……」
二人は並んで歩き始めた。
最初に向かったのは、小さな商店街だった。
休日だからか、人が多い。
「ここ、何するの?」
「食べ歩き」
「朝飯、食べたけど」
「別腹」
「意味分からない」
「いいから」
美雪はたい焼きを買った。
「半分食べる?」
「いいの?」
「うん」
蓮は受け取る。
「あつっ」
「気をつけて」
「美雪が先に言えよ」
「ごめん」
二人で笑った。
たい焼き。
団子。
小さなクレープ。
どれも特別高いものではない。
それでも。
蓮は楽しかった。
財布の中身を気にしてしまう自分は、まだ変わっていない。
けれど。
美雪と話している間だけは。
そんな不安さえ、少し遠くに感じられた。
昼過ぎ。
二人は商店街を抜けた。
「次、どこ?」
「映画」
「映画?」
「うん」
「高くない?」
「今日は私が出す」
「駄目」
「どうして?」
「俺が払う」
「お金ないでしょ」
「……」
蓮は言葉に詰まった。
美雪がくすっと笑う。
「図星」
「……」
「今日は私に任せて」
「でも……」
「じゃあ、いつか返して」
「……またそれ?」
「うん」
蓮は少しだけ笑った。
「分かった」
二人は映画館へ向かった。
映画が終わった。
午後三時半。
「泣いた?」
美雪が聞く。
「泣いてない」
「目、赤いよ」
「映画館の空調」
「絶対違う」
「美雪は?」
「……少し」
「じゃあ、同じ」
「ふふ」
二人は映画館を出た。
夕方の街。
傾き始めた太陽が、建物の隙間から二人を照らしている。
蓮はふと空を見上げた。
「綺麗だな」
「夕日?」
「うん」
「写真、撮る?」
「いい」
「なんで?」
「写真に残すほどじゃない」
「もったいない」
美雪はスマートフォンを取り出した。
カシャ。
「撮った」
「何で勝手に」
「今日の記念」
「……記念?」
「初めての休日だから」
蓮は少し黙った。
「……そうだな」
たったそれだけの言葉。
なのに。
なぜか、胸の奥が温かくなった。
夕方。
二人は川沿いのベンチに座っていた。
美雪がコンビニで買った飲み物を蓮に渡す。
「はい」
「ありがとう」
蓮は受け取った。
川面が夕日に照らされ、ゆっくりと揺れている。
「今日は楽しかった」
美雪が言った。
「うん」
「綾小路くんは?」
「楽しかった」
「本当に?」
「うん」
「じゃあ、また行こう」
「……」
蓮は返事をしなかった。
「どうしたの?」
「……いや」
胸の奥が。
ほんの少しだけ痛かった。
今日は楽しかった。
だからこそ。
怖かった。
こんな時間が、いつまでも続くわけではないことを。
蓮は知っている。
「綾小路くん?」
「……何でもない」
「また?」
「うん」
「大丈夫?」
「大丈夫」
美雪は黙った。
そして。
「……嘘」
「え?」
「今の『大丈夫』、嘘でしょ」
蓮は何も言えなかった。
「どうして?」
「分かるよ」
「何が?」
「顔」
「……」
「綾小路くんが大丈夫じゃないときの顔」
蓮は視線を落とした。
「……そんなに分かりやすい?」
「うん」
「そっか」
「何が怖いの?」
「……」
蓮は答えなかった。
美雪は急かさなかった。
ただ、隣に座っていた。
何も聞かず。
何も責めず。
ただ、そこにいてくれた。
しばらくして。
「……俺さ」
「うん」
「昔から、あんまり人に頼るのが好きじゃないんだ」
「どうして?」
「迷惑かけたくないから」
「迷惑じゃないよ」
「でも……」
「私には」
美雪が蓮を見る。
「迷惑じゃない」
蓮はゆっくり顔を上げた。
「……」
「だから」
美雪は少しだけ迷うようにして、それでもまっすぐ言った。
「私の前では、『大丈夫』って嘘つかなくていいよ」
蓮は何も言えなかった。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
痛いわけじゃない。
むしろ。
ずっと欲しかった言葉を、初めてもらったような気がした。
夕日がゆっくりと沈んでいく。
空が赤く染まる。
風が少し冷たくなる。
そして。
「……怖い」
蓮は初めて、その言葉を口にした。
「何が?」
「……明日」
「明日?」
「明日も、生きていけるのか」
美雪の表情が変わった。
「……」
「今は助けてもらってる」
「うん」
「でも……」
蓮は拳を握りしめた。
「いつまで続くか分からない」
「……」
「また一人になるかもしれない」
「……ならないよ」
「分からないだろ」
「分かる」
「なんで?」
「私がいるから」
蓮は美雪を見る。
「……」
「少なくとも、私がいる間は一人じゃない」
その言葉を聞いて。
蓮は、ほんの少しだけ笑った。
「……それ、ずるいな」
「何が?」
「そんなこと言われたら、何も言えない」
「じゃあ、言わなくていいよ」
「……」
二人は並んで川を眺めた。
しばらく、何も話さなかった。
でも。
その沈黙は。
不思議なくらい心地よかった。
夜。
蓮は施設へ戻った。
部屋のドアを閉める。
ベッドに腰を下ろし、スマートフォンを取り出した。
今日撮った写真。
美雪が笑っている。
その隣に。
自分がいる。
蓮は、その写真をじっと見つめた。
「……こんな顔するんだな」
自分でも知らなかった。
こんなに自然に笑えるなんて。
家を追い出されて。
すべてが終わったと思っていた。
もう、自分には何も残っていないと思っていた。
でも。
違った。
もしかしたら。
ここから始まるのかもしれない。
新しい人生が。
蓮はスマートフォンを胸の上に置いた。
そして目を閉じる。
そのとき。
胸に。
また痛みが走った。
「……っ」
蓮は息を止めた。
数秒。
十秒。
痛みが消えていく。
蓮はベッドの横に置いていた薬を手に取った。
袋には、病院の名前が印刷されている。
その文字を見つめているだけで。
さっきまでの幸福な気持ちが、少しずつ遠ざかっていく。
蓮は薬の袋を強く握った。
そして。
引き出しの奥へしまった。
「……まだ言えない」
誰にも。
美雪にも。
言えない。
この秘密だけは。
知られてはいけない。
蓮は目を閉じた。
今日の美雪の笑顔を思い出す。
駅前で走ってきた姿。
一緒に食べたたい焼き。
映画館で笑ったこと。
川沿いで交わした言葉。
そして――
『私の前では、「大丈夫」って嘘つかなくていいよ』
その言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
「……また、行きたいな」
小さく呟いて。
蓮は眠りについた。
同じ頃。
美雪もまた、自分の部屋で今日撮った写真を見つめていた。
画面の中では。
二人が笑っている。
美雪は写真を見ながら、少しだけ口元を緩めた。
そして。
「……綾小路くん」
小さく名前を呼んだ。
けれど。
その笑顔は、すぐに消えた。
昼間の川沿いで見た、蓮の顔を思い出したからだ。
あの「大丈夫」は。
きっと。
本当の大丈夫ではない。
美雪はそう感じていた。
彼女はまだ知らない。
蓮が隠しているものの、本当の意味を。
そして蓮も。
まだ知らない。
今日という一日が。
いつか自分の人生で、一番大切な「思い出」になることを。
――そして。
その思い出を守るために。
二人が大きな選択を迫られることを。




