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『君がいない春に、僕は生きる』  作者: 綾小路如月


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第七章 笑える理由

十月一日。


 朝の空気が、昨日より少しだけ冷たかった。


 蓮は駅から学校へ向かう道を歩いていた。


 昨日までなら、この時間は眠くて仕方がなかった。


 けれど、今日は違う。


 ちゃんと眠れた。


 たったそれだけのことなのに、世界が少し明るく見える気がした。


「……おはよう」


 歩きながらスマートフォンを確認すると、美雪からメッセージが届いていた。


『今日も学校来る?』


 蓮は思わず小さく笑った。


『来るよ』


 すぐに返信が返ってくる。


『よかった』


『なんで?』


『昨日、途中で寝そうだったから』


『誰のせいだよ』


『私』


『分かってるじゃん』


 少しして、またメッセージが届いた。


『今日のお昼、屋上ね』


『またおにぎり?』


『秘密』


 蓮はスマートフォンをポケットにしまった。


 そして、いつものように学校へ向かった。


 けれど。


 今日は、いつもより足取りが軽かった。


     


 昼休み。


 昨日と同じ場所。


 屋上近くのベンチに、美雪は先に来ていた。


「遅い」


「一分だけだろ」


「一分は大きいよ」


「昨日もそれ言ってたな」


「覚えてたんだ」


「まあ」


 美雪が嬉しそうに笑う。


「はい」


 バッグから弁当箱を取り出した。


 蓮が中を覗き込む。


「今日は?」


「オムライス」


「……本当に好きなんだな」


「好き」


「子供っぽい」


「また言った」


「でも、美味しそう」


「食べる?」


「いいの?」


「一口だけ」


 美雪がスプーンを差し出す。


 蓮は一瞬、戸惑った。


「……これ、俺が食べていいの?」


「うん」


 蓮は少し照れながら、一口食べた。


「……美味しい」


「本当?」


「うん」


「じゃあ、もう一口」


「いいの?」


「どうぞ」


 蓮はもう一度スプーンを口に運んだ。


「……やっぱり美味しい」


 美雪は嬉しそうに笑った。


「よかった」


 その笑顔を見ていると。


 蓮も自然と口元が緩んだ。


 こんな時間が。


 ずっと続けばいい。


 そんなことを思った。


 ――けれど。


 その瞬間。


 胸の奥に、鋭い痛みが走った。


「……っ」


 蓮は反射的に胸元を押さえた。


「どうしたの?」


「……何でもない」


「今、痛かった?」


「ちょっと」


「どこ?」


「胸」


 美雪の表情が、一瞬で変わった。


「病院、行った?」


「……」


「綾小路くん?」


「行ったことはある」


「いつ?」


「……前に」


「何て言われたの?」


 蓮は答えなかった。


 美雪は心配そうに彼の顔を見つめている。


「大丈夫?」


「うん」


「……またそれ」


「本当に大丈夫だから」


「……」


 美雪は納得していない顔をしていた。


 けれど、それ以上は聞かなかった。


 蓮も何も言わなかった。


 ただ、二人の間を冷たい風が通り抜ける。


 木の葉が一枚。


 二人の間に、静かに落ちた。




 放課後。


 蓮は一人で校門を出た。


 今日は美雪に用事があるらしい。


『先に帰ってて』


 そう言われた。


 蓮は一人で駅へ向かった。


 途中。


 また胸が痛くなった。


 今度は、昼間よりも長い。


「……」


 蓮は足を止めた。


 胸元を押さえながら、ゆっくりと息を吸う。


 そして、ゆっくり吐いた。


 一度。


 二度。


 やがて、痛みが少しずつ引いていく。


「……大丈夫」


 誰もいない道で、蓮は小さく呟いた。


 けれど、その声は自分自身に言い聞かせているようだった。


 スマートフォンを取り出す。


 画面には、以前撮った写真が一枚残っていた。


 病院。


 白い壁。


 診察券。


 その写真を見るだけで、胸の奥が重くなる。


 蓮はしばらく画面を見つめていた。


 そして。


 何もなかったように、画面を閉じた。


 まだ。


 美雪には言えない。


 言いたくなかった。


 知られたくなかった。


 自分が――


 普通の十七歳ではないことを。



 その夜。


 美雪からメッセージが届いた。


『今日、先に帰ってごめん』


『別にいいよ』


『怒ってる?』


『怒ってない』


『本当に?』


『本当』


『じゃあ、質問』


『何?』


『明日、一緒に学校行かない?』


 蓮は少しだけ考えた。


 そして、短く返信する。


『いいよ』


『約束ね』


『うん』


 スマートフォンを置く。


 部屋の中は静かだった。


 窓の外には、街の明かりが広がっている。


 走っていく車のライト。


 遠くに見えるビルの明かり。


 蓮はベッドに腰を下ろした。


 そして、財布を開く。


 中には、まだ少しだけお金が残っていた。


 以前なら、それを見るだけで不安になった。


 明日をどうするのか。


 この先どうなるのか。


 そんなことばかり考えていた。


 でも。


 今は、少しだけ違う。


 明日の朝、目を覚ます場所がある。


 学校へ行けば、話す相手がいる。


 昼になれば、一緒にご飯を食べる人がいる。


 放課後になれば、自分を待ってくれる人がいる。


 それだけで。


 生きることが、少しだけ楽になった気がした。


「……美雪」


 名前を呟く。


 すると。


 不思議なくらい、胸の奥が温かくなった。


 痛みとは違う。


 もっと優しくて。


 もっと安心できる温かさだった。



 翌朝。


 午前七時二十分。


 駅前。


 蓮は美雪を待っていた。


 十分。


 二十分。


 それでも、来ない。


「……遅いな」


 スマートフォンを確認する。


 メッセージはない。


 蓮は少しずつ心配になってきた。


 そのとき。


「綾小路くん!」


 遠くから声が聞こえた。


 振り向くと、美雪が走ってくる。


「ごめん!」


「どうした?」


「寝坊した」


「……」


「何?」


「いや」


「笑ってる?」


「ちょっと」


「ひどい」


「ごめん」


 二人は並んで歩き始めた。


 美雪はまだ少し息を切らしている。


「朝ご飯、食べた?」


「食べてない」


「駄目じゃん」


「寝坊したから」


「これ」


 美雪がバッグから小さな包みを取り出した。


「何?」


「おにぎり」


「……また?」


「今日は二つ」


「俺の?」


「一つは私」


「なるほど」


 二人は歩きながら、おにぎりを食べた。


 朝の冷たい風。


 制服の袖を揺らす風。


 まだ少し眠そうな美雪。


 そして、どうでもいいようなくだらない会話。


 そんな何気ない時間が。


 蓮には、とても大切に思えた。


 それだけなのに。


 蓮は幸せだった。


 自分でも不思議なくらい。


 ――幸せだった。


「美雪」


「ん?」


「俺さ」


「うん」


「最近、よく笑うようになった気がする」


「そう?」


「うん」


「じゃあ、いいことだね」


「……そうだな」


 美雪は笑った。


「もっと笑えばいいよ」


「そんな簡単に言うなよ」


「簡単だよ」


「なんで?」


「笑えるときに笑えばいいから」


 その言葉を聞いた瞬間。


 蓮は、ほんの少しだけ足を止めた。


「……そうだな」


 胸の奥に、何かが静かに響いた。


 笑えるときに、笑えばいい。


 それは、今までの蓮にはなかった考えだった。


 未来のこと。


 お金のこと。


 自分の身体のこと。


 考えれば考えるほど、不安になることばかりだった。


 それでも。


 今、この瞬間だけは。


 笑っていてもいいのかもしれない。


 蓮は小さく笑った。


「行こう」


「うん」


 二人は再び歩き始めた。



 その日の放課後。


 蓮は学校の階段を一人で下りていた。


 そのとき。


 突然。


 胸に強い痛みが走った。


「……っ!」


 蓮は壁に手をついた。


 息が苦しい。


 うまく呼吸ができない。


 視界が少しずつぼやけていく。


「……くっ」


 誰かが来る前に。


 蓮は目を閉じた。


 一秒。


 二秒。


 時間だけが、ゆっくりと過ぎていく。


 やがて。


 痛みが少しずつ消えていった。


 蓮は荒い息を整えながら、ゆっくりと立ち上がる。


「……まだ、大丈夫」


 けれど。


 その声には。


 自分自身を安心させるための響きしかなかった。


 ポケットの中に手を入れる。


 指先が、小さな薬の袋に触れた。


 蓮はそれを強く握りしめた。


 そして。


 誰にも見られないように。


 何事もなかったかのように。


 階段を下りていった。


 ――その背中を。


 少し離れた場所から、美雪が見ていた。


「……綾小路くん?」


 蓮は気づいていなかった。


 美雪が。


 初めて。


 彼の「大丈夫」という言葉を。


 疑い始めたことを。


 そして。


 この小さな違和感が。


 二人の未来を、大きく変えていくことを。

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