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『君がいない春に、僕は生きる』  作者: 綾小路如月


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第六章 二つのおにぎり

 2026年9月30日。


 午前六時三十分。


 蓮は目を覚ました。


 最初に感じたのは、柔らかな布団の感触だった。


 次に目に入ったのは、見慣れない天井。


 そして――静けさ。


「……」


 蓮は、しばらく動かなかった。


 昨日までとは違う。


 駅のベンチではない。


 冷たい床でもない。


 誰かの足音を気にする必要もない。


 いつ追い出されるのかと、怯える必要もない。


 少なくとも、今夜は。


 蓮はゆっくりと上半身を起こした。


 借りた部屋は小さかった。


 ベッドと机。


 小さな棚。


 窓。


 それだけだった。


 でも――。


 蓮には、それで十分だった。


「……眠れた」


 久しぶりに。


 本当に、ちゃんと眠れた。


 時計を見る。


 午前六時三十二分。


「学校……」


 蓮は制服に着替えた。


 鏡を見る。


 昨日より、顔色がいい。


 目の下の隈も、少し薄くなっている。


「……これなら、大丈夫か」


 バッグを持ち、部屋を出る。


 スタッフに挨拶をする。


「おはようございます」


「おはよう、蓮くん。眠れた?」


「はい」


「よかった」


 その一言が、なぜか嬉しかった。


 誰かに「よかった」と言ってもらえる。


 たったそれだけのことなのに。


 蓮の胸の奥が、少しだけ温かくなった。


     *


 学校へ向かう途中。


 蓮のスマートフォンが震えた。


 メッセージだった。


 美雪からだ。


『おはよう』


 蓮は少し驚いた。


 昨日までなら、こんな朝に自分へメッセージを送ってくる人なんていなかった。


 それなのに――。


 返信する。


『おはよう』


 数秒後。


『ちゃんと寝た?』


『寝た』


『本当に?』


『本当』


『よかった』


 蓮は画面を見ながら、少し笑った。


『美雪は?』


『私は眠い』


『昨日寝てないからだろ』


『誰のせいだと思ってるの?』


『……俺?』


『そう』


『ごめん』


『許す』


『早いな』


『優しいから』


 蓮は思わず笑った。


 スマートフォンをポケットにしまう。


 そのとき――。


 ふと気づいた。


 自分が誰かと、こんなやり取りをしている。


 それ自体が、久しぶりだった。


 以前の家では。


 父親とも母親とも、必要なことしか話さなかった。


 友達とも。


 学校の話やゲームの話をするくらいだった。


 こんなふうに――。


 朝から誰かに「ちゃんと寝た?」なんて聞かれたことはなかった。


「……変な感じだな」


 でも。


 嫌ではなかった。


 むしろ――少しだけ、嬉しかった。



 午前八時。


 学校。


 蓮はいつもの席に座った。


「おはよう、蓮」


「おはよう」


「今日は顔色いいな」


「そう?」


「昨日、やばかったぞ」


「寝たから」


「どこで?」


 一瞬。


 蓮の手が止まった。


「……普通に」


「なんだよ、それ」


「秘密」


「怪しいな」


「そう?」


 友達は笑った。


 蓮も笑った。


 その会話が、少しだけ胸に刺さった。


 自分には秘密がある。


 家がない。


 でも――それを言えない。


 言ってしまったら。


 今ある、この「普通」が壊れてしまう気がした。


 チャイムが鳴る。


 授業が始まる。


 蓮はノートを開いた。


 昨日までとは、少し違う。


 今日はちゃんと眠れた。


 頭も、いつもよりよく働く。


 先生の説明が、ちゃんと耳に入ってくる。


 問題を解く。


 正解。


「綾小路、今日は調子いいな」


「そうですか?」


「ああ」


 蓮は小さく笑った。


 ほんの少しだけ。


 昨日までの自分に戻れたような気がした。


     *


 昼休み。


 蓮が教室を出ようとしたとき。


「綾小路くん」


 声がした。


 振り返る。


 美雪だった。


 教室の入り口に立っている。


 周囲の何人かが、美雪に視線を向ける。


「誰?」


「三年の先輩じゃね?」


「綺麗な人だな」


 蓮は少し困った。


「……どうした?」


「お昼」


「昼?」


「一緒に食べよう」


「ここで?」


「うん」


「……」


 クラスメイトたちがこちらを見ている。


 蓮は小さくため息をついた。


「分かった」


 二人は、学校の屋上近くにあるベンチへ向かった。


 人の少ない場所だった。


 美雪はバッグから弁当を取り出す。


 蓮も何か買おうと思っていた。


 しかし――。


「はい」


 美雪が、小さな袋を差し出した。


「何?」


「開けて」


 蓮が袋を開ける。


 中に入っていたのは――。


 おにぎりが二つ。


「……」


「朝、作った」


「二つ?」


「うん」


「俺の?」


「そう」


「……なんで?」


「昨日、ちゃんと食べてなかったでしょ」


「今日は食べるつもりだった」


「じゃあ、一緒に食べよう」


 蓮は、おにぎりを見つめた。


 一つ。


 そして、もう一つ。


 たった二つのおにぎり。


 それだけなのに。


 なぜか胸の奥が、じんと熱くなった。


「……」


「どうしたの?」


「いや……」


 蓮は小さく笑った。


「なんか……嬉しい」


 美雪が少し驚いた顔をする。


「……本当に?」


「うん」


「じゃあ、よかった」


 二人は並んでベンチに座った。


 蓮がおにぎりを一つ手に取る。


「いただきます」


「いただきます」


 一口食べる。


 中身は鮭だった。


「……美味しい」


「本当?」


「うん」


「よかった」


 美雪も自分のおにぎりを食べる。


「どう?」


「普通」


「ひどい」


「でも、美味しい」


「最初からそう言ってよ」


「ごめん」


 美雪が笑う。


 蓮も笑った。


 秋の風が二人の間を通り抜ける。


 まだ九月なのに、少しだけ涼しい。


 その風が心地よかった。


「ねえ」


 美雪が言う。


「何?」


「好きな食べ物ある?」


「急だな」


「いいから」


「……カレー」


「普通」


「じゃあ、美雪は?」


「オムライス」


「子供っぽい」


「失礼」


 二人は笑った。


 くだらない話。


 本当に、くだらない話だった。


 でも――。


 蓮は楽しかった。


 こんな時間が。


 この何でもない時間が。


 ずっと続けばいい。


 そんなことを、蓮は初めて思った。



 昼休みが終わる。


 二人は、それぞれの教室へ戻る。


「じゃあ、また放課後」


「うん」


「今日はちゃんと、相談員さんに言われた場所で寝てね」


「分かってる」


「無理しないで」


「……分かった」


「あと」


「何?」


「ちゃんと食べる」


「……はい」


「よろしい」


 美雪は満足そうに笑った。


 蓮は教室へ戻った。


 席に座る。


 すると、友達が聞いてきた。


「さっきの三年、誰?」


「……友達」


「へえ」


「それだけ」


「ふーん」


 友達はニヤニヤしている。


「何?」


「いや」


「絶対、何か考えてるだろ」


「別にー」


 蓮はため息をついた。


 でも。


 なぜか、少しだけ嬉しかった。


 「友達」と言えたことが。


 その言葉が、思った以上に心地よかった。



 放課後。


 校門を出る。


 美雪が待っていた。


「遅い」


「部活の友達に捕まってた」


「そう」


「怒ってる?」


「別に」


「怒ってる顔だろ」


「怒ってない」


「……そうですか」


 二人は歩き始めた。


 夕方の街。


 学生たちの笑い声。


 車の音。


 風に揺れる木々。


 そんな、いつもと変わらない風景。


 蓮はふと思った。


「美雪」


「ん?」


「昨日さ」


「うん」


「なんで、あんなに俺を気にしてくれたの?」


 美雪は少し黙った。


「……なんとなく」


「またそれ?」


「うん」


「理由になってない」


「じゃあ……」


 美雪は空を見上げた。


 夕暮れの空を見つめながら、静かに口を開く。


「綾小路くんが、昔の私に少し似てたから」


「……昔の?」


「うん」


「どんな?」


「一人で大丈夫って、言ってた頃」


 蓮は何も言わなかった。


 その言葉が、自分の胸に深く刺さった。


 まるで、自分のことを見透かされたような気がした。


 美雪は小さく笑う。


「だから――」


「……だから?」


「放っておけなかった」


 蓮は前を向いた。


 胸の奥が、少しだけ温かくなった。


「……ありがとう」


「また?」


「何度言っても、足りないから」


 美雪は少しだけ笑った。


「じゃあ、いつか本当に返してね」


「分かった」


「約束?」


「約束」


 二人は歩き続けた。


 夕日が、二人の影を長く伸ばしていく。


 その二つの影は、道路の上で並んでいた。


 まるで、最初から一つだったかのように。


 まだ二人は、自分たちがどんな未来を迎えるのか知らなかった。


 まだ――何も始まっていなかった。


 ただ。


 二つのおにぎりから始まった、小さな時間。


 それがいつか。


 二人にとって、何よりも大切な思い出になることを。


 このときの二人は、まだ知る由もなかった。

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