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『君がいない春に、僕は生きる』  作者: 綾小路如月


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第五章 「帰る場所、あるの?」

 午前六時十二分。


 東の空が、薄い青色に染まり始めていた。


 夜は、いつの間にか終わっていた。


 蓮はベンチに座ったまま、ぼんやりと空を見上げていた。


 隣では、美雪が眠っている。


 小さく丸まって、バッグを抱きしめるようにして眠っていた。


 昨日、初めて会ったばかりの少女。


 それなのに――。


 自分のために、夜中ずっと付き合ってくれた。


 蓮は、少しだけ申し訳ない気持ちになった。


「……起きろ」


 小さな声で呼びかける。


 美雪は動かない。


「美雪」


「……ん」


「朝」


「……あと五分」


「子供かよ」


「眠い……」


 蓮は思わず笑った。


 昨日の夜から、何度目だろう。


 自分が笑ったのは。


 美雪がゆっくりと目を開ける。


「……今、笑った?」


「笑ってない」


「また?」


「また」


「絶対笑った」


「寝ぼけてるんじゃない?」


「……むかつく」


 美雪は眠そうな目で蓮を睨んだ。


 それから、空を見上げる。


「朝だね」


「うん」


「寝てないね」


「うん」


「今日、学校どうする?」


「行く」


「本当に?」


「行く」


「倒れるよ?」


「大丈夫」


 美雪がじっと蓮を見る。


「……何?」


「また言った」


「何を?」


「『大丈夫』」


 蓮は黙った。


「それ、禁止にしようかな」


「なんで」


「だって、全然大丈夫じゃないもん」


 その言葉に、蓮は何も言い返せなかった。


 図星だった。


 美雪はバッグから小さなペットボトルを取り出した。


「水」


「ありがとう」


「あと、今日の朝ご飯」


「……これだけ?」


「私も食べてない」


「なんで?」


「昨日、綾小路くんが心配だったから」


「……」


「だから、一緒に食べよう」


 美雪はコンビニで買ったパンを取り出した。


 二人はベンチに並んで座り、パンを食べた。


 朝の街を眺めながら。


 パンと水だけの、何でもない朝食。


 それなのに――。


 蓮にとっては、久しぶりに感じる「誰かと食べる食事」だった。


 誰かと一緒に食べる。


 たったそれだけのことが、こんなにも温かいものだったのかと、蓮は少しだけ驚いていた。


「……美味しい」


「うん」


「昨日より美味しい気がする」


「一緒に食べてるからじゃない?」


「……そうかもな」


 美雪は嬉しそうに笑った。



 午前七時四十分。


 二人は駅から学校へ向かって歩いていた。


「ここから学校、近い?」


「徒歩十五分くらい」


「じゃあ、一緒に行こう」


「……いいの?」


「何が?」


「俺と歩いて」


「どうして?」


「……昨日会ったばかりだし」


「じゃあ、今日から知り合い」


「友達じゃなかったの?」


「昨日、友達になった」


「……そうだったな」


 蓮は少しだけ笑った。


 駅前の大通りには、通学する学生たちが増えていた。


 蓮と美雪も、その人の波に混ざって歩く。


 周りから見れば、ただの先輩と後輩。


 それ以上でも、それ以下でもない。


 けれど――。


 蓮にとっては、昨日までとは違う朝だった。


 学校が近づく。


 美雪が足を止めた。


「じゃあ、ここで」


「うん」


「放課後、待ってて」


「……何するの?」


「昨日言ったでしょ」


「相談?」


「うん」


 蓮の表情が少し曇った。


「……本当に必要かな」


「必要」


「俺、一人で何とかするから」


「どうやって?」


「……」


 答えられない。


「答えられないでしょ」


「……」


「だから、一緒に行こう」


 蓮は小さくため息をついた。


「分かった」


「約束?」


「約束」


 美雪は笑った。


「じゃあ、また放課後ね」


「うん」


 二人はそこで別れた。


 蓮は自分の教室へ向かい、いつもの席に座った。


「おはよう、蓮」


「おう」


「昨日どこ行ってた?」


「ちょっと用事」


「また?」


「まあな」


 蓮は笑った。


 誰も気づかない。


 自分が家に帰っていないこと。


 昨日の夜を駅で過ごしたこと。


 財布の中に三千円も入っていないこと。


 誰にも言っていない。


 言えるはずもなかった。


 それでも、授業中。


 蓮は何度も眠りそうになった。


「綾小路」


「……はい」


「寝るなよ」


「すみません」


 クラスメイトが笑う。


 蓮も笑った。


 いつも通り。


 何も変わっていない。


 ――ただ、一つだけ。


 放課後になれば。


 自分を待っている人がいる。


 それだけが、昨日までとは違っていた。



 午後四時三十分。


 蓮が校門を出ると、そこに美雪がいた。


「遅い」


「授業終わったばっかりだよ」


「三分遅刻」


「細かいな」


「三分は大事」


「何が?」


「人生の三分」


「……意味分からない」


 二人は並んで歩き始めた。


「ところで」


 美雪が言う。


「何?」


「昨日から、ちゃんと考えた?」


「何を?」


「今日の夜」


 蓮の足が止まった。


「……」


 美雪も足を止める。


「まだ考えてない?」


「……うん」


「じゃあ、相談に行こう」


「……分かった」


 昨日より少しだけ素直に、蓮は返事をした。


 二人は昨日の夜に見つけた、小さな建物へ向かった。


 青空ユースサポート。


 蓮にとっては、そこへ向かうこと自体が少し怖かった。


 自分のことを誰かに話す。


 助けを求める。


 それが、今までできなかったからだ。


 ドアを開ける。


 中には数人のスタッフがいた。


「こんにちは」


 女性スタッフが二人を見る。


「どうしました?」


 美雪が口を開こうとする。


 しかし――。


 蓮が先に言った。


「……俺が相談したいです」


 女性スタッフは、優しく微笑んだ。


「分かりました。どうぞ、座ってください」


 蓮は椅子に座った。


 美雪も、その隣に座る。


「お名前は?」


「綾小路蓮です」


「何歳ですか?」


「十七歳です」


「高校二年生?」


「はい」


「今日は、どうしましたか?」


 蓮は黙った。


 口が動かない。


 何から話せばいいのか分からなかった。


 家を追い出された。


 寝る場所がない。


 お金もない。


 親には頼れない。


 全部話すのが怖かった。


 言葉にしてしまえば、本当に自分には帰る場所がないと認めることになる気がした。


 スタッフは急かさず、ただ待っている。


 美雪も何も言わない。


 ただ、隣にいる。


 その存在が、今の蓮にはありがたかった。


 蓮はゆっくりと息を吸った。


「……家に」


 声が震えた。


「帰れなくなりました」


 スタッフの表情が変わる。


「帰れなくなった?」


「……親に」


 そこで、一度言葉が止まる。


 喉の奥が苦しくなった。


 それでも、蓮は続けた。


「……家を、追い出されました」


 言った。


 初めて。


 誰かに。


 自分の本当の状況を話した。


「いつですか?」


「二日前です」


「それから、どこで寝ていますか?」


「……駅です」


「二日間?」


「はい」


「食事は?」


「……あまり」


「お金は?」


 蓮は財布を取り出した。


「二千七百三十円です」


 スタッフは少し黙った。


 そして、静かに口を開いた。


「よく一人で頑張ったね」


 その言葉を聞いた瞬間。


 蓮の胸が、ぎゅっと苦しくなった。


 頑張った。


 その言葉を、父親から言われたことはなかった。


 母親からも。


 学校でも。


 誰からも。


 でも――。


 今、初めて。


 何も知らないはずの大人から、その言葉をもらった。


「……」


 蓮は下を向いた。


 泣きたくなった。


 目の奥が熱くなる。


 でも、泣かなかった。


 泣いてしまったら、何かが壊れてしまいそうだった。


 隣を見る。


 美雪がいる。


 美雪は何も言わず、ただこちらを見ていた。


 その目が、優しかった。


「……すみません」


 蓮が小さく呟く。


「何が?」


「……こんなことで」


 スタッフは首を横に振った。


「こんなことじゃないよ」


 その言葉に、蓮は顔を上げた。


「君はまだ十七歳だよ」


「……」


「一人で全部背負う必要はない」


 蓮は何も言えなかった。


 ただ、その言葉が胸の奥にゆっくりと染み込んでいく。


 スタッフは続けた。


「今夜、泊まれる場所を探しましょう」


 その瞬間。


 蓮の目が少し大きくなった。


「……本当に?」


「もちろん」


 蓮は俯いた。


 唇を噛みしめる。


「……ありがとうございます」


 その声は、少し震えていた。



 相談を終えたのは、午後六時を過ぎてからだった。


 その日の夜は、安全な場所で休めることになった。


 蓮は建物を出た。


 外は夕暮れだった。


 空はオレンジ色に染まり、街には少しずつ夜の気配が近づいている。


「……よかったね」


 美雪が言った。


「うん」


「少し安心した?」


「……うん」


 蓮は空を見上げた。


 昨日とは違う。


 昨日は、どこにも行けなかった。


 どこで夜を明かせばいいのかも分からなかった。


 でも今日は――。


 少なくとも、今夜の居場所がある。


「美雪」


「ん?」


「ありがとう」


「何回目?」


「分からない」


「じゃあ、もういいよ」


「……でも」


「じゃあ、いつか返して」


「またそれ?」


「うん」


 美雪が笑う。


 蓮も笑った。


 ほんの少しだけ。


 昨日までより、胸の奥が軽くなっていた。


 もしかしたら。


 もう少しだけ、生きていけるかもしれない。


 そんな気がした。


 でも――。


 このときの蓮は、まだ知らなかった。


 これから先、美雪と過ごす日々が。


 自分の人生で、一番大切な時間になることを。


 そして――。


 その大切な時間が、いつか終わってしまうことを。


 ただ今は。


 隣にいる少女の笑顔を見ていた。


 それだけで。


 今の蓮には、十分だった。

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