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『君がいない春に、僕は生きる』  作者: 綾小路如月


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第四章 帰る場所、あるの?

午前零時二十七分。


駅の時計の秒針が、静かな構内に音を刻んでいた。


 カチ。


 カチ。


 カチ。


 蓮はベンチに座ったまま、隣にいる美雪を横目で見た。


「……本当にいるの?」


「何が?」


「ここに」


「いるよ」


「いや、そうじゃなくて……」


 蓮は少し困ったような顔をした。


「もう終電ないだろ」


「うん」


「帰らなくていいの?」


「帰るよ」


「じゃあ、なんで……?」


「綾小路くんを一人にしたくないから」


「……」


 蓮は黙り込んだ。


 その言葉が、妙に胸に残った。


 誰かにそんなことを言われたのは、いつ以来だろう。


 記憶を探してみる。


 けれど、思い出せなかった。


「……変な人」


「また言った」


「だって……」


「じゃあ、綾小路くんは普通の人?」


「……たぶん」


「嘘」


「なんで?」


「こんな時間まで駅のベンチで寝ようとしてる人が、普通なわけないでしょ」


「……それはそうか」


 美雪が小さく笑った。


 蓮も、ほんの少しだけ笑った。


 ほんの一瞬だった。


 けれど、美雪はそれを見逃さなかった。


「今、笑った」


「……笑ってない」


「笑ったよ」


「気のせい」


「絶対笑った」


「……うるさい」


「ふふっ」


 また美雪が笑う。


 蓮は顔を逸らした。


 なぜか、少し恥ずかしかった。


     *


 午前一時。


 駅員が巡回に来た。


 蓮は慌てて背筋を伸ばした。


 美雪も立ち上がる。


「そろそろ駅の中、閉まるみたい」


「……そうだな」


「どうする?」


「……公園かな」


「公園?」


「駅の近くにある」


「そこで寝るの?」


「たぶん」


「駄目」


「……」


「風邪ひくよ」


「じゃあ、どうしろっていうんだよ」


「少し歩こう」


「どこへ?」


「コンビニ」


「コンビニ?」


「二十四時間開いてるでしょ」


「……それだけ?」


「うん」


 美雪はそう言って歩き始めた。


 蓮も、その後ろをついていく。


 夜の街は静かだった。


 昼間はたくさんの人が歩いていた道も、今はほとんど誰もいない。


 信号機だけが、赤と青を繰り返している。


 しばらく歩いたところで、美雪が突然口を開いた。


「ねえ」


「何?」


「学校では、誰にも言ってないの?」


「何を?」


「家のこと」


「……言ってない」


「どうして?」


 蓮は少し考えた。


「……恥ずかしいから」


「恥ずかしい?」


「家を追い出されたなんて……」


「綾小路くんが悪いの?」


「……分からない」


「じゃあ、恥ずかしくないよ」


 蓮は足を止めた。


 美雪も立ち止まる。


「……簡単に言うなよ」


 蓮の声は、少し低かった。


「家族に捨てられるって……そんなに簡単なことじゃない」


 美雪は何も言わなかった。


「俺だって……」


 蓮は拳を握りしめた。


「普通にしたかった」


 声が震える。


「普通に学校へ行って」


「普通に帰って」


「普通に飯を食って」


「普通に……」


 そこで言葉が止まった。


 喉の奥が詰まる。


「……普通に、家で寝たかった」


 美雪は静かに彼を見つめていた。


 そして――


「……ごめん」


「なんで美雪が謝るんだよ」


「分からない」


「……」


「でも、なんか……ごめん」


 蓮は、少しだけ笑った。


「本当に変な人だな」


「そうかな」


「そうだよ」


「じゃあ、覚えておいて」


「何を?」


「私、変な人だから」


「……分かった」


 二人はまた歩き始めた。


     *


 午前一時二十五分。


 二人はコンビニに入った。


 店内の暖かい空気が、冷えた身体を少しだけ包み込んでくれる。


 蓮は飲み物の棚を見る。


 水。


 百円。


 けれど――


 財布の中には、二千九百九十円しかない。


 昨日から、これだけだった。


 美雪が隣に立つ。


「何飲む?」


「いらない」


「喉、乾いてるでしょ」


「大丈夫」


「また『大丈夫』って言った」


「……癖なんだよ」


「その癖、直したほうがいいよ」


「なんで?」


「本当に大丈夫じゃないときまで、『大丈夫』って言っちゃうから」


 蓮は答えられなかった。


 図星だった。


 美雪は水を一本手に取る。


 そして、パンを二つ選んでレジへ向かった。


「待て」


「何?」


「自分で払う」


 蓮は財布を取り出した。


 美雪が足を止める。


「いいよ」


「駄目」


「なんで?」


「昨日もパンもらったし」


「それくらい――」


「借りを作りたくない」


 美雪は蓮を見つめた。


 そして、それ以上は何も言わなかった。


「……分かった」


 蓮は水とパンを一つ買った。


 合計二百六十円。


 残り二千七百三十円。


 レジを離れる。


 美雪が尋ねた。


「それで、何日くらい生きるつもり?」


「……」


「考えてないでしょ」


「……うん」


「だと思った」


 美雪は小さくため息をついた。


 二人は店の外へ出た。


 コンビニの横にある小さなベンチに並んで座る。


 蓮はパンを食べ始めた。


 美雪は何も食べない。


「美雪は食べないの?」


「さっき食べた」


「本当に?」


「うん」


「……そっか」


 蓮はそれ以上、聞かなかった。


 パンを半分ほど食べたところで、美雪が口を開いた。


「ねえ」


「ん?」


「明日も学校だよね」


「うん」


「じゃあ、今夜は寝る場所を探さないと」


「……そうだな」


「一つだけ、思いついた」


「何?」


「私の知り合いが働いてる場所」


「……?」


「高校生でも相談できるところ」


 蓮は警戒するように美雪を見た。


「施設?」


「違うよ」


「じゃあ、何?」


「ちゃんとした大人に相談するの」


「……無理」


「どうして?」


「親に知られる」


「知られない方法もあるよ」


「……」


 蓮は黙った。


 美雪は、少しだけ優しい声で言った。


「綾小路くん」


「何?」


「一人で全部解決しようとしなくていいんだよ」


「……」


「まだ十七歳なんだから」


 その言葉が、胸に刺さった。


 十七歳。


 そうだ。


 自分はまだ子供だった。


 なのに。


 家を追い出された瞬間から、大人にならなければならないと思っていた。


 自分で金を稼いで。


 自分で食べて。


 自分で寝る場所を探して。


 誰にも頼らず。


 誰にも迷惑をかけず。


 生きなければならない。


 そう思っていた。


 でも――


「……俺」


 蓮は俯いた。


「どうすればいいのか……分からない」


 初めてだった。


 誰かに、そんな言葉を口にしたのは。


 美雪は何も言わなかった。


 ただ、隣に座っていた。


 しばらくして、美雪が静かに言った。


「じゃあ」


「……?」


「一緒に考えよう」


 蓮は顔を上げた。


「……なんで?」


「友達だから」


「まだ会ったばっかりだろ」


「じゃあ、今から友達」


「……勝手だな」


「うん」


 美雪は笑った。


「でも、嫌じゃないでしょ?」


 蓮は答えなかった。


 けれど――


 少しだけ、笑った。


「……まあ」


「じゃあ、決まり」


     *


 午前二時四十分。


 二人はコンビニを出た。


 美雪が駅の反対側を指差す。


「こっち」


「どこ行くの?」


「私の知ってる場所」


「……怪しくない?」


「失礼だなあ」


 蓮は思わず、少し笑った。


 夜の道を、二人で歩く。


 目的地までは、まだ少し距離がある。


 それでも――


 さっきまで感じていた孤独は、もうなかった。


 蓮はふと思った。


 昨日。


 自分は一人で夜を過ごした。


 そして今日は。


 隣に誰かがいる。


 たったそれだけなのに。


 夜が、少しだけ短く感じられた。


 やがて、美雪が足を止めた。


「ここ」


 そこには、小さな建物があった。


 看板には、


『青空ユースサポート』


 と書かれている。


 蓮は看板を見上げた。


「……ここ?」


「うん」


「今、開いてないだろ」


「夜は閉まってる」


「じゃあ……」


「朝になったら相談しよう」


「……」


 蓮は建物をじっと見つめた。


 そして、小さく息を吐いた。


「ありがとう」


「うん」


「美雪」


「何?」


「……俺、助けてもらってばっかりだな」


「じゃあ、いつか返して」


「いつか?」


「うん」


「何を?」


 美雪は少し考えた。


 そして、笑った。


「そのとき考える」


「……変なの」


「また言った」


 二人は笑った。


     *


 その夜。


 蓮は初めて知った。


 自分のことを心配してくれる人がいることを。


 まだ名前を知ったばかり。


 出会ってから、まだ数時間。


 それでも――


 美雪という少女は、蓮にとって初めての「味方」になった。


 そして蓮は、まだ知らなかった。


 この少女が。


 これから何度も、自分の人生を救ってくれることを。


 そしていつか――


 彼女自身が、蓮に救われることを。


     *


 夜が明けるまで。


 二人は建物の前のベンチに並んで座っていた。


 美雪は眠そうに目をこする。


 蓮も壁にもたれた。


 東の空が、少しずつ明るくなっていく。


 午前五時。


 新しい朝が来た。


 蓮にとっては、家を失ってから三度目の朝だった。


 けれど――


 その朝だけは、昨日までとは少し違っていた。


 隣に。


 美雪がいたから。

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