↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『君がいない春に、僕は生きる』  作者: 綾小路如月


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/42

第三章 午前零時の駅

 午後十一時五十八分。


 駅前の時計が、静かに時を刻んでいた。


 蓮は駅の外にあるベンチに座っていた。


 昨日と同じように。


 けれど、昨日とは違っていた。


 昨日はまだ、「明日になれば、何とかなる」と思っていた。


 根拠なんてなかった。


 それでも、そう思わなければ耐えられなかった。


 けれど今日は――その言葉を信じることができなかった。


 蓮はスマートフォンの画面を見つめる。


 バッテリーは二十八パーセント。


 財布の中には、二千九百九十円。


 それだけだった。


「……二日目、か」


 小さく呟く。


 家を出てから、まだ二日しか経っていない。


 なのに。


 何週間も、一人で生きているような気がした。


 腹が減っていた。


 今日口にしたものは、朝の水と、昼に食べたおにぎり一個だけ。


 夕食は食べていない。


 財布の中身を考えると、何かを買う気にはなれなかった。


 蓮は空を見上げる。


 雲が多い。


 星はほとんど見えなかった。


「……明日、雨か」


 天気予報を確認する。


 明日の夜は――雨。


 蓮は画面を閉じた。


「……最悪だな」


 雨が降ったら、このベンチでは眠れない。


 駅の中で朝まで過ごすのも難しいだろう。


 では、どこへ行けばいい。


 考えても、答えは出てこなかった。


 蓮は重い身体を起こした。


 そして、駅の中へ戻る。


 終電は、もうすぐだった。


 ホームには、ほとんど人がいない。


 遠くから、電車が走ってくる音が聞こえてくる。


 蓮は壁にもたれ、目を閉じた。


 眠い。


 身体が重い。


 昨日も、ほとんど眠っていない。


 今日も、まともに眠れる場所はない。


 それでも――。


 学校には行かなければならない。


 行かなければ、先生に怪しまれる。


 友達にも心配される。


 何より。


 学校にいる間だけは、普通の高校生でいられる。


 笑って。


 授業を受けて。


 友達と話して。


 何も問題がないように振る舞う。


 学校は今の蓮にとって、唯一残された「普通」の場所だった。


「……普通、か」


 その言葉を口にした瞬間。


 胸の奥が、ずきりと痛んだ。


 普通。


 家に帰る。


 家族と夕食を食べる。


 風呂に入る。


 自分のベッドで眠る。


 朝になれば目を覚まし、学校へ行く。


 そんな何気ない毎日。


 昨日までは、それが当たり前だった。


 当たり前すぎて、その大切さに気づくことさえなかった。


 けれど今は――。


 そのすべてが、遠い世界の出来事のように感じる。


 蓮はゆっくりと目を開けた。


 ちょうどそのとき。


 終電がホームへ滑り込んできた。


 ドアが開き、数人の乗客が降りてくる。


 その中に――一人の少女がいた。


 制服姿。


 長い黒髪。


 肩にはスクールバッグ。


 少し疲れているような顔をして、スマートフォンを見ながら歩いている。


 少女はそのまま蓮の前を通り過ぎようとした。


 ――しかし。


 ふと、足を止めた。


「……」


 少女が蓮を見る。


 蓮も少女を見る。


 二人の視線が重なった。


 数秒間。


 どちらも何も言わなかった。


 先に目を逸らしたのは蓮だった。


 知らない人だ。


 関わる必要なんてない。


 少女も、そのまま立ち去るだろう。


 そう思っていた。


「ねえ」


 声がした。


 蓮は顔を上げた。


「……俺?」


「うん」


 少女は少し離れた場所に立っていた。


「こんな時間に、何してるの?」


「……電車を待ってる」


「終電、今行ったよ」


「……そうだな」


「じゃあ、次は朝まで来ないよ」


「知ってる」


 少女は少しだけ首を傾げた。


「……帰らないの?」


 その言葉を聞いた瞬間。


 昨日の父親の声が、頭の中に蘇った。


『出ていけ』


 胸の奥が締めつけられる。


 蓮は目を逸らした。


「……あるよ」


「何が?」


「……家」


 少女は蓮の顔をじっと見つめた。


「本当に?」


「……」


「嘘ついてる?」


「……なんでそう思う?」


「なんとなく」


 少女は、あっさりと言った。


 蓮は思わず、ほんの少しだけ笑った。


「変な人だな」


「よく言われる」


「そう」


「うん」


 少女はベンチの反対側に目を向けた。


「座っていい?」


「……どうぞ」


 少女が隣に座る。


 二人の間には、少しだけ距離があった。


 駅は静かだった。


 遠くから聞こえる機械音と、時計の針が進む音だけが、やけに大きく感じられる。


「私は美雪」


「……」


 蓮は黙ったままだった。


「あなたは?」


「……綾小路」


「綾小路くん?」


「うん」


「高校生?」


「そう」


「何年生?」


「二年」


「じゃあ、十七歳?」


「……そう」


 美雪は少し驚いたように目を瞬かせた。


「私、三年生」


「そうなんだ」


「十八歳」


「一歳上か」


「そう」


 そこで、また会話が途切れた。


 美雪はスマートフォンを見る。


 蓮は何もないホームを見つめる。


 しばらくの間、二人の間に沈黙が流れた。


 やがて。


「ねえ」


「何?」


「本当に帰らないの?」


 蓮は答えなかった。


 言葉が出てこない。


 どう説明すればいいのか分からなかった。


 家を出たこと。


 父親に追い出されたこと。


 帰る場所がないこと。


 そんなことを、初対面の相手に話せるはずがない。


 けれど――。


「……帰れない」


 初めて。


 その言葉が、蓮の口からこぼれた。


 美雪は何も言わなかった。


「家から……追い出された」


 自分で口にしたのに。


 それが現実のことだとは、まだ信じられなかった。


 まるで誰か別の人間の話をしているようだった。


「……そっか」


 美雪の声が、少しだけ小さくなった。


「昨日?」


「うん」


「昨日から、ずっとここに?」


「……まあ」


「ご飯は?」


「食べた」


「何を?」


「……おにぎり」


「それだけ?」


 蓮は答えなかった。


 美雪は小さく息を吐いた。


「……お腹、空いてる?」


「……別に」


「空いてるんだ」


「……」


「顔に書いてある」


「そんなに分かりやすい?」


「うん」


 美雪は少しだけ笑った。


 そして、肩にかけていたバッグを開く。


 中から、小さな袋を取り出した。


「これ」


「何?」


「パン」


「……」


「食べる?」


「いい」


「どうして?」


「知らない人から、もらう理由ないだろ」


「じゃあ、友達なら?」


「まだ友達じゃないだろ」


「じゃあ――今日だけ友達」


「……変なの」


「よく言われる」


 美雪は笑った。


 その笑顔を見ていると、なぜか少しだけ胸の苦しさが和らいだ。


 蓮は差し出されたパンを見る。


 食べたい。


 本当は、今すぐにでも食べたかった。


 けれど、意地が邪魔をした。


 知らない人に助けてもらうなんて。


 そんなことをしたら、自分が本当に何も持っていない人間になってしまう気がした。


 ――そのとき。


 ぐうぅ……。


 静かな駅に、腹の音が響いた。


「……」


「……」


 蓮は固まった。


 美雪は口元を押さえている。


「……笑うな」


「ご、ごめん……」


 肩が小刻みに震えている。


「絶対、笑ってるだろ」


「だって……」


「……」


「でも」


 美雪は笑いを収めると、優しい目で蓮を見た。


「食べたほうがいいよ」


 蓮はしばらく迷った。


 そして。


「……ありがとう」


 小さく呟き、パンを受け取った。


「どういたしまして」


 袋を開ける。


 一口、かじる。


 甘いパンだった。


 蓮はゆっくりと噛みしめる。


 たった一個のパンなのに。


 なぜか、胸の奥が少しだけ熱くなった。


「……うまい」


「よかった」


 美雪が笑う。


 その笑顔を見て、蓮はふと思った。


 ――どうして、この人はこんなふうに笑えるんだろう。


 初対面の自分に声をかけて。


 何も聞かずにパンまでくれて。


 まるで、昔から知っている友達みたいに笑っている。


 自分とは、まるで違う世界にいる人のようだった。


「……美雪」


「ん?」


「なんで俺に声かけたの?」


「え?」


「普通、こんな時間に駅にいる知らない男なんて、無視するだろ」


 美雪は少し考えた。


「……分からない」


「分からない?」


「うん」


 美雪は駅の時計を見上げた。


 午前零時を、もう少しで過ぎようとしている。


「ただ……」


「ただ?」


「なんとなく、放っておけなかった」


 その言葉に。


 蓮は何も返せなかった。


 胸の奥に、何かが触れたような気がした。


 ここ二日間。


 誰かに心配されたことなんてなかった。


 いや――。


 心配されたくなかった。


 自分でも、自分がどうなっているのか分からなかったから。


 それでも。


 今の「放っておけなかった」という言葉だけは、不思議なくらい心に残った。


「綾小路くん」


「何?」


「明日も学校?」


「……うん」


「じゃあ、今夜はどうするの?」


「……」


 答えられない。


 美雪は、それだけで理解した。


「寝る場所、ないんだ」


 蓮は目を逸らした。


 否定したかった。


 大丈夫だと言いたかった。


 けれど――もう、嘘をつく気力がなかった。


「……ない」


 美雪は黙った。


 すぐには何も言わなかった。


 ただ、蓮の隣で静かに座っていた。


 やがて。


「じゃあ」


「……?」


 美雪が、蓮を見る。


「今夜、私が付き合う」


「……は?」


「一人でいるより、いいでしょ」


「いや、それは――」


「嫌?」


「そうじゃなくて……」


「じゃあ、決まり」


「……強引だな」


「よく言われる」


 美雪は、また笑った。


 その笑顔を見ながら。


 蓮は、ほんの少しだけ思った。


 もしかしたら。


 今日だけは。


 ほんの少しだけ――。


 一人じゃなくてもいいのかもしれない。


 午前零時を過ぎようとしている駅。


 帰る場所を失った少年と。


 帰る場所を持っているように見えた少女。


 二人はまだ知らなかった。


 この夜の出会いが、互いの人生を大きく変えることを。


 そして。


 この何気ない一夜が。


 いつか二人にとって――。


 一生忘れることのできない夜になることを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。