第二章 三千二百四十円の人生
朝の五時三十二分。
駅の照明が、少しずつ消えていった。
蓮はゆっくりと目を開けた。
最初に見えたのは、灰色の天井だった。
そして次に――
自分がベンチに横になっていることを思い出した。
「……そうだった」
家には帰れない。
昨日、父親に追い出された。
その事実が、眠気よりも先に頭の中へ戻ってきた。
蓮はゆっくりと上半身を起こした。
肩が痛い。
首も痛い。
体のあちこちが重かった。
ほとんど眠れていない。
それでも、蓮は立ち上がった。
周囲を見る。
始発電車を待つ人が、少しずつ増えていた。
スーツ姿の会社員。
制服姿の高校生。
眠そうな顔をした大学生。
みんな、それぞれの目的地へ向かっている。
蓮も、その中の一人だった。
――少なくとも、見た目だけなら。
蓮は制服を整えた。
シャツの襟を直す。
乱れた髪を手で軽く整える。
そして、スマートフォンを見る。
午前五時四十分。
「……早すぎるな」
学校が始まるのは八時半。
まだ三時間近くある。
蓮は財布を取り出した。
中身を確認する。
三千二百四十円。
昨日と同じ。
当然だ。
一円も使っていない。
「……三千二百四十円か」
財布の中の数字を見つめる。
これで、何日生きられるだろう。
コンビニのおにぎりなら、十個以上買える。
でも――
それだけでは生きていけない。
水。
食事。
洗濯。
風呂。
そして、眠る場所。
高校生一人で生活するには、あまりにも少ない金額だった。
蓮は財布を閉じた。
「……考えるの、やめよう」
今は学校へ行く。
それだけでいい。
駅のトイレへ向かい、顔を洗った。
鏡を見る。
昨日より、ひどい顔をしていた。
「……眠そう」
目の下が暗い。
頬も少しやつれて見える。
でも――
誰にも気づかれなければ問題ない。
蓮は水で顔をもう一度洗った。
冷たい水が、ぼんやりした頭を少しだけ覚ましてくれた。
そして、学校へ向かった。
午前八時二十一分。
教室は、いつものように騒がしかった。
「おはよう!」
「昨日の宿題やった?」
「やばい、数学見せて!」
笑い声。
机を動かす音。
スマートフォンの通知音。
いつもと変わらない朝。
蓮は自分の席に座った。
「おはよう、蓮」
前の席の男子が振り返った。
「おう」
「昨日のゲームさ――」
いつも通りの会話。
蓮は笑った。
「あとで話そう」
「お前、眠そうじゃね?」
「昨日、ちょっと遅くまで起きてた」
「またゲーム?」
「まあな」
――嘘だった。
ゲームなんてしていない。
駅のベンチで、眠れない夜を過ごしていた。
でも。
そんなことを言えるはずがなかった。
担任が教室に入ってくる。
「席につけー」
チャイムが鳴った。
授業が始まる。
黒板には数学の問題が並んでいる。
蓮はノートを開いた。
ペンを持つ。
先生の声を聞く。
けれど――
頭に何も入ってこなかった。
「……」
今日の夜。
どこへ行く?
その考えが、頭から離れない。
昨日は駅で寝た。
でも、今日も同じ場所で眠れるとは限らない。
駅員に注意されるかもしれない。
警察に声をかけられるかもしれない。
それ以前に。
毎晩駅で寝るなんて、いつまでも続けられるはずがない。
「綾小路」
「……はい」
突然、先生に呼ばれた。
「この問題、解いてみろ」
「……」
蓮は黒板を見る。
問題の意味が、頭に入ってこない。
クラスの何人かが振り返った。
「……すみません」
「分からないか?」
「はい」
「珍しいな。お前、いつもなら解けるだろ」
「昨日、寝不足で……」
また嘘をついた。
「まあいい。次」
先生は別の生徒を指した。
蓮は椅子に座り直した。
そして、窓の外を見る。
青い空。
雲一つない。
昨日の夕方まで――
自分にも、帰る家があった。
今日からは、ない。
それなのに。
世界は何も変わっていなかった。
空も。
街も。
学校も。
クラスメイトも。
何も変わっていない。
変わったのは、自分だけ。
そのことが、少し腹立たしかった。
昼休み。
クラスメイトたちは、それぞれ弁当を広げていた。
「蓮、一緒に食おうぜ」
「ああ」
蓮は机を少し動かした。
そのとき。
「……あれ?」
友達が蓮の机を見る。
「弁当は?」
「……忘れた」
「珍しくね?」
「朝、急いでたから」
「購買行く?」
「いや、いい」
「腹減らない?」
「朝、食べたから」
――嘘。
朝は何も食べていない。
友達が少し心配そうな顔をする。
「本当に?」
「本当」
蓮は笑った。
「大丈夫」
また、その言葉。
大丈夫。
便利な言葉だった。
何か聞かれたとき。
心配されたとき。
困っているとき。
全部――
「大丈夫」と言えば、それ以上は聞かれない。
蓮は机の下で、財布をそっと握った。
三千二百四十円。
ここで昼食を買えば、数百円減る。
たった数百円。
でも。
今の自分にとって、その数百円は決して小さくなかった。
友達がパンを食べている。
蓮は、それを見ないように窓の外へ視線を向けた。
ぐう――。
小さなお腹の音が鳴った。
「……腹減った」
聞こえないくらいの声で、蓮は呟いた。
午後四時三十五分。
学校が終わった。
生徒たちは次々と帰っていく。
「蓮、今日どうする?」
「俺は、ちょっと用事」
「そっか。また明日な」
「ああ。また明日」
友達と別れる。
校門を出る。
その瞬間――
蓮の足が止まった。
「……」
また、だ。
学校が終わった。
つまり――
帰らなければならない。
でも。
帰る場所がない。
昨日までは。
放課後になれば、家へ帰る。
それが当たり前だった。
何も考える必要なんてなかった。
けれど、今日は違う。
帰る場所を、自分で探さなければならない。
蓮は駅へ向かった。
途中でコンビニに入る。
店内を歩く。
おにぎり。
パン。
弁当。
飲み物。
どれも美味しそうだった。
蓮は財布を取り出す。
三千二百四十円。
おにぎり一つ。
百五十円。
水。
百円。
合計、二百五十円。
蓮は、しばらく悩んだ。
そして――
鮭のおにぎり一つと、水を一本買った。
店員に二百五十円を渡す。
残り、二千九百九十円。
たった一日で二百五十円。
その数字が、妙に重く感じられた。
蓮は店を出た。
近くの公園へ向かう。
ベンチに座り、おにぎりの袋を開ける。
一口。
「……うまい」
昨日の朝から、まともに何も食べていなかった。
たった一つのおにぎり。
それなのに――
涙が出そうになるほど、美味しかった。
蓮は、急いで食べた。
そして、水を飲む。
空を見上げる。
いつの間にか、夕方になっていた。
「……今日、どこで寝よう」
初めて。
その問題を真正面から考えた。
駅。
公園。
漫画喫茶。
ホテル。
どれも簡単ではない。
ホテルなんて論外だ。
お金がない。
漫画喫茶も、未成年一人では難しい。
公園は危険。
駅も、昨日だけならよかった。
蓮はスマートフォンを取り出して検索した。
「高校生 泊まれる場所」
検索結果を眺める。
児童相談所。
保護施設。
相談窓口。
いくつもの情報が表示される。
蓮は、しばらく画面を見つめていた。
そして――
画面を閉じた。
「……無理だ」
誰かに助けを求める。
そんなことはできない。
学校にも。
先生にも。
友達にも。
ましてや警察にも。
自分が家を追い出されたことを知られるのが怖かった。
かわいそうだと思われるのが嫌だった。
同情されるのも嫌だった。
弱い人間だと思われるのが、怖かった。
だから。
一人で何とかする。
それしかない。
そう思っていた。
午後八時。
蓮は駅へ向かった。
昨日と同じ駅。
昨日と同じベンチ。
けれど――
今日は先客がいた。
仕事帰りらしい男性が座っている。
蓮は少し離れた場所で立った。
待つ。
男性はしばらくして、電車に乗って帰っていった。
蓮はベンチを見る。
空いた。
座ろうとした。
そのとき――
「……あ」
駅員がこちらを見ていることに気づいた。
昨日の夜もいた駅員だった。
目が合う。
蓮は反射的に目を逸らした。
駅員が近づいてくる。
「君」
「……はい」
「昨日もここにいたよね?」
心臓が跳ねた。
「……昨日?」
「夜遅くまで」
「ああ……」
蓮は笑った。
「電車を待ってました」
「今日は?」
「……今日も」
駅員は、少し怪訝そうな顔をした。
「終電、まだだけど?」
「……はい」
「高校生だよね?」
「はい」
「こんな時間まで一人で何してるの?」
蓮は答えられなかった。
喉の奥が、きゅっと締まる。
駅員は、しばらく蓮を見つめた。
「家は?」
その一言だけで――
胸が苦しくなった。
「……あります」
嘘だった。
「そうか」
駅員は、それ以上聞かなかった。
「危ないから、あまり遅くならないようにね」
「……はい」
駅員が離れていく。
蓮はベンチに座らなかった。
座れなかった。
昨日と同じ場所なのに。
もう、昨日のようにはいかない。
「……どうしよう」
夜の駅で、蓮は一人立っていた。
財布の中身は、二千九百九十円。
家はない。
寝る場所もない。
助けを求める勇気もない。
そして――
誰にも言えない。
自分が、
「捨てられた」
ということを。
蓮は駅を出た。
歩きながら、スマートフォンを見る。
午後九時二十七分。
街の明かりが、少しずつ消えていく。
家々には、まだ明かりがついている。
窓の向こうには、家族がいる。
夕食を食べる人。
テレビを見る人。
笑っている人。
何気ない日常を過ごしている人。
蓮は足を止めた。
その中の一つの窓を、じっと見つめる。
「……いいな」
口からこぼれた言葉。
その瞬間――
胸の奥が、ズキッと痛くなった。
自分も昨日までは、その中にいた。
普通に。
当たり前に。
家族と同じ屋根の下で。
それが――
一晩で消えた。
蓮は顔を伏せた。
「……泣くな」
自分に言い聞かせる。
「泣くなよ……」
目が熱くなる。
「……俺は大丈夫」
声が震えた。
「大丈夫だから……」
何度言っても。
涙は止まらなかった。
蓮は袖で目元を拭った。
誰にも見られたくなかった。
誰にも、弱いところを見せたくなかった。
だから――
涙を隠すように、夜道を歩き続けた。
その夜。
蓮はまだ知らなかった。
自分の人生で初めて――
本気で「助けてほしい」と思う瞬間が、もうすぐ訪れることを。
そして、その瞬間。
彼の前に、一人の少女が現れることを。
少女の名前は――
美雪。
彼女との出会いまで。
あと、数時間だった。




