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『君がいない春に、僕は生きる』  作者: 綾小路如月


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第一章 帰る場所のない少年

2026年9月28日。


 午後六時十三分。


 窓の外では、夕暮れの空がゆっくりと赤く染まっていた。


 綾小路蓮は、自分の部屋の机に座っていた。


 開いたままの教科書。


 途中まで書いた数学の宿題。


 机の隅に置かれた、飲みかけのペットボトル。


 いつもと何も変わらない。


 少なくとも、三十分前までは。


「……帰ってくるな」


 父親の声が、今も耳に残っている。


 蓮はシャープペンシルを握ったまま、動かなかった。


 何かを書こうとしていたわけではない。


 ただ、手を動かしていないと落ち着かなかった。


 廊下から物音が聞こえる。


 母親の声。


 父親の低い声。


 何を話しているのかは、聞き取れない。


 蓮は机の上の時計を見る。


 午後六時二十分。


 今日は月曜日だった。


 明日は火曜日。


 学校がある。


 だから、いつもなら早く寝なければならない。


 そんな当たり前のことを考えていた。


 まるで、何も起きていないかのように。


 突然。


 ドアが開いた。


「蓮」


 父親が立っていた。


「……何?」


「荷物をまとめろ」


 蓮は顔を上げた。


「え?」


「聞こえなかったのか」


「……聞こえたけど」


「なら早くしろ」


 父親はそれだけ言って、部屋を出ようとした。


 蓮は椅子から立ち上がった。


「どこか行くの?」


 父親は振り返らなかった。


「出ていけ」


 その言葉は、あまりにも静かだった。


 怒鳴り声ではなかった。


 だからこそ、蓮には怖かった。


「……冗談?」


「冗談でこんなこと言うと思うか」


「でも……明日、学校……」


「学校?」


 父親が振り返る。


「そんなものはどうでもいい」


 蓮は黙った。


 父親は続けた。


「お前はもう、この家の人間じゃない」


 胸の奥が、少しだけ痛んだ。


 でも蓮は泣かなかった。


 驚きもしなかった。


 なぜなら。


 心のどこかで、ずっと分かっていたからだ。


 いつかこうなることを。


「……分かった」


 蓮はそう答えた。


「何?」


「出ていく」


 父親は何も言わなかった。


 ただ、廊下へ戻っていった。


 ドアが閉まる。


 静かになった。


 蓮は部屋を見回した。


 十七年間、ここで暮らしてきた。


 小学校の頃に買ってもらった机。


 中学の卒業アルバム。


 高校の教科書。


 ベッド。


 古いゲーム機。


 壁に貼った時間割。


 全部、明日から自分のものではなくなる。


「……まあ」


 蓮は小さく笑った。


「仕方ないか」


 自分でも驚くほど、普通の声だった。


 蓮はクローゼットを開けた。


 けれど、何を持っていけばいいのか分からなかった。


 服?


 教科書?


 財布?


 スマートフォン?


 全部必要だ。


 でも。


 大きな荷物を持って出ていったら、まるで本当に帰ってこないみたいだった。


 そんなことを考えている自分がおかしくて、蓮は少し笑った。


「……帰ってこないんだけどな」


 独り言だった。


 結局、学校用のバッグに必要なものだけを入れた。


 教科書。


 筆箱。


 充電器。


 財布。


 スマートフォン。


 それから、財布の中を確認する。


 三千二百四十円。


「……これだけか」


 蓮は苦笑した。


 十七歳。


 高校二年生。


 そして。


 三千二百四十円。


 それが、今の自分の全財産だった。


 机の引き出しを開ける。


 小学生の頃にもらった貯金箱がある。


 蓮はそれを手に取った。


 振ってみる。


 チャリン。


 小さな音がした。


 でも。


 蓮は戻した。


「……いいや」


 家の中にあるものを持っていくのは、なんとなく嫌だった。


 自分で稼いだお金だけで生きてみよう。


 そんなことを考えた。


 でも。


 高校生が一人で生きていくことがどれほど難しいのか。


 そのときの蓮は知らなかった。


 バッグを肩にかける。


 部屋を見回す。


「……じゃあな」


 誰に言ったのか分からなかった。


 机か。


 ベッドか。


 それとも。


 十七年間の自分自身か。


 部屋のドアを開ける。


 廊下に出る。


 母親がリビングにいた。


 テレビがついている。


 母親は蓮を見た。


 一瞬だけ。


 そして、目を逸らした。


「……母さん」


 蓮が呼ぶ。


 母親は答えなかった。


「俺……」


 言葉が出てこない。


 何を言えばいいのか分からない。


 助けて。


 行きたくない。


 帰ってきてもいい?


 そんな言葉が頭の中に浮かんだ。


 でも。


 口から出てきたのは。


「……じゃあ」


 それだけだった。


 母親の手が少し震えた。


 それでも、何も言わなかった。


 蓮は玄関へ向かった。


 靴を履く。


 ドアノブに手をかける。


 その瞬間。


「蓮」


 母親の声がした。


 蓮は振り返った。


「……何?」


 母親はしばらく黙っていた。


 そして。


「……気をつけて」


 それだけだった。


 蓮は少し笑った。


「うん」


 ドアを開けた。


 外は、もう暗くなり始めていた。


 冷たい風が吹いた。


 蓮は一歩外へ出る。


 そして。


 ドアが閉まった。


 ガチャ。


 鍵の音がした。


 その音を聞いた瞬間。


 蓮は初めて理解した。


 本当に。


 帰る場所がなくなった。


「……」


 しばらく玄関の前に立っていた。


 戻ろうと思えば戻れる。


 そう考えた。


 でも。


 鍵はかかっている。


 そして何より。


 自分から戻る勇気がなかった。


 蓮は歩き始めた。


 どこへ行くのか決めていなかった。


 駅。


 とりあえず駅へ行こう。


 そう思った。


 通学路を歩く。


 いつもなら十分ほどで駅に着く。


 今日は、やけに長く感じた。


 途中でコンビニに入った。


 時計を見る。


 午後七時四分。


 店内は明るかった。


 家族連れがいた。


 仕事帰りのサラリーマンがいた。


 高校生の女の子たちが笑いながらお菓子を選んでいた。


 蓮はその光景を見ていた。


 そして。


 急に、自分がひどく場違いな人間に思えた。


 誰も、自分が家を追い出されたことを知らない。


 誰も、自分が今夜どこで寝るのか知らない。


 誰も気にしていない。


 蓮は何も買わずに店を出た。


 外に出る。


 夜風が少し冷たかった。


「……寒いな」


 九月の終わり。


 まだ冬ではない。


 それなのに。


 今まで感じたことのない寒さだった。


 駅に着いた。


 改札を通る。


 電車に乗る。


 座席に座った。


 窓の外を眺める。


 見慣れた街が流れていく。


 いつもの駅。


 いつものコンビニ。


 いつもの学校。


 いつもの家。


 全部が同じなのに。


 自分だけが違う世界にいるようだった。


 スマートフォンを見る。


 父親からメッセージはない。


 母親からもない。


 蓮は画面を閉じた。


 そして、窓に映る自分を見る。


「……ひどい顔」


 目の下に少し隈ができている。


 髪も乱れている。


 制服も少し皺がついている。


 それでも。


 いつもの自分だった。


 電車が駅に到着する。


 蓮は降りた。


 そして、駅の端にあるベンチを見つけた。


 人は少ない。


 時計を見る。


 午後十時四十一分。


「……今日はここでいいか」


 バッグを枕代わりにする。


 ベンチに横になる。


 目を閉じる。


 眠ろうとする。


 しかし。


 眠れなかった。


 電車が通る音。


 駅員の声。


 誰かの足音。


 すべてが耳に入る。


 蓮は目を開けた。


 天井を見つめる。


「……明日」


 明日は学校がある。


 どうすればいい。


 制服で学校へ行く。


 授業を受ける。


 そして放課後。


 帰る。


 ……どこへ?


 その答えがない。


 蓮はスマートフォンを取り出した。


 画面には、午後十一時を示す数字。


 通知は一つ。


 学校の連絡。


 それだけだった。


 蓮はスマートフォンを胸の上に置いた。


「……大丈夫」


 誰もいない駅で呟く。


「明日になれば、何とかなる」


 自分に言い聞かせる。


「何とかなるよ」


 もう一度。


「……大丈夫」


 声が少し震えた。


 それでも。


 泣かなかった。


 泣いたら、本当に一人になる気がしたから。


 蓮は目を閉じる。


 そして小さく呟いた。


「……おやすみ」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 ただ。


 十七歳の少年は、その夜初めて知った。


 家を失うということが。


 お金を失うことより。


 物を失うことより。


 ずっと寂しいことなのだと。


 そして。


 この夜が。


 彼の人生を大きく変える物語の始まりになることを。


 まだ、知らなかった。


 午前零時。


 駅の時計が静かに日付を変えた。


 2026年9月29日。


 少年の人生にとって。


 最も長い一日が、始まった。

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