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『君がいない春に、僕は生きる』  作者: 綾小路如月


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プロローグ 桜の下で、君を待つ

 春が来るたびに、私はあの場所へ戻る。


 理由なんて、もう分かっている。


 忘れたくないからだ。


 いや。


 忘れてはいけないと思っているからだ。


 駅前にある、小さな公園。


 その隅に一本だけ立っている桜の木。


 そして、その木の下に置かれた古いベンチ。


 十年経った今でも、そこだけは何も変わっていない。


 変わったのは、私のほうだった。


 私はゆっくりとベンチに腰を下ろした。


 春の風が頬を撫でる。


 桜の花びらが一枚、私の肩に落ちた。


 私はそれを指先で拾う。


「……今年も咲いたね」


 誰もいない場所で、私は呟いた。


 もちろん返事はない。


 分かっている。


 それでも、毎年同じことを言ってしまう。


 バッグの中から、一枚の写真を取り出した。


 少し色褪せた写真。


 そこには、二人の高校生が写っている。


 一人は、当時十八歳だった私。


 そして、その隣には――


 十七歳の少年。


 綾小路。


 少し乱れた黒い髪。


 眠そうな目。


 いつも少しだけ無愛想で。


 人と話すことが苦手で。


 笑うことさえ、どこか不器用だった。


 写真の中の彼は笑っている。


 ほんの少しだけ。


 でも、私は知っている。


 あの笑顔が、彼にとってどれほど大切なものだったのか。


 私は写真を見つめた。


「……綾小路」


 名前を呼んでみる。


 返事はない。


 十年前から、一度も。


 それでも私は、毎年ここへ来る。


 この場所で彼と出会ったから。


 そして――


 この場所で、彼と最後の約束をしたから。


 私は目を閉じた。


 すると、あの日の声が蘇ってくる。


『来年も、ここで会おう』


 少し照れたような声。


 私は笑って答えた。


『うん。約束』


 たったそれだけの約束だった。


 特別な言葉でもない。


 永遠の愛を誓ったわけでもない。


 ただ、


 「来年も会おう」


 それだけ。


 なのに。


 私は、その約束を一人で守ることになった。


 翌年の春。


 私は同じベンチに座っていた。


 桜は咲いていた。


 風も吹いていた。


 電車の音も聞こえていた。


 世界は何も変わっていなかった。


 ただ一つ。


 彼だけがいなかった。


 その日、私は初めて知った。


 人が一人いなくなるだけで。


 世界はこんなにも静かになるのだと。


 私は写真を胸に抱きしめた。


「……どうして」


 十年前と同じ言葉が、口からこぼれる。


「どうして、何も言ってくれなかったの?」


 彼はいつも笑っていた。


 大丈夫だと言っていた。


 心配するなと言っていた。


 だから私は信じていた。


 明日も会えると。


 来週も会えると。


 卒業しても会えると。


 大人になっても、一緒にいられると。


 そう思っていた。


 でも。


 彼は知っていた。


 自分に残された時間が、私が思っていたほど長くないことを。


 それなのに彼は、最後まで私に言わなかった。


 なぜ?


 今でも分からない。


 もしかしたら。


 私を泣かせたくなかったのかもしれない。


 もしかしたら。


 自分のことを忘れて、普通に生きてほしかったのかもしれない。


 あるいは――


 最後まで、誰かに迷惑をかけることを恐れていたのかもしれない。


 彼は、そういう人だった。


 自分が苦しくても笑う。


 助けてほしくても「大丈夫」と言う。


 寂しくても、一人でいる。


 そして、自分より他人を優先する。


 あの夜もそうだった。


 2026年。


 九月の終わり。


 十七歳の彼は、家を追い出された。


 財布の中には、たった数千円。


 学校へ持っていくバッグ。


 古いスマートフォン。


 それだけだった。


 帰る家はない。


 頼れる人もいない。


 親からもらったものは、何もなかった。


 それでも彼は、誰にも助けを求めなかった。


 駅のベンチに一人で座り。


 夜空を見上げて。


 そして、笑った。


『……明日になれば、何とかなるだろ』


 それが、彼の口癖だった。


 何とかなる。


 何とかする。


 大丈夫。


 大丈夫。


 大丈夫。


 何度も自分に言い聞かせることでしか、彼は自分を支えられなかった。


 そんな彼の前に、私は現れた。


 あの夜。


 私はまだ知らなかった。


 目の前にいる少年が、私の人生を変えることを。


 私も知らなかった。


 彼が、私の人生で最も大切な人になることを。


 そして。


 彼が、私より先にこの世界からいなくなることを。


 私は写真をしまった。


 涙を拭う。


「……今日は、もう帰るね」


 立ち上がる。


 でも、数歩歩いたところで足を止めた。


 振り返る。


 桜の木。


 ベンチ。


 あの日と同じ景色。


 私は小さく笑った。


「また来年」


 誰もいない場所に向かって言う。


 すると、春の風が吹いた。


 桜の花びらが一斉に舞い上がる。


 その瞬間。


 ほんの一瞬だけ。


 隣に彼がいるような気がした。


 制服姿で。


 少し眠そうな顔で。


 いつものように、面倒くさそうに私を見ている。


『……遅い』


 そんな声が聞こえた気がした。


 私は笑った。


「ごめん」


 涙が頬を伝う。


「でも……来たよ」


 風が吹き抜ける。


 彼の姿は消える。


 私は空を見上げた。


 青い空。


 どこまでも続く空。


 十年前。


 彼が見上げていた空と同じだった。


 私は歩き始める。


 桜並木の向こうへ。


 一人で。


 でも、もう寂しくはない。


 彼はもういない。


 それでも、彼が私に残してくれたものは消えない。


 笑うこと。


 泣くこと。


 誰かを大切にすること。


 そして――


 明日を生きること。


 私は今でも覚えている。


 彼が初めて私に笑ってくれた日。


 初めて手を握った日。


 初めて「好き」と言ってくれた日。


 そして。


 最後に「ありがとう」と言った日。


 だから。


 これは、彼が死んだ後の物語ではない。


 これは――


 彼が生きていた時間の物語。


 帰る場所を失った少年と。


 孤独を抱えた少女が出会い。


 ほんの少しの時間だけ。


 お互いの居場所になった物語。


 幸せだった。


 だからこそ。


 失ったときは、世界が壊れたように感じた。


 それでも私は生きている。


 彼が望んだから。


 そして今でも、春になると私はここへ来る。


 桜の下で。


 君を待つために。


 ――これは、2026年の秋。


 一人の少年が帰る場所を失った夜から始まった。


 私がまだ知らなかった。


 彼との出会いが、


 私の人生で一番幸せな時間になることを。


 そして――


 私の人生で一番悲しい別れになることを。

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