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『君がいない春に、僕は生きる』  作者: 綾小路如月


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第九章 言えなかったこと

 十月五日。


 月曜日。


 朝の教室は、いつもと何も変わらなかった。


「おはよう」


「昨日の宿題やった?」


「全然やってない」


「俺も」


 教室のあちこちから、くだらない会話と笑い声が聞こえてくる。


 机を引く音。


 窓の外から聞こえる運動部の掛け声。


 廊下を走る生徒の足音。


 いつもと同じ朝。


 世界は、何事もなかったかのように動いている。


 蓮も、いつも通りの顔をしていた。


 誰にも気づかれないように。


 いつも通りに笑って。


 いつも通りに話して。


 いつも通りに、一日を始めようとしていた。


 けれど。


 胸の奥には、一つの秘密があった。


 美雪には、まだ何も話していない。


 病院のこと。


 毎日飲んでいる薬のこと。


 突然襲ってくる胸の痛み。


 そして――。


 自分自身がずっと抱えている、言葉にできない恐怖。


「……」


 蓮は窓の外へ視線を向けた。


 空は薄い灰色の雲に覆われている。


 今にも雨が降り出しそうだった。


「綾小路」


「……はい」


 先生に呼ばれ、蓮は前を向く。


「この問題、解いてみろ」


「はい」


 黒板を見る。


 問題を確認し、ペンを走らせる。


 答えを書く。


「よし。正解だ」


 蓮は小さく息を吐き、席へ戻った。


 すると、隣の友達が小さな声で話しかけてきた。


「最近、調子いいな」


「そう?」


「ああ。前より明るくなった気がする」


「……そうかな」


「うん」


 友達は少しだけ笑った。


「彼女でもできた?」


「は?」


 思わず声が大きくなった。


 周りの生徒たちが一斉にこちらを見る。


「……何でもない」


 蓮が慌てて前を向くと、友達が声を押し殺して笑った。


「怪しいな」


「うるさい」


 蓮も苦笑する。


 けれど。


 笑った、その瞬間だった。


 胸の奥に、鋭い痛みが走った。


「……っ」


 蓮は反射的に机の下で胸を押さえる。


 息を止める。


 数秒。


 ただ、痛みが過ぎ去るのを待つ。


 やがて。


 何事もなかったように痛みは消えていった。


「……」


 誰にも気づかれていない。


 それだけが、今の蓮には救いだった。


     *


 昼休み。


 いつもの場所に行くと、美雪が待っていた。


「遅い」


「今日は先生に捕まってた」


「何したの?」


「何もしてない」


「本当に?」


「本当だって」


 美雪はじっと蓮の顔を見つめた。


「……どうした?」


「顔色、悪い」


「そう?」


「うん。いつもより」


「寝不足かな」


「昨日、ちゃんと寝た?」


「寝たよ」


「ご飯は?」


「食べた」


「薬は?」


「……」


 その瞬間。


 蓮の表情が止まった。


「……何の薬?」


「……」


「やっぱり」


 美雪の声が少しだけ低くなる。


「何か隠してるでしょ」


 蓮は視線を逸らした。


「別に」


「別に、じゃないよ」


「……」


「この前も、胸を押さえてた」


「……見てたのか」


「うん」


「いつから?」


「階段のところ」


 蓮は黙り込んだ。


 逃げるように視線を落とす。


 何か言わなければと思うのに。


 言葉が出てこない。


 話してしまえば、何かが変わってしまう気がした。


 心配されるのが怖い。


 同情されるのも怖い。


 そして何より――。


 自分の弱さを知られることが怖かった。


 そんな蓮を見て、美雪はしばらく黙っていた。


 責めるような表情ではない。


 ただ、心配そうに彼を見つめていた。


「病院に行ってるの?」


「……たまに」


「何の病気?」


「……」


「言いたくない?」


「……うん」


 美雪は少しだけ目を伏せた。


 それから、静かに言った。


「分かった」


 蓮は思わず顔を上げた。


「……聞かないの?」


「聞きたいよ」


「じゃあ……」


「でも」


 美雪は、ほんの少しだけ笑った。


「言いたくないことを、無理に言わせたくない」


「……」


「蓮が自分から話したいって思ったときでいいよ」


 胸の奥が、ほんの少しだけ熱くなった。


「……ありがとう」


「ただし」


「何?」


「苦しくなったら、ちゃんと言って」


「……分かった」


「絶対?」


「うん」


「約束」


 美雪は右手の小指を差し出した。


「指切り」


「子供かよ」


「いいから」


 蓮は思わず笑った。


 そして、自分の小指を美雪の小指に絡める。


「……約束」


「うん。約束」


 二人の小指がゆっくり離れる。


 その瞬間。


 不思議だった。


 胸の奥にずっと引っかかっていた何かが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。


 まだ、何も話していない。


 病気のことも。


 家族のことも。


 自分が抱えている恐怖も。


 それでも。


 「話さなくても、そばにいてくれる人がいる」


 その事実だけで、少しだけ救われた気がした。


     *


 放課後。


 蓮は一人で歩いていた。


 美雪は生徒会の用事があるらしい。


『先に帰ってて』


 そう言われていた。


 駅へ向かう途中。


 蓮は、ふと一つの小さな公園の前で足を止めた。


 古びたベンチ。


 小さな滑り台。


 少し錆びたブランコ。


 どこにでもあるような、公園だった。


 けれど。


 蓮にとっては、忘れられない場所だった。


「……」


 ゆっくりとベンチに腰を下ろす。


 その瞬間。


 昔の記憶が蘇った。


『蓮、もっと強く蹴れ』


『怖いよ』


『大丈夫だ』


 父親が笑っている。


 あの頃の父親は、優しかった。


 まだ、父親が優しかった頃。


 母親が夕食を作っていた頃。


 家族三人で食卓を囲み、くだらない話をして笑っていた頃。


 蓮は目を閉じた。


 胸の奥が、少しだけ苦しくなる。


 けれど。


 温かかった記憶の後には、必ず別の記憶が浮かんでくる。


『またお前か』


『……ごめん』


『何度言えば分かるんだ』


『……』


『金ばっかりかかる』


『ごめんなさい……』


『出ていけ』


「……っ」


 蓮は目を開けた。


 目の前に広がる公園は、あの頃とほとんど変わっていない。


 変わってしまったのは――。


 自分と、家族だった。


 蓮は空を見上げた。


 昔の父親と。


 今の父親。


 一体、どちらが本当の父親だったのだろう。


 何度考えても、答えは出なかった。


 優しかった人が。


 どうして自分を追い出したのか。


 どうして、あんな言葉を言ったのか。


 どれだけ考えても分からない。


 ただ。


 最後に父親から言われた言葉だけは。


 今でも、耳の奥に残っている。


『お前がいなくなれば、家は少し楽になる』


「……」


 蓮は強く拳を握った。


 あの言葉は。


 胸の痛みなんかより、ずっと痛かった。


 自分は――。


 家族にとって、邪魔だったのだろうか。


 そう考えてしまう。


 だから。


 誰かに頼るのが怖い。


 誰かに迷惑をかけるのが怖い。


 誰かの負担になるのが怖い。


 そして。


 また同じ言葉を聞くのが怖かった。


『お前がいると困る』


 その言葉だけは。


 もう二度と聞きたくなかった。


     *


 その夜。


 スマートフォンが震えた。


 美雪からのメッセージだった。


『今どこ?』


 蓮は画面を見つめ、返信する。


『施設』


『本当に?』


『本当』


『今日、少し変だった』


『そう?』


『うん』


『何が?』


 蓮はしばらく返信欄を見つめた。


 何と答えればいいのか分からない。


 迷った末に、短く打ち込む。


『昔のこと思い出してた』


 送信。


 既読がつく。


 けれど。


 すぐには返信が来なかった。


 蓮はスマートフォンを握ったまま待つ。


 やがて。


『家族のこと?』


 その一言を見た瞬間。


 蓮の指が止まった。


 少しだけ迷ってから。


『うん』


 送信する。


 しばらくして。


『……そっか』


 それだけだった。


 蓮は小さく息を吐いた。


 何も聞かれなかったことに、少し安心した。


 けれど。


 次に届いたメッセージを見て、蓮は目を止めた。


『いつか話したくなったら、聞くよ』


「……」


 蓮は、その文章を何度も読み返した。


 「話して」とは言わない。


 「教えて」とも言わない。


 ただ――。


 「いつか」。


 その言葉が。


 なぜか嬉しかった。


 今すぐじゃなくてもいい。


 無理に話さなくてもいい。


 それでも、待っていてくれる人がいる。


 そう思えた。


『ありがとう』


 短い言葉を送る。


 数秒後。


『おやすみ』


『おやすみ』


 スマートフォンをベッドの横に置く。


 部屋が静かになる。


 蓮は仰向けになり、天井を見つめた。


「……いつか、か」


 いつか。


 本当に、自分は誰かにすべてを話せる日が来るのだろうか。


 病気のことも。


 家族のことも。


 ずっと胸の奥に閉じ込めてきた、自分の弱さも。


 そんな日が本当に来るのだろうか。


 蓮には、まだ分からなかった。


 ただ。


 初めて。


 少しだけ、その「いつか」を信じてみたいと思った。


     *


 翌朝。


 蓮は目を覚ました。


「……っ」


 胸が痛い。


 昨日よりも、ずっと強かった。


 ベッドの端を掴む。


 息が苦しい。


 呼吸を整えようとしても、なかなか落ち着かない。


「……大丈夫……」


 自分に言い聞かせる。


 一分。


 二分。


 長く感じる時間が過ぎていく。


 やがて。


 痛みが少しずつ引いていった。


「……はぁ……」


 蓮は深く息を吐いた。


 額には薄く汗が浮かんでいる。


 いつものように薬を飲む。


 そして、鏡の前に立った。


 顔色が悪い。


 自分でも分かる。


「……今日は休もうかな」


 そんな考えが頭をよぎった。


 けれど。


 ベッドの上に置いていたスマートフォンが目に入る。


 画面には、美雪からのメッセージが届いていた。


『おはよう』


『今日も学校でね』


 蓮はしばらく画面を見つめていた。


 そして。


『おはよう』


『うん、学校行く』


 返信する。


 制服に着替える。


 鞄を持つ。


 部屋を出る。


 そして。


 学校へ向かう。


 一歩。


 また一歩。


 少し胸が重い。


 それでも。


 まだ、大丈夫。


 そう思っていた。


 ――そのときの蓮は、まだ知らなかった。


 その日の午後。


 自分の人生を大きく変える出来事が起こることを。


 そして。


 美雪が初めて。


 蓮が隠していた「秘密」の本当の意味を知ることになることを。


 まだ、誰も知らない。


 この先に待っている未来を。


 そして。


 二人の運命が、静かに動き始めていることを――。

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