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『君がいない春に、僕は生きる』  作者: 綾小路如月


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第十章 知られたくなかった秘密

 十月六日。


 午後一時四十二分。


 昼休みが終わり、五時間目の授業が始まった。


 教室には、先生の声だけが静かに響いている。


「では、この問題を――」


 蓮は黒板を見つめた。


 その瞬間。


 文字が、ぼやけた。


「……」


 蓮は目をこすった。


 もう一度、黒板を見る。


 今度は少しだけ、はっきり見えた。


 大丈夫。


 そう自分に言い聞かせる。


 昨日から、胸の痛みが続いていた。


 朝も痛かった。


 昼休みも、少しだけ痛かった。


 けれど。


 今までにも何度かあったことだ。


 だから。


 今回も大丈夫だと思っていた。


 そう思いたかった。


 蓮はノートに視線を落とし、文字を書き始める。


 一行。


 二行。


 三行。


 そのときだった。


 突然。


 指先から力が抜けた。


 カラン――。


 ペンが床に落ちる。


 小さな音だった。


 けれど、隣の生徒には聞こえたらしい。


「綾小路?」


「……ごめん」


 蓮はペンを拾おうと手を伸ばした。


 しかし。


 手に力が入らない。


「……あれ?」


 呼吸が苦しい。


 胸の奥が、強く締めつけられる。


「……っ」


 蓮は机の下で胸を押さえた。


 冷たい汗が背中を伝う。


 息を吸おうとしても、うまく吸えない。


 苦しい。


 怖い。


 でも。


 ここで倒れるわけにはいかない。


 そう思った。


「綾小路くん?」


 先生の声が聞こえる。


「……大丈夫です」


 どうにか声を絞り出した。


 しかし。


 自分でも分かっていた。


 大丈夫なはずがない。


 教室が静まり返る。


「顔色が悪いぞ」


「少し……寝不足で」


「保健室へ行け」


「大丈夫です」


「いいから」


 先生が近づいてくる。


 蓮は何とか立ち上がろうとした。


 その瞬間。


 視界が真っ暗になった。


「……っ」


 身体から力が抜ける。


 床が近づいてくる。


「綾小路!」


 誰かが慌てて身体を支えた。


 机が大きな音を立てる。


 教室が一気に騒がしくなる。


「先生!」


「大丈夫か!?」


「誰か保健室を――!」


 いくつもの声が聞こえる。


 蓮は何か言おうとした。


 けれど。


 声が出なかった。


 意識が遠のいていく。


 最後に見えたのは――。


 教室の白い天井だった。


     *


 目を開ける。


 白い天井。


 消毒液のような薬品の匂い。


「……保健室?」


 かすれた声で呟く。


「起きた?」


 すぐ近くから、女性の声が聞こえた。


 保健室の先生だった。


「はい……」


「無理に起きないで」


 蓮は身体を起こそうとしたが、先生に肩を押さえられる。


「そのままでいいよ」


「……授業は?」


 先生は少し呆れたように息を吐いた。


「そんなこと、今は気にしてる場合じゃないよ」


「……すみません」


「謝らなくていい」


 優しい声だった。


 けれど。


 その優しさが、今の蓮には少しだけ苦しかった。


「最近、ちゃんと寝てる?」


「はい」


「食事は?」


「……食べてます」


「病院には?」


「……」


 蓮の口が閉じる。


 先生は、その反応を見逃さなかった。


「持病があるの?」


「……」


「蓮くん」


 先生の声が少しだけ柔らかくなる。


「学校として、あなたの体調を把握しておきたいの」


「……すみません」


「だから、謝らなくていいって」


 蓮は何も言えず、ただ天井を見つめた。


 逃げたい。


 何も聞かれたくない。


 知られたくない。


 自分の身体のことを。


 自分の弱さを。


 誰かに知られるのが、怖かった。


「……病院には、行っています」


「そう」


「定期的に……」


「何か病気があるの?」


「……」


 答えられない。


 先生は少し考えるように黙ったあと、それ以上は聞かなかった。


「今日は帰ったほうがいいよ」


「でも……」


「無理して学校に残る必要はないから」


「……はい」


 先生が立ち上がる。


「美雪さんにも連絡する?」


 蓮の目が大きくなる。


「……どうして?」


「三年生の美雪さん。保健室の前で、ずっと待ってるよ」


「……」


 胸の奥が、きゅっと締めつけられた。


 今、一番会いたくない。


 いや。


 本当は――。


 一番、会いたかった。


 だからこそ。


 知られたくなかった。


「……呼ばないでください」


「どうして?」


「心配……させたくないから」


 先生は少し困ったように笑った。


「もう十分、心配してると思うけど」


     *


 保健室の外。


 美雪は壁にもたれながら立っていた。


 手にはスマートフォン。


 何度も画面を確認する。


 何度メッセージを送っても、既読がつかない。


『大丈夫?』


『起きた?』


『返事して』


 送っても。


 返事はない。


 美雪はスマートフォンを強く握りしめた。


「……馬鹿」


 誰に向けた言葉なのか。


 自分でも分からなかった。


 ただ。


 怖かった。


 授業中に突然倒れた。


 保健室へ運ばれた。


 それだけしか聞いていない。


 だからこそ。


 悪い想像ばかりが頭の中を駆け巡る。


「……お願いだから」


 小さく呟く。


「何でもないって言ってよ……」


 やがて。


 保健室のドアが開いた。


 蓮が出てくる。


「……美雪」


「……」


 美雪は何も言わなかった。


 ただ。


 蓮の前まで歩いていく。


「大丈夫?」


「うん」


「……嘘」


「……」


「先生から聞いた」


「何を?」


「倒れたって」


「ちょっと寝不足だっただけだよ」


「違う」


 美雪の声が震えた。


「昨日も胸が痛かったんでしょ?」


「……」


「今朝も?」


「……」


「だから、今日も苦しかったんでしょ?」


 蓮は答えられなかった。


 視線を逸らす。


「……ごめん」


「謝らないで」


「でも――」


「謝らないでよ!」


 美雪の声が廊下に響いた。


 蓮が驚いて顔を上げる。


 美雪の目には、涙が浮かんでいた。


「……泣くなよ」


「誰のせい?」


「……俺」


「そうだよ」


 美雪は涙を拭った。


「なんで……何も言ってくれないの?」


「……」


「私、そんなに頼りない?」


「違う」


「じゃあ、なんで?」


 蓮は答えられなかった。


 言葉にしようとすると、胸の奥が苦しくなる。


 怖かった。


 もし話してしまったら。


 もし本当のことを知られたら。


 今までと同じように笑ってくれなくなるかもしれない。


 そう思うと、どうしても口を開けなかった。


 長い沈黙が流れる。


 やがて。


 蓮は小さく呟いた。


「……怖いんだ」


「何が?」


「知られるのが」


「……何を?」


 蓮は強く拳を握った。


 そして。


 逃げることを諦めるように、ゆっくり口を開いた。


「俺の……病気」


 美雪の表情が止まった。


「……病気?」


 蓮は小さく頷く。


「うん」


「どんな病気?」


「……心臓」


「……心臓?」


「うん」


 美雪の顔から、少しずつ血の気が引いていく。


「いつから……?」


「小さい頃から」


「治るの?」


「……」


 蓮は答えなかった。


 その沈黙だけで。


 美雪には十分だった。


「……治らないの?」


「治療はしてる」


「それだけ?」


「……」


「蓮」


 美雪が、初めて震える声で彼の名前を呼んだ。


「ちゃんと教えて」


 蓮は目を閉じた。


「……病気は、少しずつ悪くなってる」


「……」


「だから、病院にも行ってる」


「薬も?」


「うん」


「じゃあ……」


 美雪の声が震える。


「これから……どうなるの?」


 蓮は黙った。


 廊下の窓から、秋の風が吹き込んでくる。


 カーテンが静かに揺れた。


「……分からない」


 蓮は嘘をついた。


 本当は。


 少しだけ知っていた。


 以前、医師から言われたことがある。


 これから先。


 症状が悪化する可能性がある。


 無理をしてはいけない。


 激しい運動は避ける。


 定期的に検査を受ける。


 そして――。


 最悪の場合。


 突然、心臓が止まることもある。


 その言葉を聞いた日のことを。


 蓮は今でも覚えている。


 怖かった。


 死ぬことが。


 何よりも。


 自分がいなくなったあとに、誰かが悲しむことが。


 だから。


 美雪には言えなかった。


 言いたくなかった。


「……ごめん」


 蓮が小さく呟く。


「またそれ……」


「……」


「謝らないで」


「……分かった」


 美雪は涙を拭った。


 そして、蓮をまっすぐ見つめる。


「じゃあ、一つだけ約束して」


「何?」


「苦しくなったら、私に言う」


「……」


「絶対に」


「……分かった」


「嘘じゃない?」


「うん」


「本当に?」


「……うん」


「指切り」


「……また?」


「また」


 美雪は小指を差し出した。


 蓮も自分の小指を絡める。


「約束」


「約束」


 指を離す。


 けれど。


 美雪の胸の中には、重い不安が残っていた。


 蓮の笑顔の奥に。


 自分が知らなかった時間が、どれほどあったのだろう。


 そう考えると、胸が痛かった。


     *


 その日の放課後。


 二人は一緒に学校を出た。


 いつもなら。


 くだらない話をする。


 今日あったことを話す。


 時には笑う。


 けれど。


 今日は、ほとんど会話がなかった。


 美雪は何度も蓮を見る。


 そのたびに、蓮は笑った。


「何?」


「……別に」


「何か言いたそうだけど」


「……ううん」


 美雪は前を向いた。


 しばらく歩いたあと。


 小さな声で呟いた。


「……生きてね」


「……え?」


 蓮が足を止める。


 美雪は振り返らなかった。


「何でもない」


「美雪――」


「本当に、何でもないから」


 美雪はそのまま歩き続けた。


 蓮は追いかけながら。


 その言葉を何度も頭の中で繰り返した。


 ――生きてね。


 たった四文字。


 なのに。


 なぜか胸の奥に深く残った。


     *


 夜。


 蓮は一人で部屋にいた。


 机の上には。


 薬。


 診察券。


 病院でもらった説明書。


 蓮は、その中から一枚の紙を手に取った。


 そこには。


 自分の病名が書かれている。


 ――拡張型心筋症。


 十七歳。


 まだ、十七歳だ。


 普通なら。


 これから先、いくらでも未来がある年齢だ。


 友達と笑って。


 好きな人と過ごして。


 くだらないことで喧嘩して。


 卒業して。


 大人になって。


 いつか、自分の家族を持つ。


 そんな未来が、当たり前のように続いていくはずだった。


 けれど。


 自分には、その「当たり前」が少し遠く感じられる。


 蓮は紙を見つめた。


 医師から何度も言われた言葉が、頭の中に蘇る。


『無理をしないでください』


 蓮は紙をゆっくり折った。


 そして。


 引き出しの奥へしまった。


 見えない場所に隠すように。


 自分自身からも目を逸らすように。


 そのあと。


 スマートフォンを手に取った。


 美雪からメッセージが届いている。


『今日はちゃんと休んでね』


 蓮は少しだけ笑った。


『うん』


 送信する。


 すぐに返信が来た。


『明日も学校来る?』


 蓮は画面を見つめた。


 少しだけ迷う。


 そして。


『行くよ』


 送信。


 しばらくして。


『よかった』


 その一言を見て。


 蓮はスマートフォンを胸元に置いた。


「……生きるか」


 小さく呟く。


 明日も。


 学校へ行く。


 美雪と話す。


 一緒に昼ご飯を食べる。


 くだらないことで笑う。


 そんな普通の日々を。


 もう少しだけ。


 続けたい。


 それだけでいい。


 特別なことなんて、いらない。


 ただ。


 明日も目を覚まして。


 また美雪に会えれば。


 それでいい。


 蓮は静かに目を閉じた。


 その夜。


 初めて自分の病気を知った少女と。


 ずっと病気を抱えて生きてきた少年は。


 それぞれの場所で。


 同じ願いを抱いていた。


 ――明日も、会えますように。


 けれど。


 二人はまだ知らなかった。


 その願いが。


 いつまでも当たり前に続くわけではないことを。


 秋の夜は。


 二人の不安を包み込むように。


 静かに、深く更けていった。

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