第十一章 病人じゃない
十月七日。
朝。
蓮はいつもより早く学校へ向かった。
昨日のことが、頭から離れなかった。
保健室。
美雪の涙。
そして――
「生きてね」
あの言葉。
何度思い出しても、胸が苦しくなる。
学校の門をくぐる。
いつもの生徒たち。
いつもの声。
いつもの朝。
蓮は教室へ向かった。
「おはよう」
「おはよう」
友達と挨拶を交わし、席に座る。
何も変わらない。
――そう思っていた。
「綾小路くん」
後ろから声がした。
振り返る。
美雪だった。
「……おはよう」
「おはよう」
「昨日、眠れた?」
「寝た」
「本当に?」
「うん」
「胸は?」
「大丈夫」
美雪の眉が、少し下がった。
「……また」
「何?」
「その言葉」
「大丈夫って?」
「うん」
「本当に大丈夫だから」
「……」
美雪は納得していないようだった。
「今日は体育ある?」
「ある」
「休んで」
「なんで?」
「心臓に負担がかかるから」
「先生には何も言われてない」
「でも――」
「美雪」
蓮は少し強い口調で言った。
「俺は病人じゃない」
美雪が黙った。
「……」
「もちろん、病気はある」
「……うん」
「でも、それだけじゃない」
蓮は自分の胸を指した。
「俺は普通の高校生だよ」
「……分かってる」
「なら――」
「分かってるけど……」
美雪の声が小さくなる。
「怖いんだよ」
蓮は何も言えなかった。
「昨日、倒れた綾小路くんを見て……」
美雪は制服の袖をぎゅっと握った。
「もう二度と目を開けなかったらどうしようって思った」
「……」
「だから……」
「……美雪」
「ごめん」
美雪は小さく笑った。
「今日は気をつける」
そう言って、教室を出ていった。
蓮は、その背中を見つめた。
「……」
自分は、何を言っているんだろう。
彼女が心配するのは、当然だった。
でも、同時に怖かった。
「病気の人」として扱われることが。
自分自身が、病気だけの人間になってしまうことが。
*
五時間目。
体育。
今日は軽い持久走だった。
先生が説明する。
「無理をするな。体調が悪い者は申告すること」
蓮は列に並んだ。
スタートの合図とともに、みんなが走り始める。
蓮も走る。
最初は問題なかった。
少しずつ速度を上げる。
風が顔に当たる。
気持ちいい。
久しぶりだった。
自分が――
普通の高校生だと感じられる瞬間。
でも。
校舎の二階。
窓から、美雪がこちらを見ていた。
「……」
蓮は気づいた。
そして、少しだけ速度を落とした。
走り終える。
胸が少し痛い。
でも、我慢できる程度だった。
体育が終わったあと。
廊下に出ると、美雪が待っていた。
「走ったの?」
「うん」
「なんで?」
「体育だから」
「先生に言わなかったの?」
「言う必要ない」
「でも――」
「美雪」
蓮はため息をついた。
「俺、普通に学校生活を送りたいんだ」
「……」
「体育もしたい」
「でも……」
「もちろん、無理はしない」
「……本当に?」
「本当」
美雪は黙った。
「じゃあ……」
「ん?」
「約束」
「また?」
「うん」
「何の?」
「苦しくなったら、ちゃんと止まる」
「……分かった」
「絶対」
「絶対」
美雪は、ようやく笑った。
「じゃあ、許す」
「何様だよ」
「先輩」
「……そうでした」
二人は笑った。
*
昼休み。
屋上。
二人は並んで座っていた。
今日は美雪が作った弁当だった。
「今日は何?」
「卵焼き」
「また?」
「好きでしょ?」
「……好き」
「じゃあ、食べて」
蓮は卵焼きを一つ取った。
「美味しい」
「本当?」
「うん」
「よかった」
美雪も卵焼きを口に運ぶ。
しばらくの間、二人は何も話さなかった。
でも。
気まずくはなかった。
「ねえ」
美雪が言った。
「何?」
「昨日のこと」
「うん」
「怖かった」
「……ごめん」
「だから、謝らないで」
「でも……」
「約束したでしょ」
「何の?」
「謝りすぎない」
「そんな約束したっけ?」
「今した」
「……勝手だな」
「うん」
二人は笑った。
そして。
美雪は少し真剣な顔になった。
「綾小路くん」
「ん?」
「病気のこと」
「うん」
「もっと知ってもいい?」
蓮は箸を止めた。
「……なんで?」
「ちゃんと理解したいから」
「……」
「何をしてはいけないのか」
「……」
「何ならできるのか」
「……」
「もし苦しくなったとき、どうすればいいのか」
蓮は黙っていた。
そして。
「……分かった」
小さく頷いた。
「でも」
「うん」
「俺を病人扱いしないで」
美雪は少し驚いた。
「……分かった」
「普通にして」
「うん」
「笑って」
「……うん」
「怒ってもいい」
「それはいつもしてる」
「そうだな」
二人は笑った。
「じゃあ」
美雪が手を差し出す。
「友達として、約束」
蓮は、その手を見る。
そして。
軽く握った。
「約束」
*
放課後。
二人は学校を出た。
夕方の空は赤く染まっていた。
「今日、どこか寄る?」
美雪が聞いた。
「どこ?」
「公園」
「また?」
「今日はブランコ」
「子供かよ」
「いいから」
二人は近くの公園へ向かった。
美雪がブランコに座る。
「押して」
「自分でこげよ」
「先輩命令」
「……はいはい」
蓮が後ろから押す。
ブランコが揺れる。
「もっと!」
「危ないって」
「大丈夫!」
「その言葉、俺が言うやつ」
「じゃあ、真似した」
「……」
蓮は笑った。
美雪も笑った。
何度も。
二人の笑い声が、夕暮れの公園に響いた。
*
帰り道。
美雪が突然、口を開いた。
「今日、楽しかった」
「俺も」
「明日も、こういう日がいいね」
「……うん」
蓮は空を見上げた。
赤い夕焼け。
その向こうに、一番星が見えた。
「なあ、美雪」
「何?」
「俺さ……」
「うん」
「病気があっても」
「……うん」
「普通に生きたい」
美雪は黙って聞いている。
「学校に行って」
「うん」
「友達と笑って」
「うん」
「好きなものを食べて」
「うん」
「……誰かを好きになったり」
最後の言葉だけ、少し声が小さくなった。
美雪は何も言わなかった。
ただ。
少しだけ頬を赤くした。
「……そうだね」
「うん」
二人は歩き続けた。
その距離は。
昨日より、少しだけ近かった。
まだ。
恋人ではない。
まだ。
お互いの気持ちにも気づいていない。
でも。
二人の間には、確かに何かが生まれていた。
それは。
名前をつけるには、まだ少し早いものだった。
*
その夜。
蓮はベッドに横になっていた。
スマートフォンを見る。
美雪から写真が送られてきていた。
今日の夕焼け。
そして。
ブランコに乗っている美雪。
『今日の記念』
蓮は思わず笑った。
『ありがとう』
少し考えてから、もう一度送る。
『明日もよろしく』
すぐに返事が届いた。
『こちらこそ』
蓮はスマートフォンを胸の上に置いた。
目を閉じる。
そして。
小さく呟いた。
「……明日も」
明日も学校へ行く。
明日も美雪に会う。
明日も笑う。
それだけでいい。
それだけで。
十分だった。
けれど――
同じ頃。
病院では。
一人の医師が、蓮のカルテを見つめていた。
「……少し進行しているな」
静かな診察室。
医師は画面を閉じた。
「次の検査を早めたほうがいい」
まだ。
蓮は知らない。
自分の身体の中で。
残された時間が、少しずつ静かに減っていることを。
そして。
その限られた時間を。
誰よりも大切にしてくれる少女が――
すぐそばにいることを。




