第十二章 やりたいこと
十月八日。
朝。
蓮は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
午前五時四十七分。
「……早いな」
窓の外は、まだ薄暗かった。
蓮はしばらく天井を見つめていた。
胸に痛みはない。
呼吸も普通だ。
今日は大丈夫。
そう思った。
ベッドから起き上がり、制服に着替える。
鏡の前に立つ。
少しだけ口角を上げてみた。
「……普通」
その言葉を口にした瞬間。
なぜか、胸の奥が少しだけ軽くなった。
*
学校へ向かう途中。
駅前で美雪を見つけた。
「おはよう」
「おはよう」
「今日は早いね」
「綾小路くんこそ」
「目が覚めた」
「ちゃんと寝た?」
「うん」
「胸は?」
「大丈夫」
美雪が少し睨む。
「……今の、本当?」
「本当」
「なら、いい」
そう言って、美雪は小さく笑った。
二人は並んで歩き始めた。
朝の空気は冷たかった。
道路には、通勤する人。
学校へ向かう学生。
自転車。
車。
いつもと変わらない朝の風景。
蓮はふと思った。
こういう何気ない景色が――
最近は、好きになっていた。
以前なら、何とも思わなかった。
ただ過ぎていくだけだった毎日。
でも今は。
その一つ一つが、妙に大切に感じられた。
*
昼休み。
二人はいつもの場所にいた。
美雪が、一冊のノートを取り出した。
「何これ?」
「秘密」
「また?」
「開けて」
蓮がノートを開く。
一ページ目。
そこには、大きな文字で書かれていた。
『二人でやりたいことリスト』
「……何これ」
「そのまま」
「二人で?」
「うん」
「なんで?」
「やりたいことを、忘れないため」
「……」
蓮は少し笑った。
「子供みたい」
「いいの」
「何個ある?」
「まだ一個もない」
「じゃあ、今から作るんだ」
「そういうこと」
美雪がペンを持つ。
「じゃあ、最初」
ノートに書く。
① 一緒に海を見る
「海?」
「うん」
「いいな」
「次」
蓮がペンを取った。
② 夜の星を見る
「いいね」
「じゃあ、次」
美雪が続ける。
③ 一緒に遊園地へ行く
「絶叫系は?」
「絶対乗る」
「俺は嫌」
「乗る」
「……」
「次」
蓮が書く。
④ 二人で料理する
「料理できるの?」
「簡単なものなら」
「何作れる?」
「……卵焼き」
「それ、料理?」
「料理だろ」
「じゃあ、私と同じ」
二人は顔を見合わせて笑った。
そのあとも、二人は思いつくたびに書き足していった。
⑤ 一緒に花火を見る
⑥ 旅行する
⑦ 雪を見る
⑧ 写真をたくさん撮る
⑨ お互いの好きな本を読む
⑩ 一緒に日の出を見る
十個目を書き終えたところで。
二人は顔を見合わせた。
「……結構あるね」
「うん」
「全部できるかな」
美雪が、ぽつりと言った。
蓮は笑った。
「できるよ」
「……本当に?」
「うん」
少し間を置いて。
「時間はあるから」
「……うん」
美雪も笑った。
けれど。
その笑顔の奥には、わずかな不安が残っていた。
美雪の頭には、昨日の医師の言葉が残っている。
蓮には。
限られた時間しかないかもしれない。
そのことを。
蓮自身は、まだ知らない。
だから美雪は、その不安を胸の奥にしまった。
今は。
一つずつでいい。
このリストに書いたことを。
一つずつ、叶えていけばいい。
そう思った。
*
放課後。
「今日、どれか一つ叶えよう」
美雪が言った。
「今日?」
「うん」
「急だな」
「思いついたときにやるの」
「何する?」
「日の出は無理」
「今、夕方だからな」
「海も遠い」
「旅行も無理」
「料理も材料がない」
「じゃあ、何?」
美雪は少し考えた。
そして。
「写真」
「写真?」
「うん」
スマートフォンを取り出す。
「今日は写真を撮ろう」
「どこで?」
「学校」
「学校?」
「思い出になる場所、全部」
美雪はそう言って歩き始めた。
校門。
図書室。
中庭。
体育館。
屋上へ続く階段。
そして、教室。
最後に。
二人がいつも昼休みに座っている場所。
「ここ」
美雪がカメラを向ける。
「撮るよ」
「待って」
「何?」
「髪」
蓮は慌てて髪を整える。
「そんなに気にする?」
「写真だから」
「ふふ」
美雪が笑う。
カシャ。
シャッター音が響いた。
画面には。
美雪と蓮が並んで笑っている姿が映っていた。
「……いい写真」
美雪が小さく呟く。
「うん」
「送るね」
「ありがとう」
蓮は送られてきた写真を見つめた。
そして。
大切なものをしまうように、スマートフォンへ保存した。
*
帰り道。
二人はコンビニに寄った。
「アイス食べよう」
「寒くない?」
「食べたい」
「じゃあ、買うか」
二人でアイスを選ぶ。
店を出て、近くのベンチに座った。
「……寒い」
「だから言っただろ」
「でも、美味しい」
「ならいいか」
二人はアイスを食べながら、他愛のない話をした。
「もし宝くじが当たったら、どうする?」
「家を買う」
「大きい家?」
「普通でいい」
「私は旅行」
「どこ?」
「北海道」
「なんで?」
「雪が見たい」
「俺も」
「じゃあ、一緒に行く?」
「うん」
蓮は笑った。
「北海道か……」
その目は、少しだけ遠くを見ていた。
まるで。
本当にそこへ行ける未来を、思い描いているようだった。
北海道の雪。
白い景色。
隣には――
きっと、美雪がいる。
そんな未来を想像すると。
胸の奥が、ほんの少し温かくなった。
*
その夜。
蓮は自分の部屋で、今日撮った写真を眺めていた。
美雪と二人。
並んで笑っている。
蓮はその写真を、お気に入りに登録した。
そして。
「二人でやりたいことリスト」の写真を見る。
十個。
まだ、十個。
これから増やせばいい。
そう思った。
海も。
星も。
遊園地も。
旅行も。
全部。
いつか叶えればいい。
そのとき。
スマートフォンが鳴った。
「……?」
画面を見る。
知らない番号だった。
少し迷ってから、蓮は電話に出た。
「もしもし」
『綾小路蓮くんですか?』
「はい」
『病院の者ですが』
その瞬間。
蓮の表情が変わった。
『先日の検査について、少しお話があります』
「……はい」
『できれば、早めに来てください』
蓮は黙った。
胸の奥に、嫌な感覚が広がっていく。
「……分かりました」
電話を切る。
部屋が静かになった。
蓮はスマートフォンを強く握った。
「……」
不安だった。
怖かった。
何を言われるのか。
頭の中で、いくつもの嫌な想像が浮かんでは消える。
でも。
蓮はそれを無理やり押し込めるように、もう一度写真を見た。
そこには。
美雪が笑っていた。
「……まだ」
蓮は小さく呟いた。
「まだ、十個しかない」
だから。
もっと増やしたい。
二十個。
三十個。
百個。
全部、叶えたい。
そのためにも。
明日も生きなければならない。
*
翌日。
病院。
蓮は一人で診察室に入った。
医師が画面を見つめている。
「綾小路くん」
「はい」
「最近、胸の痛みは?」
「少し増えました」
「失神は?」
「昨日、学校で一度……」
医師の表情が変わった。
「それを誰かに話した?」
「……友達には」
「家族は?」
「……いません」
「……そうか」
医師は少し黙った。
そして。
「検査結果を説明します」
蓮は椅子に座った。
画面に心臓の画像が映し出される。
医師が説明を始める。
病状。
進行。
治療。
そして。
これからの可能性。
一つ一つ。
蓮は聞いていた。
聞いているはずだった。
けれど。
途中から。
言葉が頭に入ってこなくなった。
まるで。
自分だけが、遠い場所に置き去りにされたようだった。
医師の声だけが、遠くから聞こえてくる。
そして最後に。
「無理はしないでください」
「……はい」
「これからのことを、家族とも相談したほうがいいでしょう」
蓮は、少しだけ笑った。
その笑顔は、自分でも分かるほど寂しかった。
「……家族はいません」
医師は何も言えなかった。
蓮も、それ以上は何も言わなかった。
やがて。
「ありがとうございました」
椅子から立ち上がる。
診察室を出た。
病院の長い廊下を、一人で歩く。
足音だけが響いていた。
外へ出る。
冷たい風が頬を撫でた。
蓮は空を見上げる。
雲の隙間から、薄い青空が見えていた。
「……まだ、十個」
小さく笑う。
少しだけ、声が震えていた。
そして。
スマートフォンを取り出す。
美雪にメッセージを送った。
『次、何したい?』
すぐに返信が届く。
『急にどうしたの?』
『リスト、増やそう』
『いいよ』
『じゃあ、次は?』
少しして。
返信が届いた。
『海』
蓮は、思わず笑った。
『決まり』
そして。
ノートを開く。
新しい一行を書いた。
⑪ 二人で海を見る
その文字を。
蓮はしばらく見つめていた。
たった一行。
それだけなのに。
なぜか、とても大切な約束のように感じた。
知らなかった。
この「海」が。
二人にとって、忘れられない一日になることを。
そして。
この小さなリストが。
やがて。
蓮が残していく――
最後の願いになることを。




