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『君がいない春に、僕は生きる』  作者: 綾小路如月


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第十三章 海の音

 十月十日。


 土曜日。


 朝六時。


 蓮は目を覚ました。


 まだ少し眠気の残る目で、枕元に置いていたスマートフォンを手に取る。


 画面を見ると、美雪からメッセージが届いていた。


『起きてる?』


 蓮はすぐに返信する。


『起きてる』


 すると、ほとんど間を置かずに返事が返ってきた。


『よかった』


『今日は寝坊しないでね』


『誰に言ってる?』


『綾小路くん』


『俺は寝坊しない』


『前科あるよ』


『一回だけだろ』


『十分』


 そのやり取りに、蓮は思わず笑った。


 今日は――。


 「二人でやりたいことリスト」


 十一番目の日。


 ――海を見る。


 蓮はベッドから起き上がり、出かける準備を始めた。


 財布を確認する。


 必要最低限のお金だけを入れる。


 薬も忘れずに持った。


 スマートフォン。


 財布。


 薬。


 そして、小さなノート。


 準備を終え、玄関を出る。


 外は少し肌寒かった。


 けれど、空は雲一つなく、どこまでも青かった。


     *


 午前七時。


 駅前。


 美雪が待っていた。


「おはよう」


「おはよう」


 美雪は小さなバッグを肩に掛けている。


「準備できた?」


「うん」


「薬は?」


 蓮は少し驚いたように彼女を見る。


「……持ってる」


「よし」


「お母さんかよ」


「心配してるだけ」


「分かってる」


 二人は電車に乗った。


 窓の外を、見慣れた街並みが流れていく。


 ビル。


 住宅。


 田んぼ。


 そして、少しずつ建物が減っていく。


 いつもの街から離れていくにつれて、窓の外の景色も変わっていった。


「海、久しぶり」


 美雪が窓の外を眺めながら言った。


「俺は……」


 蓮は少し考える。


「覚えてない」


「え?」


「子供の頃に一度行った気がする」


「家族と?」


「たぶん」


「覚えてないの?」


「ほとんど」


 美雪は、それ以上何も聞かなかった。


 ただ、静かに蓮の隣に座っていた。


 蓮は窓の外を見る。


 青い空。


 遠くに見える山。


 白い雲。


 そして、その向こうに――。


 海がある。


     *


 午前九時三十五分。


 二人は海に着いた。


「……」


 蓮は、そこで足を止めた。


 目の前に広がっていたのは、どこまでも続く青だった。


 波が砂浜へ近づき――。


 そして、静かに戻っていく。


 ざあ……。


 ざあ……。


 その音を聞いているだけで、不思議と胸の奥が落ち着いていく。


 蓮は、しばらく何も言えなかった。


「綺麗……」


 隣で、美雪が小さく呟いた。


「……うん」


 それだけしか言えなかった。


 でも、それで十分だった。


 蓮は靴を脱いだ。


「え?」


「ちょっと歩いてくる」


「待って」


 蓮は砂浜へ歩いていく。


 裸足に触れる砂は、思っていたより冷たかった。


 波が足元まで近づいてくる。


「冷たっ」


 思わず声が出た。


 その瞬間、蓮は笑った。


 美雪も靴を脱ぐ。


「待ってよ」


 二人で海へ近づいていく。


 波が足を濡らした。


「冷たい!」


「だから言っただろ」


「言ってない」


「今言った」


「今じゃ遅い!」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 波から逃げるように砂浜を走る。


 美雪が笑う。


 蓮も笑う。


 二人の笑い声が、どこまでも広がる海へ吸い込まれていく。


 その瞬間だけは。


 病気のことも。


 未来のことも。


 何も考えなかった。


 ただ、楽しかった。


     *


 昼。


 二人は海の近くにある小さな店に入った。


「何食べる?」


「ラーメン」


「海なのに?」


「海だから」


「意味分からない」


 二人でラーメンを注文する。


「美味しい」


「うん」


「でも、ちょっと熱い」


「猫舌?」


「違う」


「じゃあ何?」


「熱いだけ」


「ふふ」


 美雪が笑う。


 蓮もつられて笑った。


 食べ終わると、二人は再び海へ戻った。


 美雪がスマートフォンを取り出す。


「写真撮ろう」


「また?」


「今日はたくさん撮る」


「何枚?」


「百枚」


「多すぎる」


「じゃあ五十」


「半分になってない」


「じゃあ十」


「急に減ったな」


 二人で笑う。


 写真を撮る。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 海を背景に。


 空を背景に。


 砂浜で。


 波の近くで。


 そして――。


 二人で肩を並べて。


「笑って」


「無理」


「笑って」


「……」


「ほら」


 美雪が笑う。


 蓮も、その笑顔につられるように笑った。


 カシャ。


 シャッター音が響く。


「……いいね」


 美雪が画面を見ながら言った。


「うん」


 蓮も画面を見る。


 そこには、自然に笑っている二人が写っていた。


「これ、好き」


 美雪が言う。


「俺も」


「じゃあ送るね」


「うん」


 その写真を見つめながら、蓮は思った。


 こんなふうに笑っている自分を、いつ以来見ただろう。


     *


 午後三時。


 二人は砂浜に並んで座っていた。


 波の音。


 風の音。


 遠くで鳴く鳥の声。


 しばらくの間、二人は何も話さなかった。


 けれど、不思議と気まずくはなかった。


 ただ隣にいる。


 それだけで、十分だった。


 やがて、美雪が口を開いた。


「ねえ」


「ん?」


「海って不思議だね」


「何が?」


「ずっと同じ場所にあるのに」


「うん」


「波は一つも同じじゃない」


 蓮は海を見る。


 寄せては返す波を、黙って見つめる。


「……そうだな」


「人も同じなのかな」


「どういう意味?」


「同じ一日でも」


 美雪は少し考えてから、ゆっくり言葉を続けた。


「毎日、少しずつ違う」


「……」


「今日と同じ一日は、もう二度と来ないんだよね」


 蓮は何も言わなかった。


 その言葉が、なぜか胸の奥に残った。


「だから」


 美雪が続ける。


「今日を大事にしたい」


 蓮は、彼女の横顔を見る。


 夕方の光に照らされた美雪の顔は、いつもより少しだけ寂しそうに見えた。


「……俺も」


「本当?」


「うん」


 蓮は海へ視線を戻した。


「今日のこと、忘れたくない」


 美雪は少しだけ笑った。


「じゃあ」


 そう言って、美雪はノートを取り出した。


「今日、何を書く?」


 蓮もノートを見る。


 十一番。


 まだ空白だった。


 蓮はペンを持つ。


 そして、ゆっくりと文字を書いた。


⑪ 二人で海を見る


 その下に、小さく書き足す。


 ――達成。


「……できたね」


 美雪が笑う。


「うん」


「じゃあ、十二番」


「何にする?」


「考えて」


「俺?」


「うん」


 蓮は少し考えた。


 そして、海の向こうへ視線を向ける。


「日の出」


「いいね」


「今度は朝」


「何時?」


「分からない」


「じゃあ調べよう」


「うん」


 二人はスマートフォンを取り出し、日の出の時間を調べた。


 朝五時四十分。


「早い」


「起きられる?」


「美雪が起こして」


「分かった」


「じゃあ決まり」


 蓮はノートに書く。


⑫ 二人で日の出を見る。


 美雪が、その文字をじっと見つめる。


「絶対、叶えよう」


「うん」


 蓮は笑った。


「絶対」


     *


 夕方。


 帰りの電車。


 二人は並んで座っていた。


 美雪は窓の外を見ている。


 蓮も同じように窓の外を見る。


 海が遠ざかっていく。


 少しずつ。


 小さくなっていく。


 やがて、海は見えなくなった。


 蓮はスマートフォンを取り出し、今日撮った写真を眺める。


 たくさんの写真。


 笑っている美雪。


 笑っている自分。


 海。


 空。


 砂浜。


 波。


 どれも、今日という一日の大切な記録だった。


「……ありがとう」


 蓮が呟く。


「何が?」


「今日」


「どういたしまして」


「楽しかった」


「私も」


 美雪は窓の外を見ながら、柔らかく笑った。


「また来ようね」


「……うん」


「約束」


「約束」


 蓮は小指を差し出した。


 美雪も小指を絡める。


「また指切り?」


「うん」


「好きだね」


「大事だから」


 その言葉に、蓮は少しだけ照れた。


 電車が静かに揺れる。


 夕日が窓から差し込み、二人の手をオレンジ色に染めていた。


 絡めた小指だけが、妙に温かかった。


     *


 夜。


 施設に戻った蓮は、ベッドに座りながら今日の写真を一枚ずつ眺めていた。


 最後の写真。


 美雪と並んでいる写真。


 そこには、二人の笑顔が写っていた。


 蓮は、その写真をしばらく見つめる。


 そして、小さく呟いた。


「……もっと、生きたいな」


 初めてだった。


 そんな言葉が、心の底から自然に出てきたのは。


 病気が怖い。


 未来も怖い。


 いつまで生きられるのかも分からない。


 それでも――。


 もっと、美雪と笑いたい。


 もっと、くだらない話をしたい。


 もっと、一緒に歩きたい。


 もっと、海を見たい。


 もっと、朝日を見たい。


 もっと、普通の高校生でいたい。


 当たり前だと思っていた日常が。


 今の蓮にとっては、何よりも大切なものになっていた。


 蓮はノートを開く。


 十一番。


 達成。


 十二番。


 日の出を見る。


 そして、その下に新しい項目を書いた。


⑬ 美雪を笑わせる。


 蓮は、その文字を見て少し笑った。


「……これは簡単そうだな」


 けれど。


 蓮はまだ知らなかった。


 この先――。


 美雪を笑わせることが。


 自分にとって、何よりも大切な願いになることを。


 そしていつか。


 美雪が笑顔のまま、涙を流す日が来ることを。


 その夜。


 窓の外では、海の音など聞こえるはずもない街で。


 蓮は今日見た海を思い出していた。


 波の音。


 潮の匂い。


 美雪の笑顔。


 そして、絡めた小指の温もり。


 そのすべてを胸に抱きしめるように。


 蓮は静かに目を閉じた。


 そして――。


 穏やかな眠りに落ちていった。


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