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『君がいない春に、僕は生きる』  作者: 綾小路如月


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第十四章 君の笑顔

 十月十二日。


 海へ行ってから、二日が経った。


 学校の昼休み。


 蓮は屋上へ続く階段を上っていた。


 手には、小さな紙袋。


「……これでいいかな」


 階段の途中で立ち止まり、中身を確認する。


 コンビニで買った、小さなプリン。


 昨日。


 美雪が何気なく言っていた。


『最近、甘いもの食べてないな』


 たった一言。


 それだけだった。


 けれど、蓮は覚えていた。


 そして――。


 美雪が少しでも喜んでくれたらいいと思った。


 屋上のドアを開ける。


 冷たい風が頬を撫でた。


「遅い」


 美雪がベンチに座っていた。


「ごめん」


「何持ってるの?」


「これ」


 蓮は紙袋を差し出した。


「……プリン?」


「うん」


「なんで?」


「この前、甘いもの食べたいって言ってただろ」


「覚えてたの?」


「それくらい覚えてる」


 美雪は紙袋の中を見つめた。


 そして、少しだけ目を細める。


「……ありがとう」


「どういたしまして」


 美雪はプリンを取り出し、蓋を開けた。


 一口。


「美味しい」


「よかった」


「……」


「何?」


「嬉しい」


「プリンが?」


「違う」


 美雪は小さく笑った。


「私のこと、覚えててくれたのが」


 その言葉に、蓮は少し照れた。


「……そんなことで?」


「そんなことじゃないよ」


 美雪はプリンをもう一口食べる。


 その表情は、とても嬉しそうだった。


 その笑顔を見ていると――。


 蓮の胸の奥まで、少しだけ温かくなった。


 蓮も自然に笑った。


「……よし」


「何が?」


「⑬、達成」


「え?」


 蓮はノートを取り出し、美雪に見せる。


⑬ 美雪を笑わせる。


「……」


 美雪はしばらく、その文字を見つめていた。


「これ、本当に書いてたの?」


「うん」


「昨日の夜?」


「そう」


「……馬鹿」


「なんで?」


「嬉しすぎる」


 美雪は笑った。


 けれど――。


 その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。


「どうした?」


「何でもない」


「またそれ?」


「綾小路くんの真似」


「……」


 二人は顔を見合わせる。


 そして、同時に笑った。


 涙を隠すように笑う美雪を見て。


 蓮は、少しだけ胸が締めつけられるような気がした。


     *


 放課後。


 美雪は生徒会の仕事があるため、蓮は先に図書室へ向かった。


 最近、蓮は図書室にいることが増えていた。


 静かな場所が好きだった。


 本を開く。


 文字を読む。


 ページをめくる。


 そんな何気ない時間が、蓮は好きだった。


 何も起こらない。


 誰にも急かされない。


 ただ、本を読んでいるだけ。


 そんな普通の時間が、今は少しだけ特別に感じられた。


 蓮は一冊の小説を手に取った。


 表紙には、満開の桜が描かれている。


「……春か」


 まだ秋。


 春なんて、ずっと先のことのように思える。


 蓮は本を開いた。


 そのとき――。


 ポケットの中でスマートフォンが震えた。


『終わった』


 美雪からだった。


 蓮は小さく笑う。


『今行く』


 そう返信して、本を閉じた。


 図書室を出る。


     *


 校門前。


 美雪が待っていた。


「お待たせ」


「そんなに待ってない」


「嘘」


「本当」


「じゃあ帰ろう」


「うん」


 二人は並んで歩き始めた。


 しばらく歩いたところで、美雪が口を開いた。


「ねえ」


「何?」


「次の休日」


「うん」


「日の出」


「……ああ」


 蓮は少し笑った。


「覚えてたんだ」


「当然」


「朝五時四十分」


「うん」


「早いぞ」


「綾小路くんも起きる」


「起きるよ」


「じゃあ、約束」


「約束」


 二人は小指を絡めた。


 その瞬間――。


 蓮の胸に、小さな痛みが走った。


「……っ」


 思わず息を詰める。


「どうした?」


「何でもない」


 美雪が立ち止まった。


「……今、胸押さえた」


「ちょっとだけ」


「大丈夫?」


「うん」


「本当に?」


「うん」


 美雪は蓮の顔をじっと見つめる。


 数秒。


 何か言いたそうな顔をしていた。


 けれど――。


「……分かった」


 それ以上は聞かなかった。


 ただ。


 繋いだ手を離さなかった。


 歩きながら、蓮の手をしっかり握っている。


「……何?」


「別に」


「手、暑い」


「嫌?」


「……嫌じゃない」


「じゃあ、いい」


 蓮は前を向いた。


 顔が少し赤くなる。


 美雪も、少しだけ頬を赤くしていた。


 それでも二人とも、手を離そうとはしなかった。


     *


 帰り道。


 公園の前を通りかかる。


 すると、美雪が足を止めた。


「少し寄ろう」


「またブランコ?」


「今日はベンチ」


「珍しい」


 二人はベンチに座った。


 夕暮れの空。


 子供たちの声。


 自転車が走る音。


 遠くで犬が鳴いている。


 どこにでもある、普通の夕方。


 美雪が小さく呟いた。


「普通だね」


「何が?」


「こういう時間」


「うん」


「何も起こらない」


「それがいいんじゃない?」


「うん」


 美雪は空を見上げた。


 少し寂しそうな横顔だった。


「私ね」


「うん」


「高校を卒業したら」


「うん」


「東京の大学に行こうと思ってる」


「東京?」


「うん」


「遠いな」


「そう?」


「かなり」


「新幹線で来られるよ」


「そうだけど……」


 蓮は少し黙った。


 胸の奥に、言葉にできない寂しさが広がっていく。


「……寂しくなるね」


 美雪が言った。


「うん」


「でも」


「うん」


「会いに来るよ」


「……」


 蓮は彼女を見る。


 美雪は、まっすぐ蓮を見つめていた。


「約束」


「……うん」


「何?」


「いや」


 蓮は小さく笑った。


「嬉しいなって」


 美雪も笑った。


「私も」


 その笑顔を見ながら。


 蓮は心の中で思った。


 この時間が、ずっと続けばいいのに。


     *


 その夜。


 施設の部屋に戻った蓮は、スマートフォンに残っている病院からの着信履歴を見つめていた。


 数日前。


 医師から言われた言葉がある。


『一人でいる時間を、できるだけ減らしてください』


 その言葉が、頭から離れない。


 でも――。


 頼れる家族はいない。


 施設の人たちは優しい。


 それは分かっている。


 けれど、夜中に突然苦しくなったとき。


 誰かがずっとそばにいてくれるわけではない。


 蓮は机の上に薬を置いた。


 その小さな薬を見つめる。


 これが、自分の日常だった。


 薬。


 病院。


 痛み。


 そして、いつ来るか分からない不安。


 蓮はゆっくり息を吐いた。


 そして、ノートを開く。


⑫ 二人で日の出を見る。


⑬ 美雪を笑わせる。


 その下には、まだ何も書かれていない。


 蓮はしばらくペンを持ったまま動かなかった。


 そして――。


 ゆっくりと、新しいページに文字を書いた。


⑭ 美雪の卒業式を見る。


 ペンが止まる。


「……」


 美雪は三年生。


 自分は二年生。


 だから、普通なら――。


 来年。


 美雪の卒業式がある。


 蓮は、そこに行きたいと思った。


 壇上で、卒業証書を受け取る美雪。


 友達と笑う美雪。


 きっと、泣く美雪。


 そして最後に――。


「ありがとう」


 そう言って笑っている美雪を見たい。


 蓮はノートを閉じた。


「……絶対見る」


 小さく呟く。


 その声には、自分自身に言い聞かせるような強い意志が込められていた。


     *


 翌日。


 学校。


 昼休み。


 美雪が蓮のノートを見つけた。


「何これ?」


「何が?」


「昨日、書いたでしょ」


 蓮は少し慌てた。


「……見たの?」


「見えた」


「勝手に見るなよ」


「ごめん」


 美雪は素直にノートを返した。


 そして、少しだけ迷ってから口を開いた。


「卒業式」


「うん」


「来てくれる?」


「もちろん」


「絶対?」


「絶対」


 美雪は嬉しそうに笑った。


「じゃあ」


 小指を差し出す。


「約束」


 蓮も小指を絡める。


「約束」


 二人の指が重なる。


 その瞬間――。


 美雪は知らなかった。


 蓮がその約束を書くために。


 どれほど強く――。


 「来年まで生きたい」と願っていたのか。


 蓮も知らなかった。


 その「卒業式」という言葉が。


 やがて二人にとって――。


 忘れることのできない、大きな意味を持つことになることを。


     *


 その日の夜。


 蓮は一人で空を見上げていた。


 星がいくつか見える。


「日の出」


「卒業式」


「海」


「旅行」


 まだ――。


 やりたいことはたくさんある。


 今までなら、こんなことを考えなかった。


 明日が来ることを、当たり前だと思っていた。


 ただ一日を終えて。


 また次の日を迎える。


 それだけだった。


 でも、今は違う。


 蓮はノートを開いた。


 そして、ページの端に小さく書いた。


「まだ終われない。」


 ペンを置く。


 その言葉を、しばらく見つめる。


 今まで。


 生きることは――。


 ただ毎日を過ごすことだった。


 でも。


 今は違う。


 明日が楽しみになった。


 明後日も。


 来週も。


 そして――。


 来年も。


 そう思えるようになった。


 それは、たった一人の少女のおかげだった。


 美雪。


 彼女が――。


 止まりかけていた蓮の時間を。


 もう一度、動かしてくれた。


 だから。


 蓮は願った。


「……来年も、一緒に笑えますように」


 その願いを夜空へ預けるように。


 蓮は静かに目を閉じた。


 そして。


 胸の奥に、小さな希望を抱いたまま。


 眠りについた。

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