第十五章 夜明け前の約束
十月十七日。
午前四時二十八分。
蓮のスマートフォンが鳴った。
眠たい目をゆっくりと開ける。
画面には、短いメッセージが表示されていた。
『起きてる?』
美雪からだった。
蓮はすぐに返信する。
『起きてる』
数秒後。
『本当に?』
『本当』
『寝ぼけてない?』
『大丈夫』
送信したあと、蓮は思わず笑った。
今日は――十二番目の約束の日だ。
――二人で日の出を見る。
外は、まだ真っ暗だった。
蓮は制服ではなく、厚手の上着を羽織った。
薬を確認する。
財布。
スマートフォン。
ノート。
必要なものを一つずつ確かめる。
全部持った。
玄関を出る。
冷たい空気が頬を撫でた。
「寒……」
秋の早朝。
街はまだ眠っている。
聞こえるのは、自分の足音と、遠くを走る車の音だけだった。
*
午前五時。
駅前。
美雪が立っていた。
「おはよう」
「おはよう」
「寒いね」
「だから言っただろ」
「でも、見たいから」
「……うん」
二人は電車に乗った。
始発に近い時間ということもあり、車内にはほとんど人がいない。
窓の外は、まだ闇に包まれていた。
美雪は眠そうに目をこする。
「眠い?」
「少し……」
「寝ていいよ」
「寝たら起こして」
「分かった」
美雪は窓にもたれた。
そして、数分もしないうちに眠ってしまった。
蓮は、そっと彼女の横顔を見つめる。
「……」
静かな寝顔。
いつも学校で見る美雪とは、少し違って見えた。
いつもより幼くて、無防備で。
蓮は小さく笑う。
そして、窓の外へ視線を戻した。
まだ暗い。
けれど――
遠くの空が、ほんの少しだけ青くなり始めていた。
*
午前五時三十二分。
二人は海岸に到着した。
海は、まだ真っ暗だった。
聞こえてくるのは、波の音だけ。
ざあ……。
ざあ……。
美雪は空を見上げた。
「まだだね」
「うん」
「あと少し」
二人は砂浜に腰を下ろした。
美雪が小さなカイロを取り出す。
「はい」
「ありがとう」
蓮が受け取る。
「手、冷たい」
「美雪のほうが冷たいだろ」
「じゃあ、半分こ」
「半分?」
「一緒に持とう」
二人で一つのカイロを持つ。
指先が触れた。
蓮は少しだけ照れて、視線を逸らした。
「……何?」
「何でもない」
「また?」
「うん」
美雪は楽しそうに笑った。
その笑顔を見ていると、寒さなんてどうでもよくなるような気がした。
*
午前五時四十分。
空が少しずつ明るくなっていく。
「……来るよ」
美雪が小さく呟いた。
蓮は海の向こうを見る。
水平線。
その向こう側から――
少しずつ、光が生まれていく。
オレンジ。
赤。
そして、淡い黄色。
夜が、ゆっくりと消えていく。
「……綺麗」
美雪が呟いた。
「うん」
やがて、太陽が水平線から顔を出す。
世界が、ゆっくりと明るくなっていった。
海面が光を反射する。
波が金色に輝く。
遠くで鳥が飛んでいく。
蓮は、言葉を失っていた。
こんな景色を、今まで見たことがなかった。
「……すごい」
「うん」
「来てよかった」
「うん」
美雪が笑った。
その横顔を見つめながら、蓮は思った。
――この瞬間を、ずっと覚えていたい。
今日の朝の色も。
波の音も。
隣にいる美雪の笑顔も。
全部。
忘れたくなかった。
*
「写真、撮ろう」
美雪がスマートフォンを取り出す。
「また?」
「もちろん」
二人で並ぶ。
「もっと近く」
「え?」
「写真だから」
「……」
二人の肩が触れる。
蓮の心臓が、少しだけ速くなった。
「笑って」
「無理」
「またそれ?」
「恥ずかしい」
「じゃあ、私が笑わせる」
「どうやって?」
美雪が突然、変な顔をする。
「……」
蓮は一瞬固まったあと、吹き出した。
「何それ」
「笑った!」
「それは反則だろ」
「いいの」
カシャ。
シャッター音が鳴る。
朝日。
海。
そして、二人の笑顔。
美雪は撮った写真を確認しながら、嬉しそうに笑った。
「これ、好き」
「俺も」
「じゃあ、保存」
「うん」
その一枚が、二人の時間を閉じ込めてくれるような気がした。
*
しばらくして。
二人は砂浜を歩いた。
波が足元まで近づいてきて、また静かに引いていく。
美雪が尋ねる。
「次は何する?」
「次?」
「リスト」
「まだ十二番だよ」
「じゃあ、増やそう」
「じゃあ……」
蓮は少し考えた。
「桜」
「桜?」
「春に桜を見る」
美雪は少しだけ黙った。
そして、柔らかく笑った。
「……いいね」
「来年」
「うん」
「学校の桜」
「うん」
「一緒に見る」
「約束」
「約束」
蓮はノートを開いた。
そして、新しい項目を書き加える。
⑮ 春に二人で桜を見る。
美雪が、その文字をじっと見つめた。
「絶対」
「うん」
「絶対だよ」
「分かってる」
蓮は笑った。
けれど――
その言葉を口にした瞬間、胸の奥に小さな不安が生まれた。
春。
自分は、本当にそこにいるのだろうか。
その考えを、蓮はすぐに心の奥へ押し込んだ。
*
帰りの電車。
美雪は疲れたのか、蓮の隣で眠っていた。
蓮は窓の外を見る。
朝の街。
少しずつ人が増えている。
店が開き始め、車が走り、街が目を覚ましていく。
世界が、いつもの一日を始めようとしていた。
その瞬間――
胸に鋭い痛みが走った。
「……っ」
蓮は顔を伏せる。
息を整える。
一。
二。
三。
ゆっくりと呼吸を繰り返す。
しばらくすると、痛みは少しずつ引いていった。
隣を見る。
美雪はまだ眠っている。
起こしたくなかった。
だから、何も言わなかった。
蓮は薬を取り出し、水で飲み込む。
そして、再び窓の外を見る。
「……大丈夫」
小さく呟いた。
けれど、その声には――
自分でも分かるほど、不安が滲んでいた。
*
駅に着く。
電車が止まる音で、美雪が目を覚ました。
「……寝ちゃった」
「うん」
「何もしてない」
「寝るのも予定のうちだろ」
「そんな予定、リストにないよ」
「今、追加した」
「勝手に追加しないでよ」
二人で笑う。
駅を出る。
しばらく歩いたところで、美雪が突然立ち止まった。
「ねえ」
「ん?」
「今日のこと」
「うん」
「忘れないでね」
蓮は少し驚いた。
「忘れるわけないだろ」
「……そっか」
美雪は安心したように笑った。
「よかった」
その笑顔を見て、蓮の胸が少しだけ痛んだ。
なぜ、そんなことを言ったのか。
聞きたかった。
けれど――
蓮は何も聞かなかった。
*
その夜。
蓮はノートを開いた。
⑫ 二人で日の出を見る。
その下に、ゆっくりと文字を書いた。
――達成。
そして。
⑮ 春に二人で桜を見る。
蓮は、その文字を長い間見つめていた。
「春……」
春まで。
あと何ヶ月あるだろう。
その時間を――
自分は、本当に持っているのだろうか。
胸の奥に、嫌な感覚が広がる。
蓮は小さく首を振った。
「……考えるな」
今は、考えたくなかった。
ペンを握り直す。
そして、次のページを開いた。
⑯ 美雪と一緒に雪を見る。
さらに。
⑰ 美雪と旅行する。
そして――
最後に。
⑱ 美雪の卒業式に行く。
蓮は、ペンを置いた。
「……まだまだある」
やりたいこと。
見たい景色。
聞きたい声。
笑いたい時間。
まだ、こんなにも残っている。
だから――
まだ終われない。
*
翌週。
病院。
医師は検査結果を静かに見つめていた。
「……」
蓮は椅子に座っている。
しばらくして、蓮が口を開いた。
「先生」
「うん」
「俺……」
少し迷ってから、蓮は尋ねた。
「春まで……大丈夫ですよね?」
医師の手が止まった。
「どうして、そう思う?」
「桜を見たいんです」
「……」
「友達と」
医師は蓮を見つめる。
その目には、簡単には答えられない何かがあった。
「綾小路くん」
「はい」
「今は、一日一日を大切にしよう」
蓮は苦笑した。
「……それ、答えになってないです」
「……すまない」
それ以上、医師は何も言わなかった。
蓮は立ち上がる。
「ありがとうございました」
診察室を出る。
廊下を歩く。
窓の外には、青い空が広がっていた。
その向こうに――
まだ遠い春がある。
蓮は、その春を思い浮かべた。
桜が咲いて。
美雪が笑って。
二人で、その下を歩いている。
そんな未来を――
信じたかった。
「……桜」
蓮は小さく呟いた。
そして、スマートフォンを取り出す。
美雪からメッセージが届いていた。
『今日は何してる?』
蓮は少しだけ迷ってから、返信する。
『桜の場所探してる』
すぐに返事が来た。
『気が早い』
『早くない』
『じゃあ、一緒に探そう』
『うん』
蓮は笑った。
病院の廊下で。
一人で。
それでも、笑っていた。
春は、まだ遠い。
けれど――
蓮には、待ちたい未来があった。
会いたい季節があった。
叶えたい約束があった。
そして、その未来の隣には――
いつも、美雪がいた。




