↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『君がいない春に、僕は生きる』  作者: 綾小路如月


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

17/42

第十六章 もしも、明日がなかったら

 十月二十四日。


 土曜日。


 朝から雨が降っていた。


 窓を叩く雨音で、蓮は目を覚ました。


「……雨か」


 ぼんやりとした目で、しばらく天井を見つめる。


 今日は学校が休み。


 美雪との予定もない。


 静かな朝だった。


 以前なら、こんな日は何もすることがなくて、ただ時間が過ぎていくのを待っていた。


 けれど――


 今は違う。


 蓮はスマートフォンを手に取った。


 美雪とのメッセージを開く。


 最後のメッセージは、昨日の夜。


『おやすみ』


『おやすみ』


 それだけだった。


 蓮は少し迷った。


 送る理由なんて、特にない。


 それでも――


 美雪と話したかった。


『起きてる?』


 送信。


 数分経っても、返信はない。


「……まだ寝てるか」


 スマートフォンをベッドの上に置く。


 その直後。


 通知音が鳴った。


『起きてる』


 蓮は思わず笑った。


『何してる?』


『雨見てる』


『俺も』


『じゃあ一緒だね』


 たったそれだけの会話だった。


 それなのに。


 蓮の胸には、小さな温かさが広がった。


 同じ雨を見ている。


 ただ、それだけなのに。


 少しだけ、美雪が近くにいるような気がした。


     *


 午後一時。


 美雪から電話がかかってきた。


「もしもし」


『綾小路くん?』


「うん」


『暇?』


「暇」


『じゃあ、来て』


「どこに?」


『駅前』


「今から?」


『うん』


「雨だぞ」


『知ってる』


「……」


『来ない?』


「……行く」


『じゃあ、待ってる』


 電話が切れた。


 蓮はスマートフォンを見つめたまま、苦笑する。


「……本当に急だな」


 そう言いながらも、どこか嬉しかった。


 上着を着る。


 傘を持つ。


 そして、家を出た。


     *


 駅前。


 美雪は傘を差して待っていた。


「遅い」


「電話から十五分しか経ってない」


「それでも遅い」


「理不尽だろ」


 美雪は楽しそうに笑った。


「行こう」


「どこ?」


「秘密」


「また?」


「今日は雨だから」


「雨と何の関係があるんだよ」


「あるの」


「……?」


 二人は歩き始めた。


 雨の街。


 傘が時々ぶつかる。


 車が水たまりを走り抜ける音。


 濡れた道路に映る街の明かり。


 いつも見ている街なのに、今日は少しだけ違って見えた。


「ここ」


 美雪が立ち止まった。


 目の前に、小さな喫茶店があった。


「入ろう」


「ここ?」


「うん」


 二人で店の中へ入る。


 暖かな空気。


 コーヒーの香り。


 窓の向こうには、静かに降り続ける雨。


「……いいね」


 蓮が呟く。


「でしょ?」


 二人は窓際の席に座った。


     *


「何飲む?」


「ココア」


「子供」


「うるさい」


「私はコーヒー」


「苦くない?」


「大人だから」


「……」


「何?」


「砂糖三つ」


「見ないで」


 美雪は少し恥ずかしそうに目を逸らした。


 蓮は笑った。


「何よ」


「別に」


 やがて、二人の前に飲み物が運ばれてくる。


 カップから立ち上る湯気。


 窓を叩く雨音。


 店内に流れる小さな音楽。


 二人は並んで窓の外を眺めていた。


「雨って嫌い?」


 美雪が尋ねる。


「昔は嫌いだった」


「今は?」


「……好きかも」


「どうして?」


 蓮は窓の外を見ながら答えた。


「こういう時間ができるから」


「こういう時間?」


「何もしなくても、誰かと一緒にいられる時間」


 美雪は少し驚いたように目を瞬かせた。


「……何それ」


「何?」


「ちょっと嬉しい」


「そう?」


「うん」


 美雪はカップを両手で包み込む。


 その横顔が、ほんの少し嬉しそうだった。


 静かな時間。


 雨音。


 カップの触れ合う音。


 蓮は思った。


 ――こんな時間が、ずっと続けばいい。


 できることなら。


 いつまでも。


     *


 店を出る。


 雨はまだ降っていた。


「次、どこ行く?」


「本屋」


「本屋?」


「うん」


 二人は駅前の本屋へ向かった。


 店内に入ると、美雪は小説のコーナーへ向かい、蓮は漫画の棚へ向かった。


「何読んでるの?」


「これ」


「……漫画?」


「うん」


「子供」


「また言った」


 二人で笑いながら、本を探す。


 しばらくして。


 美雪が一冊の本を手に取った。


「これ」


「何?」


「卒業後の人生についての本」


「早くない?」


「三年生だから」


「そっか」


 美雪は本を開いた。


 ページをめくりながら、小さく呟く。


「大学生活か……」


「楽しみ?」


「うん」


「どんな大学?」


「東京の大学」


「前に言ってたな」


「うん」


「じゃあ――」


 蓮は笑った。


「頑張れよ」


「……」


「何?」


 美雪は本から顔を上げた。


「一緒に来てよ」


「え?」


「東京」


 蓮は言葉を失った。


「……」


「……冗談」


 美雪は笑ってごまかす。


「綾小路くんは二年生だしね」


「うん」


 蓮は本を閉じた。


「来年、俺も受験か」


「そうだね」


「大学……」


「うん」


 その言葉が。


 なぜか、今の蓮には少し遠く感じられた。


 来年。


 その先。


 未来。


 誰にでも当たり前に続いていくはずの時間。


 けれど、蓮にとっては――


 その一日一日が、決して当たり前ではなかった。


     *


 本屋を出る。


 雨は少し弱くなっていた。


 駅へ向かう途中。


 美雪が口を開く。


「ねえ」


「ん?」


「大学に行ったら」


「うん」


「今みたいに会えるかな」


「会えるだろ」


「東京とここ、結構遠いよ」


「じゃあ、俺が行く」


「……」


「だから大丈夫」


 美雪は少しだけ笑った。


「またその言葉」


「今度は本当」


「……そっか」


 二人は再び歩き始める。


 駅が近づいてくる。


 そのときだった。


 蓮の足が止まった。


「……」


「どうした?」


 胸に、鋭い痛みが走った。


 今までよりも強い。


 息が苦しい。


 呼吸をしても、うまく空気が入ってこない。


「綾小路くん?」


「……大丈夫」


「嘘」


 美雪がすぐに蓮の腕を掴んだ。


「座って」


「平気……」


「座って!」


 強い声だった。


 蓮は何も言えず、近くのベンチに腰を下ろした。


 美雪も隣に座る。


「薬は?」


「……持ってる」


「飲んで」


 蓮は薬を取り出し、水で飲み込んだ。


 数分。


 ただ時間が過ぎるのを待つ。


 やがて、胸の痛みが少しずつ和らいでいく。


「……ごめん」


「謝らないで」


「でも……」


「今は何も言わないで」


 美雪は蓮の手を握った。


 突然の温もりに、蓮は驚いた。


「……」


「ここにいるから」


 その一言が、胸の奥に静かに響いた。


「……うん」


 二人はしばらく何も言わなかった。


     *


「ねえ」


 やがて、蓮が口を開いた。


「何?」


「もし……」


「うん」


「俺が……」


 言葉が喉につかえる。


 口にしてはいけない気がした。


 それでも。


 蓮は続けた。


「もし、俺がいなくなったら……」


 美雪の表情が固まった。


「……何言ってるの?」


「例えばの話」


「嫌」


「まだ最後まで――」


「嫌だよ」


 美雪の声が震えた。


「そんな話、しないで」


「……」


「聞きたくない」


「……ごめん」


「だから、謝らないでって言ってる」


 美雪は俯いた。


 そして。


 頬を、一筋の涙が伝った。


「私は……」


 声が震えている。


「綾小路くんがいなくなる未来なんて……考えたくない」


 蓮は何も言えなかった。


 胸が締めつけられる。


「病気だからって……」


 美雪は涙を拭う。


「勝手に未来を諦めないで」


「……」


「私、来年も会いたい」


「……うん」


「再来年も」


「うん」


「その先も」


「……」


 美雪は蓮を見つめた。


「ずっと」


 その言葉が、蓮の胸に深く刺さった。


 今まで。


 蓮は自分の未来を考えるのが怖かった。


 春まで生きているのか。


 来年はどうなっているのか。


 その先に、自分の居場所があるのか。


 だから、考えないようにしていた。


 けれど――


 今、目の前にいる美雪は。


 自分がいる未来を信じようとしてくれている。


 初めてだった。


 自分の未来を。


 誰かと一緒に考えたいと思ったのは。


「……分かった」


「本当に?」


「うん」


「約束?」


「約束」


 美雪が小指を差し出した。


 蓮も小指を絡める。


「ずっと」


「……ずっと」


 その約束は、小さなものだった。


 けれど蓮にとっては――


 今までで一番、大切な約束になった。


     *


 駅のホーム。


 二人は電車を待っていた。


 雨は、いつの間にか止んでいた。


 濡れたホームが、街の明かりをぼんやりと映している。


「今日、楽しかった」


 美雪が言った。


「俺も」


「じゃあ、また行こう」


「うん」


「次は晴れの日」


「賛成」


 遠くから電車の音が聞こえてくる。


 やがて、電車がホームへ入ってきた。


 美雪が乗り込む。


「また明日」


「うん。また明日」


 ドアが閉まる。


 電車がゆっくりと動き始める。


 蓮は手を振る。


 美雪も手を振り返す。


 やがて。


 電車は見えなくなった。


 蓮は、一人になった。


 ポケットからノートを取り出す。


 新しいページ。


 ペンを握る。


⑲ 美雪とずっと一緒にいる。


 蓮は、その文字をじっと見つめた。


 そして。


 その下に、小さく書き加えた。


「叶えたい。」


 今までなら。


 こんな願いを書くことすら、怖かった。


 けれど今は――


 叶えたいと思えた。


     *


 その夜。


 美雪も自分の部屋で、今日のことを思い出していた。


「……ずっと」


 自分で口にした言葉。


 思い出すだけで、胸が熱くなる。


 美雪はスマートフォンを手に取った。


 今日撮った写真。


 雨の日の二人。


 並んで笑っている自分たち。


 美雪は、その写真を見つめながら小さく笑った。


「……好き、なのかな」


 初めて。


 その言葉を口にした。


 自分でも驚いた。


 けれど――


 もう、否定することはできなかった。


 胸の奥にある、この気持ちを。


 もう「友達」という言葉だけでは説明できない。


 一方。


 蓮も暗い部屋で、同じ写真を見ていた。


「……俺も」


 小さく呟く。


 まだ。


 その気持ちを本人に伝える勇気はない。


 怖かった。


 もし伝えてしまったら。


 今の関係が変わってしまうかもしれない。


 それでも。


 確かに感じていた。


 美雪の隣にいたい。


 もっと一緒にいたい。


 来年も。


 再来年も。


 その先も。


 ――ずっと。


 二人の心は、まだ言葉にはできない想いを抱えながら。


 少しずつ。


 同じ場所へ向かっていた。


     *


 その夜。


 雨上がりの空には――


 雲の切れ間から、小さな星が一つだけ見えていた。


 まるで。


 二人の未来を、静かに見守るように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。