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『君がいない春に、僕は生きる』  作者: 綾小路如月


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第十七章 言えなかった言葉

 十月二十六日。


 月曜日。


 朝の教室。


 蓮は自分の席に座りながら、何度も時計を見ていた。


 八時十二分。


 いつもなら、もうすぐ美雪が来る時間だ。


 昨日までなら、何も考えずに彼女を待っていた。


 けれど。


 今日は、少し違った。


「……」


 昨日のことを思い出す。


『好き、なのかな』


 美雪がそう言ったわけではない。


 あれは、蓮自身の想像だった。


 それでも――。


 自分の気持ちには、もう気づいてしまっていた。


 好き。


 美雪のことが。


 ただの友達ではない。


 もっと大切な存在として。


 彼女のことが、好きだった。


 その気持ちを認めた瞬間。


 胸の奥が、きゅっと苦しくなる。


 病気のせいではない。


 もっと別の意味で。


「……面倒だな」


 蓮は小さく呟いた。


「何が?」


「うわっ!」


 突然、後ろから声をかけられた。


 慌てて振り返る。


 そこには、美雪が立っていた。


「おはよう」


「……おはよう」


「どうしたの?」


「何が?」


「顔、赤いよ」


「赤くない」


「赤いよ」


「朝だから」


「朝に関係ある?」


「……ある」


 美雪はくすっと笑った。


「変なの」


 その笑顔を見た瞬間。


 蓮の心臓が、また強く鳴った。


「……」


「何?」


「いや……」


 蓮は慌てて視線を逸らした。


「何でもない」


 美雪も。


 ほんの少しだけ、頬を赤くしていた。


 二人とも。


 昨日までとは、どこか違っていた。


     *


 午前の授業。


 文化祭についての話し合いが行われた。


 今年の文化祭は十一月。


 クラスごとに出し物を決めることになっている。


「うちのクラス、喫茶店は?」


「普通すぎない?」


「じゃあ、お化け屋敷!」


「準備、大変じゃん」


 教室が一気に騒がしくなる。


 そんな中、蓮は窓の外をぼんやり眺めていた。


 そのとき。


「綾小路」


 クラスメイトに声をかけられた。


「何?」


「お前、文化祭の実行委員やらない?」


「俺?」


「暇そうだから」


「理由がひどいな」


 周りから笑い声が上がる。


「でも、お願い」


「……分かった」


 蓮は渋々引き受けた。


 すると。


「じゃあ、美雪もお願いできる?」


 別の生徒が美雪に声をかけた。


「私?」


「三年生の代表で」


 美雪は少し考えたあと、笑顔で頷いた。


「いいよ」


「決まり!」


 こうして。


 二人は文化祭の準備を一緒にすることになった。


     *


 放課後。


 教室に残っているのは、数人だけだった。


 黒板には、


『文化祭企画案』


と書かれている。


「何にする?」


 美雪が尋ねる。


「喫茶店」


「また?」


「一番簡単だから」


「じゃあ、却下」


「なんで?」


「つまらないから」


「じゃあ、何がいい?」


 美雪は腕を組み、しばらく考え込んだ。


「……写真展」


「写真?」


「うん。学校生活の写真を展示するの」


「いいかも」


「でしょ?」


 二人で少しずつ案をまとめていく。


 学校。


 部活動。


 放課後。


 文化祭までの日々。


 そんな何気ない学校生活の一瞬を写真に残して、展示する。


「タイトルは?」


 美雪が尋ねた。


「……『青春』」


「ベタだね」


「じゃあ、美雪が決めて」


「うーん……」


 美雪は黒板を見つめたあと、静かに口を開いた。


「……『僕たちの今日』」


 蓮は少し驚いた。


「……いいね」


「でしょ?」


 美雪が嬉しそうに笑う。


「じゃあ、決定」


 二人は笑いながら、企画案を紙に書き込んだ。


     *


 午後六時。


 他の生徒たちが次々と帰っていく。


 気づけば。


 教室に残っているのは、蓮と美雪の二人だけになっていた。


 窓の外では、夕日がゆっくりと沈み始めている。


「綺麗……」


 美雪が小さく呟いた。


「うん」


「写真、撮りたいな」


「撮れば?」


「今はカメラがないの」


「スマホあるじゃん」


「それだと、ちょっと違うの」


「こだわるな」


「文化祭だから」


 美雪はそう言って、窓の外を眺めながら笑った。


 蓮は。


 そんな美雪を、黙って見つめていた。


 夕日が、彼女の長い髪を赤く染めている。


 綺麗だった。


 ただ、それだけを思った。


 けれど。


 その瞬間。


 胸の奥に、言葉にできない不安がよぎった。


 この景色を。


 自分は、いつまで見ていられるのだろう。


「……」


 蓮は、無意識に拳を握った。


「綾小路くん?」


「ん?」


「どうしたの?」


「いや……」


「また?」


「……」


 美雪が心配そうに近づいてくる。


「大丈夫?」


「うん」


「本当に?」


「……うん」


 美雪は少しだけ困ったように眉を下げた。


「最近、そればっかり」


「ごめん」


「だから、謝らないで」


「……うん」


 二人は顔を見合わせて。


 ほんの少しだけ笑った。


     *


 帰り道。


 二人は駅まで並んで歩いていた。


「文化祭、楽しみだね」


 美雪が言った。


「うん」


「写真、いっぱい撮ろう」


「文化祭の写真?」


「もちろん」


「……うん」


 蓮も小さく笑った。


 そして。


 ふと思う。


 文化祭。


 冬。


 卒業。


 春。


 その先の未来。


 一つずつ。


 美雪との時間が増えていく。


 だから。


 もっと先まで。


 彼女と一緒に歩いていきたかった。


     *


 駅前で。


 二人は足を止めた。


「じゃあ、また明日」


「うん」


 美雪が帰ろうとする。


「美雪」


「ん?」


 蓮は、彼女を呼び止めた。


「……」


 言いたい。


 今なら、伝えられるかもしれない。


 好きだと。


 ずっと一緒にいたいと。


 けれど。


 喉の奥で言葉が止まった。


「どうしたの?」


「……文化祭」


「うん」


「一緒に回らない?」


 美雪が目を丸くする。


「……二人で?」


「うん」


 一瞬の沈黙。


 そして。


 美雪は嬉しそうに笑った。


「いいよ」


「……本当?」


「うん」


「……そっか」


「楽しみにしてる」


「……俺も」


 美雪は笑った。


「じゃあ、今度こそ。また明日」


「また明日」


 美雪が歩いていく。


 その背中を。


 蓮はしばらく見つめていた。


 言えなかった。


 本当に伝えたかった言葉は。


 結局、胸の奥に残ったままだった。


 でも。


 まだ時間はある。


 きっと、まだ大丈夫だ。


 そう思った。


     *


 その夜。


 蓮は机に向かい、いつものノートを開いた。


 そこには、今まで書いてきた「やりたいこと」のリストが並んでいる。


 ⑪ 二人で海を見る。

 ⑫ 二人で日の出を見る。

 ⑬ 美雪を笑わせる。

 ⑭ 美雪の卒業式を見る。

 ⑮ 春に二人で桜を見る。

 ⑯ 美雪と一緒に雪を見る。

 ⑰ 美雪と旅行する。

 ⑱ 美雪の卒業式に行く。

 ⑲ 美雪とずっと一緒にいる。


 蓮は、その下に新しい項目を書き加えた。


 ⑳ 美雪に「好き」と伝える。


「……」


 ペンが止まる。


 書いたあとになって。


 急に恥ずかしくなった。


 けれど。


 その文字を消すことはしなかった。


 蓮はしばらく、その一文を見つめていた。


 そして。


 小さく笑った。


「いつか……」


 いつか。


 ちゃんと伝えたい。


 この気持ちを。


 この「好き」を。


 その「いつか」が。


 当たり前のように来ると思っていた。


     *


 翌朝。


 美雪のスマートフォンには。


 昨日撮った写真が表示されていた。


 夕日に染まった教室。


 その中で笑っている蓮。


 美雪は、その写真をじっと見つめていた。


 胸の奥が、少しだけ温かくなる。


 そして。


 誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。


「……好き」


 今度は。


 迷いのない、はっきりとした言葉だった。


 美雪は写真を見つめたまま、少しだけ笑う。


「私も……伝えたいな」


 同じ頃。


 蓮も。


 同じことを考えていた。


 二人は、まだ知らない。


 言葉にできない二人の「好き」が。


 これから少しずつ。


 互いの人生を変えていくことを。


 そして。


 今感じている、この幸せな時間が。


 決して永遠ではないことを。

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