第十八章 隠した痛み
十一月二日。
文化祭まで、あと十日。
学校は、いつも以上に騒がしかった。
廊下には色とりどりのポスター。
教室には積み上げられた段ボール。
校庭には、いくつものテント。
あちこちから、生徒たちの笑い声が聞こえてくる。
蓮は写真部から借りたカメラを手に、校内を歩いていた。
「綾小路くん」
後ろから声をかけられる。
振り返ると、美雪が立っていた。
「美雪」
「写真、撮れた?」
「結構撮ったよ」
「見せて」
「今?」
「うん」
二人は廊下の端へ移動した。
蓮がカメラの画面を操作する。
そこには、生徒たちの姿が映っていた。
準備中の教室。
窓から差し込む柔らかな光。
ふざけながら段ボールを運ぶクラスメイト。
どれも、特別な瞬間ではない。
どこにでもあるような、普通の学校生活の一場面だった。
「これ、いい」
美雪が一枚の写真を指差した。
「どれ?」
「これ」
そこには、作業中のクラスメイトが、笑いながら段ボールを運んでいる姿が写っていた。
「普通の写真じゃん」
「だからいいの」
「……そう?」
「うん」
美雪は写真を見つめながら、静かに言った。
「何年後かに見たら……きっと、懐かしくなるよ」
蓮は少し黙った。
「……そうだな」
「どうしたの?」
「いや……」
「また?」
「何でもない」
美雪は小さくため息をついた。
「その『何でもない』、禁止にしない?」
「じゃあ、何て言えばいい?」
「ちゃんと話す」
「……努力する」
「よろしい」
美雪が笑う。
蓮もつられて笑った。
その笑顔を見て。
蓮の胸の奥に、ほんの少しだけ温かいものが広がった。
*
午後。
二人は体育館で文化祭の準備をしていた。
蓮は脚立に上り、壁に写真を貼っている。
「もう少し右!」
下から美雪が声をかける。
「ここ?」
「もう少し!」
「これ?」
「そこ!」
「分かった」
蓮が手を伸ばした、その瞬間。
「……っ」
胸の奥が、強く締め付けられた。
息が止まりそうになる。
伸ばしていた手が、その場で止まった。
「綾小路くん?」
「……大丈夫」
「また?」
「……少しだけ」
蓮はゆっくり脚立から降りた。
「座って」
「大丈夫だから」
「座って」
美雪の声が、いつもより強かった。
蓮は何も言わず、近くの椅子に腰を下ろした。
美雪も隣にしゃがみ込む。
「薬は?」
「持ってる」
「飲んで」
「……うん」
蓮は薬を取り出し、水で飲み込んだ。
数分。
痛みが、少しずつ引いていく。
美雪は何も言わず、ずっと蓮のそばにいた。
「……ごめん」
「謝らないで」
「でも……」
「心配するから」
「……」
美雪は膝の上で拳を握った。
しばらく俯いていたが。
やがて、小さな声で言った。
「私……」
「うん」
「最近、怖い」
蓮は顔を上げた。
「何が?」
「あなたが……」
「……」
「目の前から、突然いなくなるんじゃないかって」
その言葉を聞いた瞬間。
蓮の胸が、別の意味で痛んだ。
体育館の中では。
周囲の生徒たちが変わらず準備を続けている。
笑い声。
話し声。
段ボールを運ぶ音。
そんな騒がしい空間の中で。
二人の周りだけが、まるで時間が止まったように静かだった。
「……大丈夫」
蓮は、そう言った。
「また、それ」
「でも……」
「その言葉じゃ、安心できないよ」
美雪の瞳が潤んでいた。
それでも、涙は落とさない。
必死にこらえているのが分かった。
「じゃあ……」
蓮は少し考えた。
「約束する」
「何を?」
「文化祭まで、絶対に元気でいる」
「……」
「一緒に回るんだろ?」
「……うん」
「だから」
蓮は、できるだけ明るく笑った。
「それまでは、絶対に大丈夫」
美雪はしばらく蓮の顔を見つめていた。
やがて。
「……分かった」
小さく頷いた。
けれど。
その表情から、不安が消えることはなかった。
*
夕方。
ようやく準備が終わった。
二人は学校を出て、駅へ向かって歩いていた。
しばらく、どちらも何も話さなかった。
「……ごめん」
蓮が口を開いた。
「何が?」
「心配させた」
「うん」
「ごめん」
「だから、謝らないでって」
「……そうだった」
美雪は少しだけ笑った。
けれど。
すぐに真剣な表情に戻った。
「でも」
「うん」
「ちゃんと話してほしい」
「病気のこと?」
「うん」
「……」
「全部」
蓮は黙った。
病気のこと。
両親のこと。
家を追い出されたこと。
一人で暮らしていること。
そして。
医師から言われていること。
本当は。
全部話したかった。
隠し続けることにも、疲れていた。
でも。
話してしまえば。
美雪はきっと悲しむ。
今までのように、笑えなくなるかもしれない。
だから。
「……いつか」
「いつ?」
「もう少しだけ……待って」
「……分かった」
美雪は、それ以上聞かなかった。
無理に聞き出そうともしなかった。
ただ、静かに頷いた。
その優しさが。
蓮には、かえって苦しかった。
*
駅前。
「ねえ」
美雪が足を止めた。
「今日、一緒に帰らない?」
「もう一緒に帰ってるけど」
「そうだけど……」
「?」
「もう少しだけ、一緒にいたい」
蓮は少し驚いた。
そして。
自然と笑みがこぼれた。
「……いいよ」
二人は駅を通り過ぎた。
そのまま、近くの公園へ向かう。
誰もいないベンチに並んで座った。
夕方の空は、淡いオレンジ色に染まっていた。
「ねえ」
「うん」
「綾小路くんは……」
「何?」
「幸せ?」
突然の質問だった。
蓮は、すぐには答えられなかった。
「……分からない」
「そっか」
「でも……」
「うん」
蓮は美雪を見る。
「最近は、幸せだと思う」
美雪が少し驚いたように目を見開く。
「……本当?」
「うん」
「どうして?」
「学校が楽しい」
「うん」
「友達ができた」
「うん」
「海にも行った」
「うん」
「日の出も見た」
「うん」
蓮は少しだけ言葉を止めた。
そして。
「……美雪とも一緒にいられる」
その一言に。
美雪の頬が、ほんのり赤く染まった。
「……そっか」
「うん」
「私も」
「何?」
「最近、楽しい」
美雪は夕焼けの空を見上げながら笑った。
「前は、卒業のことばかり考えてた」
「うん」
「でも、今は……」
美雪が蓮を見る。
「毎日が楽しみ」
「……」
「明日、学校で会えるって思うだけで……なんだか嬉しいの」
蓮は、何も言えなくなった。
胸の奥が、じんと熱くなる。
「だから……」
美雪は少しだけ困ったように笑った。
「勝手にいなくならないでね」
その言葉が。
蓮の胸に深く刺さった。
身体の痛みとは違う。
もっと苦しくて。
もっと逃げられない痛みだった。
「……うん」
蓮は、それだけを答えた。
*
その夜。
施設の部屋。
蓮は一人で机に向かっていた。
今日の出来事を思い出す。
美雪の言葉。
『勝手にいなくならないでね』
その言葉を思い出すたびに。
胸が苦しくなる。
蓮は、机の上に置かれた薬へ視線を向けた。
そして。
ノートを開く。
⑳。
美雪に「好き」と伝える。
その下に。
新しい一文を書き加えた。
㉑ 文化祭の日に伝える。
蓮は、その文字をしばらく見つめた。
文化祭。
二人で写真を見て。
一緒に笑って。
たくさん話して。
そのあと。
ちゃんと伝える。
「美雪……」
名前を口にする。
「好きだ」
練習する。
「……」
途端に顔が熱くなる。
「無理だろ……」
蓮は一人で苦笑した。
でも。
伝えたい。
今まで。
誰かに必要とされたことなんてなかった。
誰かと未来を約束したこともない。
だからこそ。
美雪にだけは。
嘘をつきたくなかった。
自分の気持ちだけは。
最後まで隠したくなかった。
*
その夜。
午前二時十六分。
「……っ」
蓮は突然、目を覚ました。
胸が痛い。
いつもの痛みとは、明らかに違っていた。
息がうまくできない。
胸の奥が締め付けられ、手まで震えている。
「……薬……」
蓮は震える手を伸ばした。
机の上に置いてある薬を取ろうとする。
けれど。
指に力が入らない。
「……っ」
薬が手から滑り落ちた。
カラン。
小さな音が、静かな部屋に響く。
蓮は床に手をついた。
「……美雪」
無意識に。
彼女の名前が口からこぼれた。
スマートフォンを手に取る。
画面には、午前二時十七分。
美雪に電話をかけようとする。
けれど。
指が止まった。
「……駄目だ」
こんな時間に。
起こすわけにはいかない。
蓮は、ゆっくりスマートフォンを置いた。
そして。
震える手で薬を拾う。
水を飲み、薬を口に入れる。
数分。
十数分。
長い時間が過ぎていく。
やがて。
胸の痛みが、少しずつ和らいでいった。
蓮はベッドに戻った。
額には汗が滲んでいる。
呼吸は、まだ少し荒かった。
暗い天井を見つめる。
「……文化祭」
小さく呟く。
「絶対……」
その先の言葉が、出てこない。
唇が震える。
そして。
涙が一滴。
頬を伝った。
「……間に合わないかもしれない」
初めて。
そんな言葉を口にした。
怖かった。
文化祭に行けないことが。
美雪との約束を守れないことが。
そして何より。
伝えたい気持ちを伝えられないまま、終わってしまうことが。
「……違う」
蓮は小さく首を振った。
「大丈夫……」
自分に言い聞かせる。
「絶対、大丈夫」
何度も。
何度も。
自分自身に言い聞かせる。
そして。
もう一度、スマートフォンを手に取った。
画面に映っているのは。
美雪との写真だった。
日の出。
海。
そして。
二人の笑顔。
蓮は、その写真を胸元に抱き寄せた。
「……まだ」
震える声で呟く。
「まだ、やりたいことがある」
だから。
生きなければならない。
文化祭まで。
春まで。
その先まで。
そして――。
いつか。
美雪に。
ちゃんと。
この言葉を伝えるために。
「……好きだ」
誰もいない部屋で。
蓮はもう一度だけ、その言葉を呟いた。




