第十九章 言葉にできない想い
十一月五日。
文化祭まで、あと七日。
朝。
蓮は鏡の前に立っていた。
少し顔色が悪い。
昨夜のことが、まだ頭から離れない。
胸の痛み。
薬を落とした瞬間。
息ができなくなった、あの時間。
そして――
美雪の名前を呼んだこと。
「……大丈夫」
鏡の中の自分に言い聞かせる。
「今日も、普通にする」
制服に着替える。
鞄を持つ。
部屋を出る。
今日も学校へ行く。
それだけ。
それだけでいい。
*
教室。
「おはよう」
「おはよう」
美雪が教室に入ってくる。
「……」
一瞬。
蓮の顔を見つめる。
「どうしたの?」
「何が?」
「顔色、悪いよ」
「ちょっと寝不足」
「ちゃんと寝た?」
「うん」
美雪は、じっと蓮を見る。
「……本当に?」
「本当」
「嘘じゃない?」
「嘘じゃないよ」
美雪は、少しだけ笑った。
「なら、いいけど」
けれど。
その目は、まだ納得していなかった。
*
放課後。
文化祭の準備。
写真展示のために、二人は写真を選んでいた。
「これは?」
美雪が一枚の写真を持ち上げる。
そこには、校庭で楽しそうに笑っている生徒たちが写っていた。
「いいね」
「じゃあ、これにしよう」
次の写真。
教室。
廊下。
桜の木。
夕焼け。
体育祭。
雨の日。
たくさんの思い出が、写真の中に詰まっている。
その中に。
一枚だけ、海の写真があった。
美雪の手が止まる。
「……これ」
「海?」
「うん」
「文化祭に使う?」
「どうしよう……」
美雪は写真をじっと見つめる。
「私、この写真好き」
「じゃあ、入れよう」
「いいの?」
「うん」
二人は、その写真を壁に貼った。
青い海。
どこまでも続く空。
そして――
その中に小さく写る、二人の姿。
美雪が嬉しそうに笑う。
「これを見ると、また海に行きたくなる」
「じゃあ、また行こう」
「……本当?」
「うん」
「冬の海も見てみたい」
「寒いぞ」
「それでもいいの」
「じゃあ、行こう」
美雪は、嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ていると。
蓮の胸の奥にも、ほんの少しだけ温かいものが広がった。
*
午後六時。
学校の廊下には、もうほとんど人がいなかった。
二人だけで、展示場所を確認する。
「ここにこれ」
「うん」
「こっちは?」
「もう少し右」
「こう?」
「そう。それでいい」
蓮が写真を貼る。
その瞬間――
視界が、ふっと暗くなった。
「……」
蓮は、とっさに壁に手をついた。
「綾小路くん?」
「……大丈夫」
美雪がすぐに駆け寄る。
「また?」
「ちょっと立ちくらみ」
「座って」
「大丈夫だから」
「座って」
いつもより強い声だった。
蓮は何も言わず、椅子に腰を下ろした。
美雪は隣にしゃがみ込む。
「昨日も……何かあった?」
「……」
「昨日の夜」
「……何も」
「本当に?」
「うん」
美雪は蓮の目をまっすぐ見つめる。
「……嘘」
「……」
「私、分かるよ」
蓮は、ゆっくり視線を落とした。
「……ちょっとだけ」
「何が?」
「胸が……痛かった」
「どれくらい?」
「少しだけ」
「病院は?」
「行ってない」
「どうして?」
「夜だったから……」
美雪の表情が曇る。
「もし、何かあったらどうするの?」
「……」
「一人だったんでしょ?」
「うん」
「怖くなかった?」
蓮は答えられなかった。
あの夜の苦しさが、まだ身体の奥に残っているような気がした。
しばらくして。
小さな声で答える。
「……怖かった」
その一言を聞いた瞬間。
美雪の目に涙が浮かんだ。
「じゃあ……」
声が震える。
「どうして私に連絡してくれなかったの?」
「起こしたくなかった」
「……それだけ?」
「……」
美雪は唇を噛む。
「私なら……」
一度、言葉を飲み込む。
それでも、今度はちゃんと伝えた。
「私なら、起こしてほしかった」
蓮は顔を上げる。
目の前の美雪は、涙をこらえていた。
「……ごめん」
「だから、謝らないで」
「でも……」
「次からは」
美雪は、そっと蓮の手を握った。
「絶対に連絡して」
「……分かった」
「約束」
「……約束」
握られた手の温かさが。
なぜか、胸に残った。
*
帰り道。
美雪はずっと、蓮の隣を歩いていた。
いつもより。
ほんの少しだけ近い。
「ねえ」
「ん?」
「手」
「何?」
「出して」
蓮が手を差し出す。
美雪が、その手を握る。
「……」
「これなら分かるから」
「何が?」
「苦しくなったら」
「どうやって?」
「手が冷たくなるから」
「……」
「私が気づく」
蓮は、思わず小さく笑った。
「便利だな」
「うん。便利でしょ」
「でも……」
「何?」
「美雪の手のほうが冷たい」
「……うるさい」
二人は顔を見合わせて笑った。
けれど。
握った手は。
駅に着くまで、どちらからも離れなかった。
*
その夜。
蓮は机に向かっていた。
文化祭まで、あと六日。
ノートを開く。
そこには、以前書いた言葉があった。
⑳ 美雪に「好き」と伝える。
「……」
その文字を、じっと見つめる。
ペンを握る。
けれど。
なかなか書き始めることができない。
何度も紙の上でペンを動かしては、止める。
そして。
別の紙を一枚取り出した。
「……手紙なら」
直接言えないのなら。
手紙に書けばいい。
自分の気持ちを。
ちゃんと残したい。
蓮は、一行目を書いた。
『美雪へ。』
そこで、手が止まる。
次の言葉が出てこない。
「……何て書けばいいんだよ」
思わず苦笑する。
でも。
書きたい。
自分の気持ちを。
今まで言えなかったことを。
蓮は、もう一度ペンを動かした。
『君と出会う前の僕は、明日なんてどうでもよかった。』
そこで、しばらく考える。
そして、続きを書いた。
『でも、今は違う。』
その瞬間。
涙が一滴、紙の上に落ちた。
「……」
蓮は慌てて、それを指で拭った。
そして、続きを書く。
『明日も、学校に行きたい。』
『来週も。』
『来月も。』
『春になったら、桜を見たい。』
『君の卒業式にも行きたい。』
ペン先が、少し震える。
それでも。
蓮は最後の一文を書いた。
『だから、もう少しだけ、君の隣にいたい。』
ペンを置く。
けれど。
最後の一言だけは。
どうしても書けなかった。
――好き。
たった二文字。
それだけなのに。
どうしても、書けなかった。
*
翌日。
学校。
美雪が教室に入ってくる。
「おはよう」
「おはよう」
「今日、顔色いいね」
「昨日、よく寝たから」
「よかった」
美雪が笑う。
蓮も笑う。
その笑顔を見つめながら。
蓮は、改めて思った。
やっぱり。
伝えたい。
ちゃんと。
自分の口で。
だから。
文化祭の日。
絶対に伝える。
*
文化祭前日。
夜。
蓮は手紙を封筒に入れた。
表には。
『美雪へ』
それだけを書いた。
机の上に、そっと置く。
そして。
ノートを開く。
新しいページ。
㉑ 文化祭で美雪に手紙を渡す。
蓮は、小さく笑った。
「これでいい」
窓の外を見る。
夜空には、いくつもの星が浮かんでいた。
「……明日だ」
明日。
美雪に伝える。
そして。
また一つ。
自分の願いを叶える。
*
同じ夜。
美雪は、自分の部屋で一枚の小さな紙を見つめていた。
それは。
文化祭の日に、蓮へ渡すつもりのもの。
そこには、短い言葉が書かれていた。
『私も、あなたといる時間が好きです。』
美雪は、それを大切そうに封筒へ入れた。
「……明日」
小さく呟く。
「ちゃんと伝えよう」
窓の外を見る。
明日は。
文化祭。
二人が。
互いの気持ちを伝える日。
少なくとも。
二人は、そう思っていた。
けれど――
その夜。
蓮の机の上には、まだ誰にも見せていないものがあった。
病院から渡された書類。
そこには。
次回の診察日と。
今までより早い、追加検査の日程が記されていた。
蓮は、その書類をじっと見つめる。
「……文化祭が終わったら」
小さく呟く。
それだけを言い残して。
書類を引き出しの奥へしまった。
そして。
明日が来ることを信じるように。
ゆっくりと目を閉じた。
――明日は、きっと大丈夫。
そう思いたかった。
文化祭の日が。
大切な人に想いを伝える日が。
何事もなく、やって来ることを願いながら。
蓮は静かに眠りについた。




