第二十章 文化祭の日
十一月七日。
文化祭当日。
朝六時。
蓮は目を覚ました。
カーテンを開ける。
窓の外には、雲一つない青空が広がっていた。
「……晴れた」
昨日まで降っていた雨が、まるで嘘だったかのようだった。
今日は。
美雪と約束した日。
そして――
自分の気持ちを伝える日。
机の上を見る。
白い封筒。
表には、
『美雪へ』
そう書かれている。
蓮はそれを手に取った。
少しだけ、指先が震えている。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟く。
封筒を制服のポケットに入れる。
そして。
蓮は家を出た。
*
学校は。
いつもの学校とは、まるで別の場所のようだった。
校門には大きな看板。
廊下には色とりどりの飾り。
教室からは音楽が聞こえ、生徒たちの楽しそうな笑い声が響いている。
校庭には屋台が並び、たくさんの人で賑わっていた。
「綾小路くん!」
人混みの向こうから。
美雪が小走りでやってくる。
「おはよう」
「おはよう」
美雪は少し息を整えてから、蓮を見る。
「今日……」
ほんの少し恥ずかしそうに笑う。
「楽しみだね」
「うん」
「一緒に回ろう」
「約束だからな」
「うん」
二人は顔を見合わせて笑った。
その瞬間。
蓮の胸の奥にあった緊張が、少しだけ和らいだ。
*
最初に二人が向かったのは、写真展示だった。
壁一面に、学校生活の写真が飾られている。
体育祭。
授業。
部活動。
放課後。
そして――
海。
「これ」
美雪が一枚の写真を指差す。
海で撮った写真。
そこには、二人が並んで写っていた。
「……懐かしい」
「まだ一ヶ月も経ってないだろ」
「それでも」
美雪は写真を見つめながら、小さく笑った。
「なんだか、ずっと前のことみたい」
「……分かる」
その隣には、蓮が撮った夕焼けの写真が飾られていた。
美雪が足を止める。
「これ、好き」
「本当に?」
「うん」
「じゃあ、あげる」
「いいの?」
「写真のデータは残ってるから」
「……ありがとう」
美雪は嬉しそうにスマートフォンを取り出した。
蓮から写真を受け取る。
そして。
まるで大切なものをしまうように、ゆっくり保存した。
*
昼。
二人は屋台を回っていた。
「たこ焼き」
「食べる?」
「食べる」
「じゃあ、半分こ」
「一個ずつ?」
「そう」
「熱いぞ」
「大丈夫」
美雪が一つ口に入れる。
「熱っ!」
「だから言っただろ」
「……」
「大丈夫?」
「大丈夫」
「その言葉、禁止」
「なんで?」
「信用できないから」
「ひどい」
二人は顔を見合わせて笑った。
焼きそば。
クレープ。
ジュース。
特別なものなんて何もない。
それでも。
何でもないものを二人で食べることが、蓮には嬉しかった。
何度も写真を撮った。
笑って。
ふざけて。
時には人混みの中を走って。
そして、また笑った。
そんな時間が、あっという間に過ぎていく。
蓮は思った。
――幸せだ。
こんなふうに思える一日を。
自分は今まで知らなかった。
だからこそ。
この時間を、ずっと忘れたくないと思った。
*
午後二時。
体育館。
ステージでは、吹奏楽部の演奏が始まった。
二人は後ろの席に並んで座る。
音楽が体育館いっぱいに響く。
美雪は目を閉じて、静かに演奏を聴いていた。
蓮は。
そんな美雪の横顔を、そっと見つめていた。
「……」
言いたい。
今。
ここで伝えたい。
ポケットの中にある封筒に触れる。
そのとき。
胸の奥に、小さな痛みが走った。
「……っ」
蓮は、息を止める。
痛みが、少しずつ強くなっていく。
「綾小路くん?」
美雪が気づいた。
「……大丈夫」
「また?」
「少しだけ」
蓮はゆっくり立ち上がる。
「ちょっと外に行ってくる」
「私も行く」
「いい」
「一緒に行く」
美雪の声には、迷いがなかった。
二人は体育館を出た。
*
廊下。
人の少ない場所まで来ると、蓮は壁に手をついた。
「……っ」
呼吸が乱れる。
「座って」
「……大丈夫」
「大丈夫じゃない」
美雪が蓮の肩を支える。
「保健室に行こう」
「いや……」
「どうして?」
「今日を……」
蓮は苦しそうに息を整える。
「今日を、普通に過ごしたい」
「……」
「せっかくの文化祭だから」
美雪は何も言えなかった。
ただ、蓮の顔を見つめている。
その目には、今にも涙が溢れそうだった。
「でも……」
「お願い」
「……分かった」
二人は廊下のベンチに並んで座った。
数分。
ゆっくりと。
胸の痛みが引いていく。
蓮は小さく息を吐いた。
「……ごめん」
「謝らないで」
「うん」
「約束したでしょ」
「何を?」
美雪は蓮の手を握る。
「勝手にいなくならないって」
蓮は少しだけ笑った。
「覚えてたんだ」
「忘れるわけないよ」
握られた手に、力がこもる。
「今日は、最後まで一緒にいる」
「……うん」
蓮は、その手を握り返した。
*
午後四時。
文化祭終了。
校庭から、少しずつ人が減っていく。
賑やかだった学校が、少しずつ静かになっていく。
二人は校舎裏へ向かった。
そこは人が少なく、夕日が静かに差し込んでいた。
「今日は楽しかった」
美雪が言う。
「うん」
「写真、いっぱい撮ったね」
「百枚くらい?」
「もっと」
「多すぎだろ」
「全部、大事だから」
美雪はスマートフォンを見ながら笑った。
そして。
「ねえ」
「ん?」
美雪がバッグから白い封筒を取り出した。
「これ……」
「……」
「渡したかった」
蓮は封筒を見る。
「開けていい?」
「今は……」
美雪は少し照れたように視線を逸らした。
「家に帰ってから読んで」
「分かった」
蓮もポケットから封筒を取り出す。
「俺も」
「……」
「家に帰ってから読んで」
二人は。
互いの封筒を受け取った。
「じゃあ……」
「うん」
「帰ったら読む」
「約束」
「約束」
二人の指先が、一瞬だけ触れた。
それだけなのに。
二人とも、なぜか少し恥ずかしくなった。
*
帰り道。
駅までの道を歩く。
蓮のポケットには。
美雪からの手紙。
美雪のバッグには。
蓮からの手紙。
二人とも。
まだ知らない。
そこに何が書かれているのか。
駅前に着く。
「また明日」
美雪が言う。
「また明日」
蓮も答える。
美雪が歩き出す。
蓮も反対方向へ向かう。
数歩歩いたところで。
二人は、ほとんど同時に振り返った。
目が合う。
そして。
二人とも笑った。
それだけで。
今日一日の幸せが、もう一度胸に蘇った。
そして。
それぞれの家へ帰っていった。
*
夜。
蓮は机の前に座っていた。
目の前には、美雪からの手紙。
少し緊張しながら、封筒を開ける。
中から一枚の紙を取り出す。
そこには。
短い文章が書かれていた。
『綾小路くんへ』
『あなたと出会ってから、毎日が少しずつ変わりました。』
『前は、卒業したら新しい生活が始まるんだと思っていました。』
『でも、今は――』
『卒業するのが、少し寂しいです。』
『あなたと一緒にいる時間が、もっと欲しいから。』
蓮の目が。
少しずつ潤んでいく。
手紙を持つ指にも、わずかに力が入る。
『海も。』
『日の出も。』
『文化祭も。』
『全部、忘れたくない思い出です。』
そして。
最後の一文。
『私は、あなたといる時間が好きです。』
「……」
蓮は、その一文を何度も読み返した。
何度読んでも。
胸の奥が熱くなる。
そして。
涙が一滴。
紙の上に落ちた。
「……美雪」
その名前を呟くだけで。
胸がいっぱいになった。
*
同じ頃。
美雪も、自分の部屋で蓮からの手紙を開いていた。
『美雪へ。』
『君と出会う前の僕は、明日なんてどうでもよかった。』
『でも、今は違う。』
『明日も、学校に行きたい。』
『来週も。』
『来月も。』
『春になったら、桜を見たい。』
『君の卒業式にも行きたい。』
美雪は、涙を拭った。
そして。
最後の一文を読む。
『だから、もう少しだけ、君の隣にいたい。』
「……」
美雪は手紙を胸に抱きしめる。
温かい。
嬉しい。
なのに。
なぜか涙が止まらない。
「私も……」
小さく呟く。
「ずっと、隣にいたい」
*
蓮は机の上に置いてあったノートを開いた。
文化祭。
無事に終わった。
手紙も渡した。
美雪の気持ちも、少しだけ分かった。
でも。
一番大切な言葉だけは。
まだ伝えていない。
――好き。
蓮はペンを取る。
⑳の項目を見る。
⑳ 美雪に「好き」と伝える。
その下に。
今日の日付を書く。
十一月七日。
そして。
その横に。
――未達成。
と書いた。
「……次こそ」
今度こそ。
自分の口から伝える。
そう決めた。
その瞬間。
スマートフォンが鳴った。
画面に表示された名前を見て。
蓮の表情が変わる。
病院からだった。
「……もしもし」
『綾小路くん。明日の午前中、病院に来てもらえますか』
「明日……?」
『はい。少し確認したいことがあります』
「……分かりました」
電話が切れる。
部屋が静かになる。
蓮は、しばらく動かなかった。
やがて。
ゆっくりとノートを見る。
春。
桜。
卒業式。
また海に行くこと。
そして。
美雪に「好き」と伝えること。
「……まだ」
蓮は、小さく笑った。
「まだ終わってない」
窓の外を見る。
文化祭の夜。
街には、たくさんの明かりが灯っている。
その向こう。
遠い空に、一つの星が見えた。
蓮は、その星をしばらく見つめていた。
そして。
明日の病院へ行くための準備を始める。
けれど。
その診察室で。
蓮が聞くことになる言葉を。
まだ。
誰も知らなかった。




