第二十一章 残された時間
十一月八日。
日曜日。
朝七時。
蓮は目を覚ました。
窓から差し込む朝の光が、部屋の床を淡く照らしている。
昨日の文化祭。
美雪からもらった手紙。
彼女の笑顔。
夕焼けに染まった空。
そのすべてが、まだ鮮明に頭の中に残っていた。
蓮はゆっくりと机の上へ目を向ける。
そこには、美雪からの手紙が置かれていた。
何度読み返しても、不思議と胸が温かくなる。
けれど――今日は病院へ行かなければならない。
「……行くか」
蓮はベッドから起き上がり、制服に着替えた。
鞄を手に取り、部屋を出ようとする。
その前に、机の上の手紙を手に取った。
そして、それを財布の中へ大切にしまう。
まるで、お守りのように。
*
病院。
午前九時。
受付を済ませる。
いつもの廊下。
いつもの椅子。
いつもの消毒液の匂い。
何も変わっていない。
――なのに。
今日は、何かが違っていた。
胸の奥に、言葉では説明できない嫌な予感が広がっている。
「綾小路くん」
医師に呼ばれ、蓮は顔を上げた。
「はい」
「こちらへ」
診察室へ入り、いつもの椅子に座る。
向かいに座った医師は、手元の資料に目を落としていた。
しばらくの間、何も言わなかった。
「……先生」
「うん」
「何か、ありましたか?」
医師はゆっくりと息を吐いた。
「昨日の検査結果が出ました」
「はい」
「以前と比べて……」
そこで一度、言葉を止める。
「状態が悪化しています」
蓮は黙っていた。
驚いたというより、どこかで覚悟していたような気がした。
「具体的には?」
「心臓への負担が増えています」
「……」
「今までの薬だけでは、十分に抑えられない可能性があります」
蓮は、机の上に置かれた資料へ視線を落とした。
「治療を変えるんですか?」
「その可能性があります」
「……入院?」
「……必要になるかもしれません」
蓮の指先が、小さく震えた。
「いつからですか?」
「できるだけ早く」
「……」
診察室に沈黙が落ちる。
蓮は、窓の外へ目を向けた。
青い空。
昨日と同じ空だった。
それなのに――世界が少し違って見えた。
「先生」
「何?」
「俺……」
声がわずかに震える。
「春まで……行けますか?」
医師は答えなかった。
その沈黙だけで、蓮には十分だった。
「……そうですか」
「綾小路くん」
「大丈夫です」
「まだ、何も決まったわけでは――」
「分かってます」
蓮は、無理に笑った。
「でも……」
目の奥が熱くなる。
「桜……見たいんです」
医師は何も言わず、蓮の言葉を聞いていた。
「友達と……約束したから」
しばらくして、医師が静かに口を開く。
「そのためにも」
「……はい」
「これからの治療を大切にしよう」
「……はい」
蓮は小さく頷いた。
けれど、その胸の奥では――
初めて感じる恐怖が、静かに広がっていた。
*
病院を出る。
外は思っていたより寒かった。
蓮は空を見上げる。
「春……」
まだ、何ヶ月も先だ。
それなのに。
昨日まで当たり前のように思っていた「春」という季節が、急に遠いものに感じられた。
蓮はスマートフォンを取り出す。
美雪からメッセージが届いていた。
『昨日の手紙、読んだ?』
蓮は画面を見つめた。
すぐには返信できなかった。
指が、動かなかった。
そして、しばらくしてから文字を打つ。
『読んだ』
『どうだった?』
蓮は小さく笑った。
『嬉しかった』
すぐに返信が届く。
『よかった』
『私も嬉しかった』
蓮は、そのメッセージをじっと見つめた。
すると、またメッセージが届く。
『今、病院?』
その一言を見た瞬間、指が止まった。
『うん』
『大丈夫?』
蓮は少し迷った。
そして――
『大丈夫』
送信。
また、同じ言葉。
いつもの言葉。
けれど、本当は――
大丈夫なんかじゃなかった。
*
午後。
二人は公園で会った。
美雪は、蓮の顔を見るなり言った。
「……嘘」
「何が?」
「大丈夫じゃない」
蓮は黙った。
「病院で、何を言われたの?」
「……」
「話して」
美雪の声は震えていた。
蓮はベンチに腰を下ろす。
「少し……病気が悪くなった」
美雪の表情が固まった。
「……どれくらい?」
「まだ分からない」
「入院するの?」
「分からない」
「治る?」
「……分からない」
美雪は唇を噛んだ。
何かを必死にこらえるように、俯いている。
「……なんで?」
「……」
「なんで私に言ってくれなかったの?」
「昨日は文化祭だったから」
「だから?」
「……楽しい日にしたかった」
「私が知らないほうが?」
「……」
美雪の目から、一粒の涙が落ちた。
「私は……」
声が震える。
「楽しいことだけじゃなくてもいい」
「……」
「辛いなら……」
美雪は涙を拭う。
「一緒に辛くなりたい」
蓮は、何も言えなかった。
「嬉しいことだけ共有するんじゃなくて……」
美雪は震える声で続けた。
「悲しいことも」
「……うん」
「怖いことも」
「……うん」
「全部……」
蓮は、ゆっくりと頷いた。
「……ごめん」
「謝らないで」
「……分かった」
*
美雪は蓮の隣に座った。
二人の肩が、ほんの少し触れる。
「春」
「うん」
「桜」
「うん」
「絶対、見よう」
「……」
「絶対だよ」
蓮はしばらく空を見上げていた。
そして――
「うん」
「約束」
「約束」
二人は小指を絡めた。
その小さな約束が。
今の蓮にとっては、何よりも大切なものだった。
*
帰り道。
美雪がぽつりと言った。
「私……」
「うん?」
「大学、少し考え直そうかな」
「どうして?」
「近いところにする」
「……」
「あなたが入院しても、すぐ会いに行けるように」
「美雪」
「何?」
「それは駄目だ」
「どうして?」
「自分の未来を、俺のために変えないで」
「でも……」
「美雪の未来は」
蓮は、まっすぐ彼女を見る。
「美雪のものだから」
美雪は何も言えなかった。
「大学も」
「……」
「夢も」
「……」
「全部、大事にして」
「でも……」
「俺は大丈夫」
美雪が、少し怒ったような顔をする。
「……またそれ」
「……」
「その言葉、嫌い」
美雪は涙をこらえながら、少しだけ笑った。
蓮も、つられて笑う。
「……分かった」
*
夜。
蓮は部屋に戻った。
机の前に座り、ノートを開く。
そこには、今まで二人で交わした約束が並んでいた。
⑮ 春に二人で桜を見る。
⑱ 美雪の卒業式に行く。
⑳ 美雪に「好き」と伝える。
蓮はしばらく、その文字を見つめていた。
そして、新しいページを開く。
ペンを握る。
少し迷ってから、文字を書いた。
㉒ 美雪の未来を邪魔しない。
少し考えて、その下にもう一つ書き加える。
㉓ 美雪が夢を叶えるところを見る。
そこで、ペンが止まった。
「……見たいな」
美雪が大学へ行くところ。
卒業するところ。
笑っているところ。
大人になって。
自分の人生を歩いていくところ。
その全部を――見たい。
ずっと、見ていたい。
けれど。
胸の奥から、別の声が聞こえる。
――見られないかもしれない。
蓮は、その考えを振り払うようにノートを閉じた。
「……まだだ」
小さく呟く。
「まだ、終わってない」
*
その夜。
美雪は自分の部屋で、蓮からもらった手紙を読んでいた。
『明日、学校に行きたい』
『来週も』
『来月も』
『春になったら、桜を見たい』
美雪は、その文章を指先でゆっくりとなぞった。
「……絶対」
頬を、一筋の涙が伝う。
「絶対、一緒に見る」
そして――
初めて。
自分から、強く願った。
「神様……」
声が震える。
手紙を胸に抱きしめる。
「お願いだから……」
涙が止まらない。
「この人から……時間を奪わないで」
*
同じ頃。
蓮はベッドの中で、眠れずにいた。
目を閉じても、医師の言葉が頭から離れない。
『できるだけ早く』
蓮は天井を見つめる。
「……まだ」
小さく呟いた。
「まだ……死にたくない」
初めてだった。
こんなにも正直に、自分の気持ちを認めたのは。
以前の蓮は、生きることに何の意味も感じていなかった。
家を追い出されても。
誰にも必要とされなくても。
明日なんて、来なくてもいいと思っていた。
生きることに、執着する理由なんてなかった。
――でも。
今は違う。
明日が欲しい。
美雪に会いたい。
学校へ行きたい。
桜を見たい。
美雪の卒業式に行きたい。
いつか、一緒に旅行もしたい。
もっと話したい。
もっと笑いたい。
もっと――
生きたい。
胸の奥から、何度も同じ言葉が込み上げてくる。
「……生きたい」
蓮は枕に顔を埋めた。
涙が止まらなかった。
悔しかった。
怖かった。
今まで、死ぬことなんて怖くないと思っていた。
なのに。
大切なものを知ってしまった今は――
失うことが、何よりも怖かった。
「……生きたい」
もう一度。
今度は、はっきりと。
その言葉を口にした。
暗い部屋の中。
誰にも届かないはずの声が、静かに消えていく。
それでも。
蓮は初めて――
心の底から、生きることを願っていた。




