第二十二章 普通でいたい
十一月十日。
火曜日。
朝。
蓮は学校へ向かっていた。
空は薄い雲に覆われている。
頬を撫でる風は冷たく、冬の気配が少しずつ近づいているのを感じた。
昨日から――いや。
もっと前から。
蓮の頭の中には、ある言葉が何度も浮かんでいた。
――生きたい。
その言葉が、頭から離れない。
以前の自分なら、そんなことを思うことさえなかった。
明日なんて、どうでもよかった。
何かを楽しみにすることも。
未来を想像することも。
生きることに執着する理由なんて、何もなかった。
でも――今は違う。
美雪がいる。
だから。
明日が欲しい。
*
教室。
「おはよう」
美雪が笑顔で声をかけてくる。
「おはよう」
「今日は早いね」
「寝られなかったから」
「どうして?」
「……いろいろ考えてた」
「病気のこと?」
「うん」
美雪は、少しだけ黙った。
「……怖い?」
蓮は、少し迷ってから答えた。
「怖い」
美雪が驚いたように目を見開く。
今までの蓮なら、きっとこう言っていた。
――大丈夫。
何度も、そう言ってきた。
けれど今日は、嘘をつかなかった。
「……そっか」
「うん」
美雪は少し考えてから、ふっと笑った。
「じゃあ、今日は楽しいことしよう」
「授業あるけど」
「それも含めて」
「授業が楽しい?」
「たまには」
「……嘘だろ」
「失礼だな」
二人は顔を見合わせて笑った。
ほんの小さな笑い声。
でも、その瞬間だけは。
病気のことも。
未来のことも。
何も考えずにいられた。
*
昼休み。
美雪は弁当箱を持って、蓮の席へやってきた。
「一緒に食べよう」
「いいけど」
「今日は特別」
「何が?」
美雪は嬉しそうに弁当箱を開ける。
「これ」
「……卵焼き?」
「うん。食べてみて」
蓮は一つ摘まんで口に入れた。
「……」
「どう?」
「甘い」
「嫌?」
「いや」
「本当?」
「うん」
「じゃあ、もう一個」
「いいの?」
「いいよ」
蓮はもう一つ口に入れる。
「……美味しい」
美雪は嬉しそうに笑った。
「よかった」
「自分で作ったの?」
「うん」
「すごいな」
「これくらい普通だよ」
「俺には無理」
「料理しないの?」
「できない」
「じゃあ、今度教える」
「……今度?」
「うん」
蓮は小さく笑った。
「楽しみ」
「じゃあ、ちゃんと練習しておいてね」
「俺が?」
「もちろん」
二人はまた笑った。
そんな何気ない時間が。
蓮には、とても大切に思えた。
*
放課後。
二人は図書室へ向かった。
「何するの?」
「勉強」
「……」
「何、その顔」
「珍しいと思って」
「私だって勉強するよ」
「そうなんだ」
「失礼」
二人で机に向かう。
静かな図書室。
本のページをめくる音。
鉛筆が紙の上を走る音。
窓の外では、風に揺らされた木の葉が舞っている。
しばらくして、美雪が小さな声で言った。
「ねえ」
「何?」
「雪……」
「?」
「もうすぐ降るかな」
「十一月だぞ」
「でも、もうすぐ冬になるよ」
「まあ、そうだけど」
「雪、見たい?」
「……美雪は?」
「うん。見たい」
蓮は少し笑った。
「じゃあ」
「うん?」
「雪が降ったら、一緒に見よう」
美雪が顔を上げる。
「……約束?」
「約束」
「最初に連絡してね」
「分かった」
「絶対だよ」
「うん。絶対」
美雪は嬉しそうに笑った。
*
夕方。
二人は学校を出た。
空はすでに暗くなり始めている。
風も朝より強くなっていた。
「寒い……」
美雪が肩をすくめる。
「だから上着をちゃんと着ろって言っただろ」
「着てるよ」
「薄い」
「おしゃれ」
「風邪引くぞ」
「綾小路くんみたい」
「俺は?」
「薄着」
「……」
二人で顔を見合わせる。
そして、同時に笑った。
駅までの道。
乾いた落ち葉が、二人の足元を転がっていく。
しばらく歩いたところで、美雪が突然立ち止まった。
「ねえ」
「ん?」
「今日……」
「うん」
「ありがとう」
「何が?」
「普通にしてくれて」
「普通?」
「うん」
美雪は少しだけ笑った。
「病気のことばかり考えたくないから」
蓮は黙って彼女を見る。
「私も……」
美雪は小さく息を吐いた。
「あなたにも、そうしてほしい」
「……うん」
「だから」
美雪が、ほんの少しだけ蓮に近づく。
「普通の高校生みたいに」
「……」
「笑ってよう」
その言葉が、胸の奥に静かに響いた。
普通。
友達と笑って。
学校へ行って。
一緒にご飯を食べて。
勉強して。
帰り道を歩いて。
そんな当たり前の日々。
今まで何とも思わなかったものが――
今の蓮には、何よりも大切なものに思えた。
「……分かった」
蓮は、ゆっくり頷いた。
*
その夜。
蓮は部屋に戻った。
机の上には、今日撮った写真が並んでいる。
昼休み。
美雪の弁当。
図書室。
帰り道。
どれも、特別なものではない。
何でもない一日の写真。
それなのに。
蓮にとっては――
どれも宝物だった。
ノートを開く。
新しいページ。
蓮はペンを持ち、今日の約束を書いた。
㉔ 雪が降った日に、美雪と一緒に見る。
その下に。
㉕ 美雪の手料理を食べる。
と書く。
「……増えてるな」
蓮は思わず笑った。
昔の自分なら。
こんなリストなんて、絶対に作らなかった。
やりたいことなんて、何もなかったから。
でも――
今は違う。
蓮はページをめくった。
まだ、空白がたくさん残っている。
「……もっと書こう」
映画を見る。
一緒に料理をする。
夜の街を歩く。
初詣に行く。
卒業式を見る。
桜を見る。
そして――
その先。
蓮の手が止まった。
少し迷ってから、最後にこう書いた。
㉖ 美雪が幸せになる未来を見る。
書き終えた瞬間。
なぜか、胸の奥が苦しくなった。
それでも。
蓮は、その文字を消さなかった。
*
翌日。
学校。
美雪が教室の窓から外を眺めている。
「雪、降らないかな」
「まだ早いだろ」
蓮が言う。
「でも……」
「うん?」
「楽しみ」
「……俺も」
二人は並んで、同じ空を見る。
まだ、雪は降っていない。
空には薄い雲が広がっているだけだった。
それでも。
冬は、確実に近づいていた。
*
その日の帰り。
蓮は病院からの電話を受けた。
『次回の診察ですが』
「はい」
『治療について、ご家族ともお話しする必要があります』
「……家族」
その言葉を聞いた瞬間。
蓮の表情がわずかに曇った。
『連絡先は分かりますか?』
「……分かります」
『可能であれば――』
「先生」
『はい』
「……俺一人じゃ、駄目ですか?」
電話の向こうが、少し静かになる。
『……治療方針を決めるためにも、ご家族の協力が必要になる可能性があります』
「……分かりました」
電話が切れる。
蓮は、そのまま駅前に立ち尽くしていた。
「……家族」
その言葉が、胸の奥に突き刺さる。
家を追い出された夜。
冷たい雨の中。
荷物を一つだけ抱えて、玄関の前に立っていた自分。
父親の冷たい声。
母親の沈黙。
そして――
目の前で閉じられたドア。
全部。
忘れたつもりだった。
もう過去のことだと思っていた。
でも。
忘れてなんかいなかった。
心の奥に、ずっと残っていた。
*
スマートフォンが鳴る。
美雪からだった。
『今どこ?』
蓮は少し迷ってから、返信する。
『駅』
『まだ帰ってないの?』
『うん』
『どうしたの?』
蓮は画面を見つめた。
何を書けばいいのか分からない。
けれど――
美雪には、嘘をつきたくなかった。
『ちょっと家族のこと考えてた』
送信。
すぐに返信が届く。
『そっか』
『話したくなったら聞くよ』
蓮は、その一文を何度も読み返した。
たったそれだけの言葉なのに。
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
『ありがとう』
そう送る。
すると。
『いつでも』
返ってきたのは、その二文字だけだった。
蓮はスマートフォンを胸に当てる。
「……ありがとう」
誰もいない駅前で。
小さく呟いた。
*
その夜。
蓮はノートを開いた。
新しいページ。
しばらくペンを握ったまま考える。
そして――
㉗ 美雪に、家族のことを全部話す。
と書いた。
蓮は、その文字をじっと見つめる。
すぐには、書いたことを信じられなかった。
家族のことを誰かに話すなんて。
今まで、一度も考えたことがなかった。
それでも。
美雪になら――
いつか話せる気がした。
蓮はページの端に、小さく書き加える。
「いつか。」
窓の外では、冷たい風が吹いていた。
木の葉が舞い、夜の闇へ消えていく。
雪は、まだ降らない。
でも。
蓮は思った。
いつか、この街に雪が降ったら。
美雪と一緒に、空を見上げたい。
そのために。
明日も生きる。
ただ――
その「明日」が、いつまで続くのか。
蓮自身には、まだ分からなかった。
だからこそ。
今日という一日を、大切にしたかった。
何気ない会話も。
一緒に食べた弁当も。
くだらない冗談も。
笑い合った時間も。
全部。
いつか失ってしまうかもしれないからこそ――
今は、何よりも大切だった。




