第二十三章 帰る場所
十一月十三日。
金曜日。
放課後。
空は灰色だった。
今にも雨が降り出しそうな、重たい空。
蓮は教室の窓から、ぼんやりと外を眺めていた。
生徒たちは、一人、また一人と教室を出ていく。
「綾小路くん」
背後から声がした。
振り返ると、美雪が立っていた。
「帰らないの?」
「うん……」
蓮は少し迷ってから答えた。
「どうしたの?」
「……話したいことがある」
その一言で、美雪の表情が変わった。
いつもの柔らかな笑顔が消え、真剣な顔になる。
「分かった」
美雪は小さく頷いた。
「少し……歩かない?」
「うん」
二人は並んで学校を出た。
*
学校から少し離れた公園。
夕方の公園には、ほとんど人がいなかった。
風が吹くたび、木々の葉が静かに揺れている。
二人はベンチに腰を下ろした。
しばらくの間。
どちらも何も話さなかった。
蓮は何度も口を開こうとして――そのたびに閉じた。
「……」
そんな蓮を、美雪は急かさなかった。
何も聞かず、ただ隣に座っていた。
その沈黙が、今の蓮にはありがたかった。
「俺……」
やがて。
蓮が、ようやく口を開いた。
「家族と……うまくいってないんだ」
「うん」
美雪は静かに返した。
「今は……」
蓮は地面に視線を落とす。
「家に帰ってない」
「……帰ってない?」
「うん」
「じゃあ……どこに住んでるの?」
「小さな部屋」
「一人で?」
「うん」
「いつから?」
「……夏から」
「……」
美雪は言葉を失った。
「家を出たの?」
「……自分からじゃない」
蓮はゆっくりと首を横に振った。
「追い出された」
その言葉と同時に、冷たい風が二人の間を通り抜けた。
落ち葉が舞い上がり、二人の足元を転がっていく。
*
「……どうして?」
美雪が、小さな声で尋ねた。
「病気が分かったから」
「……」
「父親は……」
蓮は一度、深く息を吸った。
「俺のことを、面倒な存在だと思ったんだと思う」
「そんな……」
「母親は何も言わなかった」
「……」
「ただ……」
蓮の声が、わずかに震えた。
「父親の言うことを聞いてた」
美雪は、ぎゅっと拳を握りしめた。
「その日……」
蓮は、遠くを見るような目で続けた。
「荷物をまとめて……」
「……」
「玄関に置かれて……」
「……」
「出ていけって言われた」
美雪の瞳に、涙が浮かんだ。
「俺は……」
蓮は笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
「何も言えなかった」
「……」
「何を言っても……」
少しだけ間を置いて。
「意味がないと思ったんだ」
*
蓮は灰色の空を見上げた。
「外に出たら……」
少しだけ笑う。
「雨が降ってた」
「……」
「傘も持ってなかった」
「……うん」
「だから……」
蓮は自分の手を見つめた。
「ずぶ濡れになった」
美雪は、頬を伝う涙をそっと拭った。
「その夜……」
「うん」
「初めて……」
蓮の声が、さらに小さくなる。
「死んでもいいって思った」
美雪の呼吸が止まった。
「……」
「でも……」
蓮は少しだけ笑った。
「次の日になったら……腹が減ったんだ」
「……え?」
美雪が、思わず聞き返す。
「だから……」
蓮は苦笑した。
「コンビニでパンを買った」
「……何それ」
美雪は涙を流しながら、それでも少しだけ笑った。
「分からない」
蓮も苦笑する。
「俺にも分からない」
二人の間に、小さな笑いが生まれた。
けれど、それはすぐに静かな空気へと戻っていった。
*
「それから……」
蓮は、ゆっくり話を続けた。
「一人で暮らしてる」
「学校は?」
「普通に通ってる」
「お金は?」
「バイトしてる」
「病院は?」
「……なんとか」
「……」
美雪は両手を強く握りしめた。
「一人で……」
「うん」
「全部?」
「うん」
「ずっと……?」
「……うん」
その返事を聞いた瞬間。
美雪は、そっと蓮の手を握った。
「もう……」
「……」
「一人でやらなくていいよ」
蓮は何も言えなかった。
ただ、握られた手の温かさだけを感じていた。
「私は……」
美雪は少しだけ迷うように言葉を選んだ。
「家族にはなれないかもしれない」
「……」
「でも……」
美雪は蓮をまっすぐ見つめる。
「友達ではいられる」
「……」
「それだけじゃ足りないなら……」
美雪の目に、また涙が浮かんだ。
「もっと私を頼って」
蓮は初めて、彼女から目を逸らした。
「……そんなこと言われたの」
「うん」
「初めてだ」
「……」
「頼っていいって……」
美雪は何も言わなかった。
ただ、握った手に少しだけ力を込めた。
その温もりが、言葉よりもずっと強く蓮の胸に残った。
*
やがて、日が沈み始めた。
公園の街灯が、一つ。
また一つ。
静かに灯っていく。
「帰ろうか」
美雪が言った。
「うん」
二人はベンチから立ち上がり、駅へ向かって歩き始めた。
「ねえ」
「ん?」
「今日から……」
「うん」
「一人でご飯食べないで」
「……え?」
「私が作る」
「毎日?」
「毎日は無理」
「だよな」
「でも……」
美雪は少し笑った。
「たまには」
「……楽しみ」
「じゃあ、決まり」
*
駅。
二人はホームで電車を待っていた。
「今日……」
美雪が口を開く。
「話してくれて、ありがとう」
「……うん」
「怖かった?」
「何が?」
「話すこと」
「……少し」
「そっか」
蓮は線路の向こうを見つめた。
「でも……」
「うん?」
「話してよかった」
美雪が笑った。
「私も」
*
やがて、電車がホームへ入ってきた。
美雪が乗り込む。
「また明日」
「また明日」
ドアが閉まる。
電車がゆっくり動き始める。
蓮は、電車が見えなくなるまで手を振った。
*
その夜。
蓮は自分の部屋へ戻った。
いつもなら、真っ暗な部屋。
小さな机。
古いベッド。
それだけの、寂しい部屋。
けれど。
今日は、少しだけ違って見えた。
蓮は机に向かい、ノートを開いた。
㉗ 美雪に、家族のことを全部話す。
その横に、
「達成」
と書いた。
そして、その下に新しい約束を書く。
㉘ 美雪の手料理を一緒に食べる。
少し考える。
そして、もう一つ。
㉙ 雪の日に二人で写真を撮る。
そう書いた。
ページを眺めながら、蓮は小さく笑った。
「……まだいっぱいある」
やりたいこと。
叶えたいこと。
会いたい人。
見たい景色。
そして――
隣にいてほしい人。
まだ、全部残っている。
*
その頃。
美雪は自宅のキッチンに立っていた。
冷蔵庫を開ける。
「何を作ろう……」
卵。
野菜。
肉。
冷蔵庫の中を見渡しながら、しばらく考える。
そして――
「……オムライス」
美雪は小さく笑った。
「明日、作ってあげよう」
ケチャップで、何か書こうか。
そんなことを考える。
ハート?
それとも名前?
想像しただけで、少し恥ずかしくなった。
「……何書こう」
しばらく考えた末。
美雪は一人で小さく笑った。
「秘密」
*
翌朝。
蓮のスマートフォンに、一通のメッセージが届いた。
『明日、空いてる?』
『うん』
『じゃあ、ご飯作る』
『本当に?』
『うん』
『楽しみ』
『期待しすぎないで』
『分かった』
『あと』
『何?』
『明日、雪降るかも』
蓮は窓の外を見た。
空はまだ曇っている。
けれど、雪はまだ降っていない。
少し考えてから、蓮は返信した。
『じゃあ、一緒に見よう』
すぐに、美雪から返事が来た。
『約束』
蓮はスマートフォンを胸に抱いた。
そして。
小さく笑った。
「帰る場所って……」
誰にも聞こえない声で、蓮は呟いた。
「家じゃなくてもいいのかもしれない」
今の自分には。
待ってくれる人がいる。
心配してくれる人がいる。
明日を約束してくれる人がいる。
それだけで――
少しだけ。
もう一日、生きてみようと思えた。
いつか。
自分にも「帰りたい」と思える場所ができるのかもしれない。
それが家なのか。
それとも――
隣にいる誰かなのか。
今はまだ、分からない。
ただ。
明日が少しだけ楽しみだった。




